城之内克美×海馬瀬人子。
『Kiss…?』の続きになります。
克美ちゃんは…何だかそろそろ限界っぽいですね。
城之内克美は今…海馬瀬人子の待遇に非常に困っていた。
発端はつい先週のお泊まり会にて、自分が読んでいたティーンズ雑誌を瀬人子に読ませてしまった事による。ただの雑誌なら特に何の問題も無かったのだろうが、運が悪い事に、その雑誌の特集がセックス特集だった事が一番の問題となった。
いや、運が悪かったというのは少々語弊がある。もしこれがいつも通りの何の変哲もない特集だったならば、克美は何も気にしなかっただろうし、瀬人子も全く興味を示さなかっただろう。逆に言えば、セックス特集だったからこそ興味を引かれて手に取ってしまったのだった。
ただこれは、克美に取っては完全に予想外の出来事だった。普段から性的な話題については過剰なくらいに拒否反応を示す瀬人子が、敢えてこの雑誌の特集を読み、そして興味を示してくるとは思わなかったのだ。
既に中学生時代に彼氏と経験してしまっている克美に取っては、この手の話題はもう慣れっこであり、刺激的でも何でもない事だった。故にこの特集についても、ネタ半分で軽く目を通すに過ぎなかった。
しかし瀬人子は違った。全くその手の経験が無い瀬人子は文字だけの情報でそれら全てをイメージするしか無く、しかも下手に興味を引かれてしまった為に、その真偽の程を克美に問いただすようになってしまったのだ。
これがただ質問されるだけだったなら、克美もここまで困る事は無かっただろう。答えられる事はさっさと答え、微妙な質問に対しては曖昧に流せばいいだけの話なのだから。しかし…そう簡単にはいかなかった。
よりにもよって瀬人子は、その雑誌に書かれている事を実践してみろと克美に迫って来ていたのである。
実践と言っても、別に「セックスをしろ!」と押し迫っている訳では無い。瀬人子がして欲しいのはキスだけなのである。友情の範囲から越えず、かつ後で笑って済ませられるキス…それだけなのだ。
確かにそう考えれば、特に何の問題も無いのかもしれない。だがしかし、克美にはそう簡単に済ませられ無い理由があった。
克美は、同性でありながら…瀬人子に恋心を抱いているのだ。
これが本当に友情しか感じていないのなら、克美だって全く気にしなかったであろう。慣れた物だと言わんばかりに、キスくらいだったら何度でもしていたかもしれない。だが克美は瀬人子の事が好きだった。ただのキスが、ただのキスで終わらない可能性があったのだ。
勿論そんな事をすれば大問題に発展する事は、いくら頭が悪いと言われている克美でも嫌という程分かっている。友情と恋愛の間で悩み、好きだと打ち明けて瀬人子にドン引きされ嫌われるくらいならば、まだ親友として側にいたいと恋愛感情を心の奥底に隠す事を決めた事でもそれは明白だ。
故に克美はいつも自分の理性をフル活動させて、恋愛感情を優先する本能と戦ってきた。
瀬人子とのお泊まり会。二人で一緒にお風呂に入る度に、そして同じベッドで眠りに就く度に、克美は自らの高鳴る鼓動に気付かぬ振りをしてきたのである。何も気付かないまま、瀬人子とは親友として過ごしていこうと…そう決めていたのに。
「勘弁してくれ…」
週末恒例のお泊まり会。夕食後に瀬人子に連れられて部屋に入った克美が見たのは、ソファーに置かれていた例の雑誌だった。しかもまだ読み途中だったらしく、雑誌だというのにご丁寧に栞が挟んである。
これ見よがしにわざとらしくこのティーンズ雑誌が置いてある理由は、一つしかない。要は瀬人子が、克美とのキスを諦めていないという事なのだ。
実は軽いキス程度なら、先週の時点でもう既にやってしまっている。瀬人子に「キスをしてくれ」とせがまれたので、仕方なしにキスを施してやったのだ。軽く唇を押し付け合う程度なら、何の問題も無いと踏んでやってやったのだが…。まさかそれが間違いだったとは、流石の克美も思わなかった。
それに味を占めた瀬人子は、何と次の日の朝もそれを強請って来たのだ。それに応えて軽くキスをしてやると、今度は朝食後に強請られ、二人で遊んでいる最中にも強請られ、ランチの前と後にも強請られ、午後のお茶の時にも強請られ、更に克美が帰宅する時にも強請られた。
先程も言ったが、瀬人子に対して克美ががただの友情しか感じていないのなら何も問題は無いのだ。ちょっとした親友同士の悪ふざけになっていただろう。問題なのは、克美が感じているのが友情では無く恋愛感情だからという点、ただそれだけなのだ。
恋をしている相手に何度もキスをするという事は、それだけ無駄にムラムラとした気持ちにさせられるという事に他ならない。勿論この気持ちに気付いているのは恋をしている克美ただ一人であり、瀬人子には何の悪気も無い。興味が湧いて気になって仕方の無いキスを、経験豊かな克美に強請っているだけだ。
ただそれを強請られる克美の方は、堪ったものでは無かった。
何とか隠し通そうとしている恋心を無駄に刺激され、掘り返され、増長させられているのである。いくら瀬人子には何の悪気も無いとは言っても、克美の我慢にも限界がある。酷い話であった。
「あぁ…やっぱり…」
瀬人子が少し席を外した隙に、克美はソファーの上に置かれていた雑誌を手に取って、栞が挟んであるページを恐る恐る覗き見てみた。案の定、そこはキスのページである。その事にかなりゲンナリしつつ、克美は雑誌を元通りに戻して「はぁー…」と大きく溜息を吐いた。
ここまでしつこく強請られれば、いくら鈍い克美でも流石に気付く事がある。瀬人子がして欲しいのは、ただのキスでは無いのだ。
「よりにもよって…ベロチューかよ…」
ソファーにグッタリと座り込み、溜息と共に頭を抱える。先程確認したページには、ハッキリと『ディープキスの魅力』という大文字が踊っていたのだ。
確かに瀬人子に望まれて軽いキスをする度に、彼女は少し不満げな顔をしていた。そして「これが気持ち良いのか? オレには良く分からないな」と首を傾げていたのだ。気持ち良く無いのも当然だ。ディープキスを強請る人間にバードキスをしたところで、満足出来る筈が無い。
だが克美は…これだけはどうしても出来無いと思っていた。
ディープキスをしたく無い訳では無い。むしろしたいのだ。瀬人子の口中に舌を押し入れて、綺麗な歯列をなぞって柔らかい舌を甘噛みして、溢れる甘い唾液を飲み込みたいとずっと思っているのだ。だから「キスをしろ」と言われてそうするのは、実は簡単な事なのだが…。
問題はそちらではない。ずっとそういうキスをしたいと思っていたからこそ、一度してしまったら歯止めが効かなくなるだろうという危機感を嫌という程感じてならなかったのだ。
はっきり言って、克美にはこれ以上自分を押し留めていける自信が無かった。自信が無かったからこそ、危ない橋は渡らないように気を付けて来たのだ。瀬人子にキスをせがまれた時も、敢えてバードキスだけで済ませて来たのである。ギリギリ冗談で済ませられるように…と。
だが、当の瀬人子がその均衡を崩そうとしているのであった。
「マジで勘弁してくれよ…」
克美はもう殆ど泣きそうな声で頭を抱えて項垂れる。
本当にもう辛かった。これ以上美味しそうな餌を目の前にしておきながら、敢えてそれに気付かない振りをして誤魔化す事に限界を感じてならなかったのである。
結局その日も、当たり障りの無いままお泊まり会は進んでいった。一緒にお風呂に入った時も、風呂上がりに二人でゲームをしている時も、そしてそろそろ寝ようとしている今だって、克美は瀬人子の物言いたげな視線に気付いていたが、それを無視した。というより、敢えて気付かない振りを続けていたのである。
もしここで空気を読んでそれに応えてしまえば、否応なくまたキスを強請られる。それだけは避けなければならなかった。
克美の努力の甲斐あって、今日はまだ一度もキスをしていない。瀬人子も敢えて「キス」という単語を、自分の口から出そうとはしていなかった。その雰囲気に克美は心底助かったように、瀬人子に気付かれないようにそっと嘆息する。
あのキスは、先週だけのお遊び。今週は違う。だからもうキスはしない。
そう心に決めていたのだ。だからパジャマに着替えて同じベッドに入り込んだ時、克美は漸く安心する事が出来たのだ。これで眠ってしまえば、瀬人子もこれ以上余計なプレッシャーを掛けてくる事は無いだろうと。
それなのに…そうは問屋が卸さなかった。
最後の最後になって、瀬人子がこう言葉を放ったのである。
「城之内。おやすみのキスは…?」
その問い掛けに克美はビクリと反応し、上半身を持ち上げ恐る恐る背後を振り返った。部屋の灯りは既に消されていて、淡いオレンジ色のヘッドスタンドだけが灯りを灯している。その柔らかい光に照らされて、瀬人子がじっとこちらを見詰めていた。
「えーと…はい?」
「だから、おやすみのキス」
「おやすみの…キス…? 何で?」
「何でとは?」
「だから何で? そんな事しなくちゃいけない訳? 別に恋人同士でも何でも無いのに」
「先週は一杯してくれただろう?」
「先週のは…そういう遊びだったんだろ? アレはもうお終い」
「何故だ? 貴様は遊びでオレにキスをしていたのか?」
「遊びじゃなかったら、何だっつんだよ。本気でキスしろってか?」
全く何も考えていないような瀬人子の言葉に、流石にカチンと来て克美は怒鳴ってしまった。起き上がりかけた身体を完全に起こして、瀬人子の事を強く睨み付ける。そんな克美に対して瀬人子もムッとした表情を返し、何故か枕元に持って来ていた雑誌を掴んで、それをバシバシと手で叩き始めた。
「何故いきなり怒るのだ! そんなに怒る事は無いではないか! オレはただ、この雑誌に書かれている事が本当かどうか実証したいだけなのに!!」
「そんなに実証したければ、彼氏でも何でも作ってソイツと好きなだけやればいいだろ!!」
「貴様じゃないんだ! オレにそんな男はいない!!」
「なっ…!? それどういう意味だよ! オレにだって、今はそんな奴いねえよ!! 大体いないんじゃなくて、作ろうとしないだけだろ!? あっちの男にプロポーズされてた癖に!!」
「そっ…!? それとこれとは話が全く違うだろう!?」
「違わない!!」
「違う!!」
克美の言う『あっちの男』というのは、先日瀬人子にプロポーズして見事に振られたアメリカ人の若手実業家の事である。そのプロポーズ事件が元で、二人で小さな逃避行をしたのはまだ記憶に新しかった。
「城之内!! 大体貴様は、あの男との交際を反対した癖に!! 結婚しないでくれと泣き喚いたのは、どこのどいつだ!!」
「そ…そういうお前だって、オレの友達に嫉妬してた癖に!! オレはもう知ってるんだからな!! そういうの、独占欲って言うんだからな!!」
「だ、誰が嫉妬したのだ!! 独占欲だと…!? 誰が貴様なんか独占したいものか!!」
「現にしたじゃん!! 何言ってんだよ、お前はよ!!」
「貴様こそ何を言っているんだ!!」
「海馬がオレとベロチューしたいなんて言うからだろ!!」
「言ってはいけないのか!!」
「あぁ! いけないね!!」
「何故だ!?」
「っ………!! そ、それ…は…っ!」
危うく「お前が好きだから」と言いそうになって、克美は慌てて自らの口を掌で覆って言葉を飲み込んだ。
言ってはいけない。言ったら終わりだ。どんなに辛くても、この気持ちは隠し通さなければならない。そう。どんなに辛くても…。
けれど克美は、そろそろ自分の気持ちに限界が来ている事に気付いていた。辛くて辛くて辛くて、本当はもう…瀬人子の側にいる事さえ辛くて仕方が無かったのだ。それでも必死に耐えようとしていたのに、当の本人がその気持ちを突っついてくるのだ。
正直言って、もう限界は突破していたのである。
目の奥が急激に熱くなって来て、余りの情けなさと辛さと焦りに、克美はとうとう涙を押し留める事が出来無くなった。
「っ………ふっ…!!」
「なっ…!? じ、城之内…っ!?」
口を塞いだまま突然ボロボロと泣き出した克美に、瀬人子が慌てたように目を瞠った。そしてオロオロと落ち着かなさそうに焦り出し、白くて細い手を恐る恐る克美の肩に乗せる。
「き、急に…どうしたのだ…? どこか…痛いのか…?」
「っ………」
「す…済まない。少し…言い過ぎたな。悪かった…城之内」
「………っ!」
「悪かった。だからもう…泣き止んでくれ…。頼む…」
「………っ…! ふっ…ぅ…」
「お前に泣かれると…どうして良いのか分からなくなるのだ…。城之内…」
涙に塗れる頬に、白い指先が伸びてくる。熱い水滴を何度も指先で拭うが、その涙は一向に止まる気配が無かった。肩をヒクリヒクリとしゃっくり上げながら泣く克美に、瀬人子は心底困ったように眉根を寄せた。
暫し考えた結果、瀬人子は顔を寄せて涙を零す克美の眦に、そっと…キスをした。唇を濡らした塩辛い水滴を舌先で舐めとり、両方の頬にも一つずつキスをする。そして最後に、そっと唇に軽いキスを贈った。何故急にそんな事をしだしたのか自分でも分からなかったが、今はそうするのが最善だと思ったのだ。
それは、瀬人子が初めて自分から誰かに贈るキスであった。キスを貰っていた立場では分からなかった、息苦しさと心臓の高鳴りを強く感じる。
「城之内…。本当に…済まない…。だからもう…泣かないでくれ」
泣き続ける克美をそっと抱き締めて、瀬人子は軽く息を吐く。
自分は変だ。親友にキスをしただけで、こんなにドキドキするなんて。欧米なら当たり前の行為なのに、何故克美に対してはこんな気持ちになるのだろう…。
そう思うと、ますます心臓の動悸が高鳴るような気がしてならなかった。
そしてこの時、瀬人子の腕に抱かれた克美はある決心をしていた。
自らの涙を瀬人子が身に着けている柔らかいパジャマに吸い込ませながら、もう…親友はやめよう………と。