Text - 短編 - 鎮魂歌(後編)

 酷い雨だった。
 通夜の半ばから降り出した豪雨は今年の梅雨の最後の大雨で、参列者の中からは「涙雨だ」という声もちらほらと上がっていた。
 仮に涙雨だとしても、これはちょっと降り過ぎなんじゃなかろうか?
 まぁ若干二十四歳で亡くなった女性を、天が悼むのは分かるような気がするけど。
 持っていた折り畳み傘で何とかマンションまで帰ってきたけど、なるべく急いで帰って来た為、喪服は結構濡れてしまっていた。
 明日の葬儀にも着て行かなくちゃならないのにどうするんだと、溜息を吐きながらドアの前で軽く手で水滴を祓う。
 ついでに鞄の中から鍵を取り出そうとしていると、ドアの向こうからパタパタと廊下を歩いてくる足音が聞こえて来た。
 次いで鍵を開ける音と共にドアが開かれる。
 中から出てきたのはパジャマ姿の海馬だった。
 片手に塩が盛られた小皿を持っている辺り抜かりが無いと、オレは思わず感心してしまう。

「おかえり。酷い雨だな」
「ただいま。スーツが濡れちゃってさ-。参ったよ」
「ほら、塩」

 差し出された小皿を「サンキュ」と言って受け取ると、オレはそこから塩を摘んで肩や胸や足元にパラパラと掛けた。
 あらかた前面に塩を掛けると、今度はドアを押さえて待っていてくれてた海馬にもう一度小皿を渡す。

「海馬、背中。背中にも掛けてくれ」

 くるりと振り返ると、小皿を受け取った海馬は黙ってオレの背中に塩を掛けてくれる。

「ほら、これでいいぞ。早く中に入れ」
「ありがと。助かった」
「風呂の用意はもう出来ているからな」
「あぁ、うん。でもその前にスーツを何とかしないと…」
「それくらいオレがやっといてやるから、お前は早く風呂に入って来い」

 海馬に背中を押されるように風呂場へ直行させられる。
 洗面所に既に着替えが用意されている辺りは流石だった。
 本当に良く出来た『奥さん』だよなぁ…と思う。
 こんな事を言ったら怒られるから、海馬には絶対言わないけど。


 冷えた身体を湯船でしっかりと温めてから風呂から出る。
 リビングには既に綺麗に水気を拭い取ったスーツがハンガーに掛けられていた。

「海馬、ありがと。これで明日の葬儀にも出られるよ」
「そうか。ところで夕食は取ったのか? 夜食程度だったら直ぐにでも出来るが」
「いや、向こうで寿司やら揚げ物やら食べてきたからもういいよ」

 冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いで一気に飲んだ。
 冷たい麦茶が胃に流れ込むのを確認して、ふーっと大きく息を吐き出す。
 ずっと張り詰めていた糸が漸く緩んだように感じた。
 何だか異様に疲れていたのでそのまま寝室に向かって行って、奥に置いてあるクィーンサイズのベッドに倒れ込んだ。
 その様子を見て海馬もあちこちの電気を消して寝室に入り、オレの隣に滑り込んでくる。
 暗闇の中で温かな細い身体を手探りで探し当て、引き寄せてギュッと強く抱き締めた。

「オレに連絡くれた昔の友達がさ-。彼女の事好きだったんだって」

 唐突に話し始めたのにも関わらず、海馬は何も言わずに黙って話を聞く体勢に入っていた。

「半年程前に盲腸で入院した時にな、彼女と再会したんだって。手術の傷が塞がってきたから売店に暇潰し用の雑誌を買いに行ったら、まだ自力で歩けていた彼女がいたんだってさ」
「ほう」
「昔と全然変わって無くって一発で分かったんだとさ。で、中学時代のマドンナに憧れてたヤツは、退院してからも彼女のお見舞いに行くようになったんだって」
「なるほどな。で、告白して付合うようになったと?」
「いや。告白はしたんだけど、見事にフラレたって言ってた」
「何故だ?」
「ん? 何が?」
「告白を断わるには何か理由があったんだろう? その理由とは何だ?」
「あぁ、そういう事か。理由は二つ。一つは自分が末期癌患者だった事。そしてもう一つは…、昔の彼氏が忘れられなかったからなんだと」
「それはお前の事か?」
「まぁ…そうらしい。あれから十年も経ってるのにさ。高校でも大学でも彼氏を作らなかったんだって」
「お前をフッたのは彼女の方だったんだろう?」
「うん…。でも仕方無かったと思うよ。あの頃のオレは本当に荒れてたから。女の子には怖かったんじゃないかな」
「そうか」
「でもさ。十年もずっと覚えてて貰えるなんて、やっぱり光栄だよな」
「そうだな。良かったな」
「うん…。良かった…かな」

 そこまで話してたら急に帰る直前に見た映像が思い出されて、オレは温かな身体を抱く腕に力を込めた。
 何事かと見上げる海馬の肩口に顔を埋め、深く息を吸う。
 嗅ぎ慣れた海馬の匂いがして妙に安心した。

「帰る直前にさ、死に顔見せて貰ったんだ。家族の人にせっかくだから会ってやってくれと言われてな」
「………」
「綺麗だったよ。花に囲まれて白い顔して眠ってるみたいだった。一ヶ月前より更に痩せちゃってたみたいだけど…。頬とかに綿とか入れるんだっけ? 痩せた顔は上手く誤魔化せてるみたいだったな」
「………。そうか」
「でも、オレ…怖かったんだ」
「怖い?」
「うん、怖かった…。別に彼女が怖いとかそういうんじゃない。彼女が亡くなって、周りの皆も彼女の死に悲しんでいるっていうのに…。オレ、お前の事が頭に浮かんだ。ていうか、お前の事しか考えられなかった」
「………? どういう事だ?」
「こんな風にお前が死んじゃったら、オレどうなっちゃうんだろうって思って。白い顔して花に囲まれて棺の中に収まってるお前なんか、オレは見たくないって思った」
「お前な…」
「オレ…酷いよな。昔の彼女が死んだっていうのに。それもまだ二十四歳の若さであの世に逝っちまったっていうのに。頭に浮かぶのはお前の事ばかりなんだ」
「オレを勝手に殺すな」
「はは…。ゴメンな。でも本当にそう思っちまってさ。そうしたら凄く不安になって、一刻も早くお前に会わなきゃって思って、急いで帰ってきたんだ」
「城之内…」
「オレ…お前が大事だよ。滅茶苦茶好きですっごく大事だ。あんな風になくしたくない。死んで欲しく無い」

 いつの間にか流れ落ちていた涙が、海馬のパジャマに吸い込まれていった。
 これは一体誰の事を思って流す涙なのだろう。
 亡くなった彼女に対してのものだろうか。それとも心から愛している海馬の事を思っての涙なのだろうか。
 震えながら涙を流すオレの背中に、温かな手が回り優しく撫でてくるのを感じた。
 そしてそのリズムに合わせて、耳元で優しいメロディーが流れ出す。
 海馬が歌を口ずさむ事自体珍しい事だが、そのメロディーは今まで聞いた事の無い曲だった。

「何…その歌?」
「これか? 鎮魂歌≪レクイエム≫だ」
「鎮魂歌?」
「昔オレとモクバが世話になってた施設の園長先生が歌っていたものだ」
「へぇー」
「ある日皆で大事に飼っていたウサギが死んだ事があってな。園庭の片隅に墓を作ってやったのだ」
「あぁ、小さい頃はそういう事するよな」
「次の日にモクバがウサギの墓に花を添えたいと言い出してな。そこら辺で摘んだ花を墓に持って行ったら、そこに園長先生がいてこの歌を歌っていた」
「ふーん」
「モクバが『何の歌ですか?』と聞いたら、園長先生は笑って『鎮魂歌よ』と教えてくれた。後から聞いたらクリスチャンだったそうだが」
「あぁ、それで…」
「妙に頭に残る歌だったが、何せ小さい頃の記憶だからな。もう殆ど忘れてしまった。歌詞は元より、メロディーさえもこの一節しか覚えていない」
「でも…綺麗なメロディーだな」
「あぁ、オレもそう思った。だからここだけ覚えているのかもしれないな」

 そう言って海馬はもう一度口ずさみ始めた。
 本当に綺麗なメロディーだと思った。
 鎮魂歌だと言うのに、全然暗くもないし陰鬱な雰囲気も無い。むしろどこか安心するような、そんな不思議な響きを持ったメロディーだと思う。
 ふと、この歌が彼女に届けばいいなと思った。
 こんなに美しいメロディーを聴かされたなら、若くして他界してしまった彼女の魂も安らぐ事が出来るだろうと、根拠も無いのにそう思ってしまう。
 いや、思ったんじゃない。願ったんだ。
 彼女の魂が安らかでありますようにと、オレはここで初めて本気でそう願った。


 歌い続ける海馬の身体に手を掛けて、オレは身体を反転させて海馬を仰向けにベッドに縫い付けた。
 一瞬驚いたような顔でキョトンとオレを見上げる海馬に、優しく笑ってみせる。

「城之内…?」
「ゴメン、海馬。セックスさせて」
「それは構わないが…。いいのか? 明日も早いのだろう?」
「うん、いいの。ていうか、今しなきゃダメなんだ」

 大人しく寝転がっている海馬のパジャマに手を掛けて、一つずつボタンを外していく。
 現れた白い胸に掌を這わせた。
 ピクリと反応する海馬に気を良くして、唇も寄せて白い肌に点々と赤い印をつけていく。
 温かな体温。熱い吐息。弾む心音。そしてオレの愛撫に反応して漏れる甘い喘ぎ声。
 それら全てが海馬が確かに生きている事をオレに教えてくれていた。
 もうどうしようも無く愛しかった。
 海馬の身体と、海馬の心と、海馬の命と。
 血や肉や骨等の海馬を形作るそれら全てと、そして海馬の存在自体が愛しくて堪らなかった。
 海馬が今生きていてくれる事に、心から感謝する。
 命あるものはいつかは必ず死んでしまう。
 それはオレや海馬だって、勿論例外では無い。
 だけどもしその瞬間が訪れた時、オレは絶対に後悔しないだろうと思っている。
 後悔ではなく感謝だ。
 こんなに愛しく思える存在に出会えた事への、そして側にいられた事への。
 先程まで不安で不安で仕方の無かった心が落ち着いていく。

「ありがとな…」

 荒い息に載せて小さく囁いたら、それはしっかりと海馬の耳に届いていたらしい。
 潤んだ瞳を開けてフワリと微笑み、オレの顔を引き寄せてキスをしてくれた。


 翌日は昨日の雨が嘘のような雲一つ無い晴天だった。
 葬儀が終わり親族と共に火葬場へと向かう霊柩車を見送って、オレは抜けるような夏空を仰ぐ。
 頭の中で、昨夜海馬が歌ってくれたメロディーが流れていた。
 一節だけしか流れない、だけど優しい優しい鎮魂歌。

「どうか安らかに」

 空を見上げて微笑みながらそう呟いたら、『ありがとう』と言って微笑む彼女の姿が見えるような気がした。