その日の昼頃、海馬は弁当を二人分作って学校に来ていた。
本当は学校になんて来る気分では無かった。
だが数日前に今日の昼食を一緒にする事、そしてその為の弁当を自分が作っていく事を約束していた為、仕方無く登校する事にしたのだ。
約束を破るのは本意ではない。
元来真面目な性格で約束を破るなどという行為が大嫌いな上に、城之内が自分の手作り弁当をどれだけ楽しみにしているのか、良く知っていたからだ。
昇降口に入ると丁度四時限目の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
その音を聞きながら海馬は教室に向かうのを止めて、城之内が待って居るであろう屋上に真っ直ぐに向かう事にした。
屋上に繋がる重い扉を開いて覗き込めば、いつもの場所に座り込んだ城之内がこちらに気付いて笑顔を浮かべた。
その優しい笑顔に少し癒されて、海馬は彼の元へと近付いて行く。
「よぉ! 遅かったな。午前中いなかったから今日はもう来ないのかと思ったぜ」
「すまない…。少しやる事があったのでな。だが弁当はちゃんと作ってきたぞ」
「やりぃ! 待ってて良かったぜ-。楽しみにしてたんだよなぁ」
海馬から弁当箱を受け取り嬉しそうに包みを解いている城之内を見て、海馬もその直ぐ脇に座り込んだ。
余程空腹だったのだろう。
自分用の小さい弁当箱を開く頃には、隣の城之内はもう中身を食べ出してしまっていた。
「今日は朝から体育でさー。あ、この卵焼きうめぇ。しょっぱなから体力使っちまったから腹減ってしょうが無くてさー。ハンバーグ最高! 味付け丁度いい!」
ムシャムシャと弁当を食べながら今日の出来事を嬉しそうに話す城之内を、海馬は黙って見詰めていた。
こういう城之内を見るのは好きだった。
彼が嬉しそうにしていると、何故か自分も嬉しい気持ちになれたから。
だけど今日だけはどうしてもそんな気持ちになる事が出来ない。
膝の上に置いた自分の弁当は、いくらも中身が減っていなかった。
やがてそれに気付いた城之内が、ひょいっと海馬の顔を覗き込んでくる。
そして心配そうに眉を顰めて口を開いた。
「どうした海馬。全然食べてないけど、大丈夫か?」
その言葉で城之内に無駄に心配をかけさせたのだと知って、海馬は慌てて取り繕うように笑顔を浮かべて首を振った。
「だ…大丈夫だ。少し…食欲が無いだけで…」
「食欲が無いって…。風邪でもひいたのか? 具合悪いなら保健室行くか?」
「そこまでしなくても平気だ。ただ…ちょっと…」
『ただちょっと』。
そこまで言いかけて、海馬は慌てて自分の口に掌を当てる。
自分は今何を言おうとした?
流れに乗って思わず口が滑りそうになった事を、激しく後悔する。
城之内に心配はかけさせたくない。
まだ妊娠したんだと確定した訳じゃない。
無駄な心配をさせて彼を自分のように悩ませたりさせたくない。
だけど…だけど…。
自分を心から想っていてくれている城之内の顔を見た瞬間、ここ数日間悩みに悩んで疲弊した己の感情がついに決壊していくのを感じていた。
瞳の奥がじわっと熱くなり、途端に水滴が溢れて頬を伝っていく。
「っ…! ぅ…ぅっ…!」
口元に掌を当てたまま海馬はボロボロと泣き出してしまう。
何とか嗚咽を堪えようとするが、声は掌の隙間から勝手に漏れだしてしまっていた。
ひっくひっくと泣き続ける海馬に焦った城之内は、慌ててそのしゃっくり上げる細い肩を己の胸に引き寄せて抱き締める。
「な…ななななんだ!? 急にどうしたんだ? どこか痛いのか? 苦しいのか?」
心配しながら焦ったようにそう声を掛ける城之内に、海馬はただ首を横に振るだけだった。
原因が分からずただボロボロと泣き続ける海馬に尋常ではない雰囲気を感じて、城之内は抱き締めた海馬の背中をただ撫でる事しか出来ない。
暫くそのまま背を撫でていると、突然後ろから可愛らしい声が響いてきた。
「ちょっと! 何海馬君泣かしてるのよ! アンタが苛めたんじゃないでしょうね? 城之内!」
その声に城之内が慌てて振り返るといつの間に屋上に来ていたのか、杏子が仁王立ちになってこちらを睨み付けていた。
「久しぶりに海馬君が来てるっていうからここまで来てみれば…。何でこんな事になってる訳?」
「ご、誤解だ杏子! オレだって今急に泣き出されて、訳が分からないくらいなんだから…っ!」
その台詞に杏子は暫く疑わしそうに見ていたが、やがて城之内の目に嘘が無い事を見てとって、そのまま海馬へと近付いて来た。
そして目線を合せる為に膝を付いて海馬の顔を覗き込んだ。
「海馬君。一体どうしたの?」
「真…崎…」
いつもは澄んだ空のような青い瞳を真っ赤に染めて、海馬は杏子と目を合わせる。
自分の事を心から心配してくれている恋人と親友に、海馬はもう押し黙っている事が出来なくなっていた。
この重い問題を自分一人で抱えるのは…最初から無理な話だったのだ。
「っ…。り…が…っ」
しゃっくり上げながらも、それでも何とか言葉を紡ごうと必死になった。
言葉にしようとするとまた感情が込み上げてきて新たな涙が溢れてくる。
それでももう…我慢の限界だった。
「生理…が…、来な…い…んだ…っ!」
半ば叫ぶように口にした言葉に、恋人と親友がピシリと固まったのが見えた気がした。
涙は一向に止まる気配を見せず、しゃっくり上げながらそれでも海馬はポツポツと二人に自分の身に起きている事を話していた。
そして考え得る全ての選択を、自分で選ぶ事は無理な事もしっかりと話した。
杏子が水で濡らしてきてくれたハンカチを目元に当てながら、全てを話し終えた海馬はふーっと深く息をつく。
屋上には暫く無言の時間が流れていた。
誰も何も言う事が出来ない。
初夏の風が強く吹いて海馬の髪を撫でていく。
その感触で海馬はふと顔を上げると、城之内に向かって小さく声を発した。
「………すまない…」
震える声で小さく発せられたその言葉に、城之内は瞳をキッと吊上げて海馬を睨み返す。
「何で謝るんだよ」
「そ…それは…」
「謝るなよ。お前は何も悪く無いじゃんか」
「だけど…」
「共同責任だろう? お前が謝るならオレも謝らなきゃいけない。お前はオレに謝って欲しいのか?」
「嫌だ…っ! そんな事…して欲しくない」
「だろう? それにコレって謝らなきゃいけない事なのか? オレは違うと思う」
海馬を睨んでいた瞳はいつの間にか柔和に微笑んでいた。
そしてそのまま海馬の白い手に自分の熱を持った大きな掌を重ねると、ギュッと力を入れて握りしめる。
まるで城之内の熱が流れ込んでくるような感覚に翻弄されていると、突然グイッと引っ張られて海馬はいつの間にか城之内の胸に抱かれていた。
優しく抱き締められて何度も頭を撫でられて、そして耳元に決意を込めた言葉が流れ込んでくる。
「海馬。今すぐ結婚しよう」
その宣言に海馬は慌てて顔を上げて城之内の顔を見詰め、側で見守っていた杏子は「はぁ?」と素っ頓狂な声を出した。
女性陣二人の意外な反応に、城之内も驚いて目を丸くする。
「え? オレ今何か変な事言ったか?」
「変な事は言ってないけど…。城之内…、アンタまだ十七歳でしょう? 結婚は出来ないわよ」
「ん? 出来るだろ? 日本って確か十六歳で結婚出来るんじゃなかったっけ?」
「それは女の子の方よ。男は十八歳にならないとダメなの。アンタまだ誕生日来てないじゃない」
杏子の言葉に城之内は一瞬「しまった!」という顔をしてしまう。
だが次の瞬間には「そんなのは関係無い!」と叫んで気持ちを切り替えてしまった。
「今結婚出来ないのなら、籍を入れるのは誕生日まで待つ事にする。だけど結婚はする! 絶対に!!」
力を入れて腕の中の海馬を抱き締めながら、城之内は強く強く宣言する。
「オレの子供を堕ろすなんてダメだ! それでお前の身体に傷が付くのはもっとダメだ! 絶対幸せにするから…っ! 命がけでお前の事守るから…っ! だから堕ろすなんて言わないでくれ…っ!! オレの子供の事でそんな風に泣いたりしないでくれ…っ!! 頼むよ、海馬ぁ…っ!!」
城之内は叫びながらいつの間にか泣いてしまっていた。
強く抱き締められながら城之内の声が涙声に変わっていくのを海馬は間近で感じ、その事に酷く胸を痛めた。
彼の涙を止めてあげたくて、海馬もその首に両腕を絡みつかせて強く抱き締め返す。
「泣くな…城之内…っ!」
「泣いてねーよ…っ! 泣いてんのはお前だろうが…っ!」
「今だってしっかり泣いてるじゃないか…、馬鹿が…っ!」
「馬鹿に馬鹿って言う方が馬鹿なんだぜ…っ。知ってるか、この馬鹿…っ!」
昼休み終了間近の屋上で、十七歳の男女が強く抱き締め合いながらわんわんと声を上げて泣いていた。
初夏の風がまた強く吹いてくる。
杏子は見守っていた二人から目を離してそっと空を見上げた。
(アテム…?)
杏子には強く吹いてくるその風が、何故だか「大丈夫だよ」と言っているような気がしていた。
そしてもう一度二人に目を遣った時に、海馬が無意識に下腹部を手で覆っている事に気付いてしまう。
「海馬君」
泣き声が大分治まったのを見て、杏子は海馬に声をかける。
「ねぇ、もしかしたらお腹痛いんじゃない? ちょっとトイレに行ってきたら?」
杏子の言葉に海馬は顔を上げ、泣き腫らした目でパチパチと瞬きをした。
手で下腹部を撫でると、確かにそこが重く痛んでいる事に気付く。
「………。ちょ…ちょっと…行ってくる…」
よろよろと立ち上がり覚束ない足で海馬は屋上を出て行く。
そして数分後。
彼女は微妙な表情で屋上に戻ってきた。
「海馬…?」
心配そうに声をかける城之内に、海馬は引き攣った笑いを浮かべて口を開いた。
「あ…。その…。何というか…」
「海…馬…?」
「少し…その…遅れてただけ…だった…みたいな…」
「えっと…。ま…まさか…。生理…来た…?」
「………。来た…」
最後にボソリと呟かれたその言葉に、城之内は力を無くしてヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
その姿に慌てて側に近寄ると、海馬は城之内に強く抱きつく。
「すまない! 本当にすまない! オレの早とちりだったみたいだ…っ! いらぬ心配をかけさせて本当にすまなかった…っ!!」
必死で謝る海馬の身体に、城之内も腕を回して優しく抱き締め深く息を吐き出した。
そして琥珀の瞳で真っ直ぐ海馬を見詰める。
その顔は真剣そのものだった。
「城之内…?」
思わず問いかける海馬に、城之内は真剣な表情を崩さずに真面目な声色で淡々と告げる。
「海馬…。今回は何も無かったからいいけど…。でも、これだけはよく覚えておいてくれ。オレがさっきお前に言った事は全部本音だからな。お前を一生幸せにしたいのも、生涯お前を守り続けたいと思っているのも、オレ達の子供の事で泣いて欲しく無いのも。全部本当の事なんだからな」
そこまで言って城之内は海馬の細い左手を手に取った。
そしてその薬指の根元を撫でながら、少し顔を赤くして告げる。
「高校を卒業してオレが立派な社会人になったら、ここに指輪を嵌めて欲しい。オレが買える程度のものだから安物しか買ってあげられないと思うけど…。それでも嵌めて欲しいと思っている。なぁ…ダメか?」
城之内の言葉が一体何を指し示しているのか、海馬にはよく理解出来た。
泣き腫らした目を今度は嬉し涙で潤ませて、海馬はくしゃりと笑って答える。
「結婚記念日は今日でいいか? オレはずっとジューンブライドに憧れていたんだ」
泣き顔で笑い合う恋人同士と、それを少し呆れた顔で見守る親友の間を、また初夏の強い風が吹き抜けていった。
それはまるで「良かったな」と言っているようだった。