城之内+海馬。
以前UPした同タイトルの『冷たい手』とは、全く繋がりがありません。ご了承下さい。
あと今回嘔吐ネタがあるので、その手の表現が苦手な方はご注意下さいませ。
胃の奥からせり上がってくるものを感じて、城之内は思わず口元に手を当てた。何とか耐えようとしても、内臓が激しく動いて消化仕切れなかったものを体外に押し出そうとしてくる。
慌てて席を立ち上がってトイレへ向かおうとした。教室の後ろのドアから廊下に出ようとした時に、丁度向こうから歩いてくる海馬と目が合う。城之内のただならぬ様子に驚いたように海馬が足を止めたのを見て、慌ててそこから数歩後ろに後ずさった。そしてついに耐えきれずにその場で崩れ落ち、廊下の真ん中で胃の中のものを全て吐き出してしまった。
このところ学校内で見かける生徒の数が減っていた。近年希に見るインフルエンザの大流行で、あちらこちらの教室が学級閉鎖に追い込まれていたからである。城之内達のクラスはまだ閉鎖にまでは至っていなかったが、既に何人か休む者も出て来てしまっていた。普段一緒に過ごしている本田や漠良も数日前から姿を見せていない。勿論病名はインフルエンザである。
「やっぱりあの二人がいないと、つまらないよねー」
授業の合間の休み時間。遊戯がそう面白く無さそうに呟いた。それに杏子も頷いて同意する。
「今回のインフルエンザは一回かかると結構辛いみたいだし…、ちょっと怖いわね。二人とも大丈夫?」
「僕は大丈夫だよ。ちゃんと手洗いとうがいはやってるしね」
「城之内は?」
「オレはインフルエンザに掛かるような柔な身体はしてねーよ」
そう胸を張って応えると、遊戯も杏子も「城之内君はいつも元気だからね」と言って安心したように笑っていた。
二人を安心させる為にそうは言ったが、実は城之内は朝から何となく気怠さを感じていたのだ。早朝の新聞配達から帰ってきた時は少し熱っぽいと思っていただけだったのに、今は確実に背中にゾクゾクとした悪寒を感じている。二人に気付かれないようにそっと額に手を置くと、自分の手ですら分かるくらいにそこが熱くなっているのが分かった。更に具合はどんどんと悪くなっていき、今では朝には気付かなかった胃の不快感まで感じられるようになっている。
それでも次の授業は何とか受けているものの、一分一秒毎に城之内の具合は悪くなっていく。ただの不快感が吐き気に変わるまでにはそうそう時間はかからなかった。黒板の上に掲げられている時計を何度も睨み付ける。
あと十五分…。あと十分…。あと五分…と、授業が終わるまでの時間を気の遠くなるような思いで見詰める。
この授業が終わったら保健室に行こう…。そう城之内が思った時だった。それまで何とか大人しくしていた胃が、突然動き始めた。体調の悪さ故に完全に消化しきれなかったものを体外に排出して楽になろうと、本人の意志を無視して胃液を逆流させる。
もうダメだ…! これ以上は我慢出来ない!!
そう感付いた城之内は慌てて席を立ち上がって、教室の後ろのドアから廊下に飛び出した。驚いたように名前を呼ぶ教師に理由を告げる暇も無い。廊下に一歩足を踏み出し、トイレのある方向を向いた時だった。向こう側から海馬が歩いてくるのが見えた。
多分時間に調整を付けて途中から登校して来たのだろう。授業中でまだ誰もいない廊下を、背筋をピンと伸ばして規則正しいリズムで歩いてくる。キュッキュッという上履きが廊下のタイルに擦れる音が城之内に向かって近付いて来ていた。
ふと、少し俯き勝ち加減で歩いていた海馬が、人の気配に気付いて顔を上げた。そして目の前に居た城之内の顔色を見て、驚いたようにその足を止めてしまう。二人の間の距離はおよそ一メートル程。足を止めた海馬に気付いた城之内は更にそこから数歩下がり、ついに耐えきれずにその場に崩れ落ちてしまった。そしてそのまま身体の意向に従って、胃の中に収まっていた内容物を全て吐き出してしまう。
「うっ…! げぇ…っ!! ゲホッ…ガハッ…!!」
城之内の奇行に何となく廊下を見ていた生徒数人がいち早く異変に気付き、未だ授業中だというのに悲鳴をあげた。
「先生! 大変です! 城之内が廊下で吐いてます!!」
ある一人の生徒の叫びにより教室内はあっというまに騒然となる。ガタガタと何名かが席を立つ音が聞こえ、教師も教室の前の扉から廊下を覗き込み「うわっ!」と声を上げた。
その声を聞きながら(何が「うわっ!」だよ…。こちとら本気で具合悪いんだ…)と城之内は内心で舌打ちをする。本当だったら今この場であの教師に向かって文句を言ってやりたかった。だが吐き気は一向に収まっておらず、もはや出るものは胃液だけしか無いというのに何度も吐き続けていた。体内からものを吐き出しているせいで上手く呼吸が出来ず、苦しくて涙が零れ落ちる。ゼーハーゼーハーと苦しげに呼吸を繰り返し、何度も咳き込んだ。
だがふと…その苦しさが少し楽になったのを感じる。誰かが自分の背を優しく撫でていた。
最初は遊戯かと思った。だが彼が「城之内君! 大丈夫!?」と叫びながら教室の後ろのドアから飛び出してきたのを見て、自分を支えている人物が遊戯ではない事を知る。
では、この手の持ち主は一体誰だ…? そう思った時、自分の背を撫でている人物が遊戯に向かって話しかけた。
「遊戯。今すぐコイツを保健室に連れて行け」
海馬だった…。
何とか海馬の顔を見たくて後ろを振り返ってみようとするが、寒気と震えが走って身体の自由が効かない。そうこうしている内に海馬に向かって「うん、分かった」と頷いた遊戯は城之内の腕を持って引っ張り上げた。身体は小さくてもそれなりに力がある遊戯に凭れ掛かって、城之内は何とか立ち上がる。そして「大丈夫?」と気遣う遊戯に頷きつつ、保健室に向かって歩き出した。
自分の背後ではクラスメート達が「汚ねぇー!!」とか「臭せぇー!!」とか好き放題に騒いでいる。好きで吐いた訳でも無いのにそんな事を言われればやはり傷付くが、もし自分があちら側の立場だったら同じ事を言ったかもしれない…と思うと遣り切れなかった。ただ背後から掃除道具が入ったロッカーが開かれる音と、杏子の「煩いわね、アンタ達!! 邪魔だからあっち行っててよ!!」という怒鳴り声が聞こえて少しだけ安心した。
保健室に辿りつき、養護教諭に適切な処置をして貰った城之内は、今はベッドで静かに休んでいた。遊戯は次の授業の為に教室に戻って行ってしまったし、養護教諭も用事があるとかで席を外してしまっている。静かな保健室の中で、城之内は一人で落ち込んでいた。
窓から涼しい風が入ってきてそちらに視線を向けると、厚手の白いカーテンが緩やかに揺れている。秋らしい涼しい風に、城之内は小さく溜息を吐き瞼を閉じる。二ヶ月程前、海馬に自分の気持ちを告白した頃はもっと熱い風が吹いていた筈だと、疲れた脳裏で思い出した。
今から二ヶ月程前、夏休みに入る直前の暑い日の放課後だった。たまたま海馬と二人で補習を受ける事になった城之内は、放課後の誰もいない教室で今と同じように揺れるカーテンを見詰めていた。
青い夏空と白い入道雲。校庭や体育館からは運動部のかけ声が響き、音楽室の方からはブラスバンド部の練習音が鳴っていた。騒がしい程の蝉の大合唱と、遠くの空を飛んでいくジェット機のエンジン音。
「なぁ…海馬。オレ…お前の事が好きなんだ…」
少し…感傷的になっていたんだと思う。本当は告げる筈の無かった想いを、何気なく…本当に何気なく伝えてしまった。
プリントにペンを走らせていた海馬は驚いた表情で顔を上げ、じっと城之内を見詰めていた。そのまま二人で無言のまま見つめ合う。短くて長い時間だと思った。多分お互いに見つめ合っていた時間は五分も無かっただろう。なのにもう一時間以上もそうしていたようにも感じてしまった。
先に動いたのは海馬だった。ふぅ…と溜息を吐くと、軽く瞳を伏せ口を開いた。
「それで…? お前はオレに何を求めているんだ…?」
「別に何も」
「何も?」
「うん。男同士だし、お前だってオレを受け入れられる訳じゃないだろ? だから、別に何も求めてないよ」
「………」
「海馬…?」
「少し…。少し待っててくれ」
「え…?」
「よく…考えてみたいんだ。だから少し…待っててくれ」
その時の会話はそれで終わってしまった。だから城之内は正式にはフラれた訳じゃないと思っている。思うけれど…フラれたも同然だよなぁ…とも思っていた。
(情けないとこ…見せちまったな…)
はぁ~っと盛大に息を吐き出しつつ、城之内は布団を頭まで被った。布団の向こうから授業終了のチャイムが鳴っているのが聞こえる。
海馬の前で情けない姿を晒す事だけは嫌だった。それなのに身体が保たなかった。せめて自分の吐瀉物で彼を汚す事の無いように数歩後ろに下がり、そしてそこで我慢出来ずに吐いてしまったのだ。あの時の海馬の驚いたような顔が脳裏にこびり付いて忘れられない。きっと本気で幻滅してしまっただろう。
「終わったな…」
そう小さく呟くと、突然ガラリと保健室のドアが開く音が聞こえた。軽やかな足音と共に、カーテンの隙間から遊戯が顔を出す。
「城之内君、具合どう?」
「遊戯か…。あぁ…少し良くなった。もう少し休んだら今日は早退するよ…」
「そっか」
「なぁ、遊戯。廊下…どうなった? オレ汚しちゃって…」
「もう! そんな事気にしなくていいんだよ」
「でも気になるじゃんか。誰か掃除してくれたのか?」
「うん。杏子と…あと海馬君が」
「え…? 海馬…が…?」
遊戯の応えに城之内は心底驚いて目を丸くした。杏子が掃除してくれたのは何となく予想が付いていた。背後で失礼な奴らを怒鳴っているのが聞こえていたから。だけど海馬が掃除をしてくれたとは…完全に予想外だった。
「海馬君、偉いんだよ。僕が教室に戻った時は掃除は殆ど終わってたんだけど、海馬君ったらちゃんと雑巾で水拭きしてたんだ」
「あの海馬が…? ま…まさか…?」
驚きに震えた声を出した時だった。再び保健室のドアが開く音がして、今度は大股でゆっくりとした足音が城之内の寝ているベッドまで近付いて来る。そして遊戯の背後から現れた姿に、城之内は息を飲んだ。
「海馬…」
城之内がその名を小さく呼ぶと、海馬は視線をずらして遊戯の方を見詰める。そして「悪いが少し席を外してくれないか?」と問いかけた。遊戯は一瞬心配そうに城之内と海馬の顔を交互に見ていたが、海馬の表情が予想外に穏やかなのを見て取ると、コクリと頷いて教室に戻っていく。遊戯の気配が完全にいなくなったのを確認して、海馬はベッド脇のパイプ椅子に座って城之内の顔を見詰めた。
「具合はどうだ?」と問いかけて来る海馬に、城之内は慌てて首を縦に振った。
「あぁ…うん。もう大丈夫。まだ少しダルイけど…さっきよりは全然いいから」
「そうか」
「あ…あの…海馬…」
「何だ?」
「えーと…。オレの吐いたの…掃除してくれたんだってな…。さっき遊戯から聞いたんだ。悪かったな…ありがとう」
「別に。慣れているからな」
「慣れて…? お前が…?」
「今はそうでもないが、施設にいた頃はよくあぁやって掃除していたぞ。モクバを始めとして小さい子供達は、すぐに熱を出してはよく吐いていたからな。それを片付けるのは年長者の役目だったし、慣れれば別に大した事では無い」
「で…も…。あんなに汚いもの…」
「気にするなと言っているだろう。誰でも具合が悪くなれば、吐く事だってある。それとも嘔吐した事の無い人間がこの世の中にいるとでも?」
「いや…。いないと…思います…」
「そうだろう。ならば気にする事など何も無い」
海馬の目を見れば、彼が言っている事が嘘では無い事が分かった。海馬は本当に大した事なさそうにケロリとしている。だがそれで城之内の罪悪感が無くなった訳ではない。普通だったら誰もが嫌がる汚くて臭い吐瀉物を掃除するのは、やはり大変な作業だろう。現に普段は仲良くしているクラスメート達も、あの時ばかりは誰も近寄ろうとはせず悪態ばかりをついていた。それが普通だと思っていたのに…。
「海馬…。お前…凄いな」
「そうか?」
「うん…」
心底申し訳無いと思って目を瞑って深く息を吐き出すと、熱を持って火照る頬に何か冷たいものが触れた。目を開けるとそれは海馬の白い手である事が分かる。その手は熱を確かめるように頬を包み込み、そしてそのままそろりと上がって来て前髪を掻き分け額に掌を押し付けられる。ヒヤリとした海馬の手が心から気持ちいい思った。
少し冷たくて荒れ知らずの滑らかな手。細くて白くて繊細な…そして何より優しい優しい海馬の手。この手に自分が吐き出した汚れ物を触れさせたのだと思うと、城之内は遣り切れなくて仕方が無かった。だが海馬は全くそんな事を気にしてはいないらしい。一通り城之内の体温を確かめると、その手はゆっくりと戻っていった。
「まだ熱が高いな。今日はもう帰れ」
「うん。そうする…」
「あぁ、そうだ。城之内」
「ん…? 何?」
「考えが纏まった」
城之内は一瞬海馬が何を言っているのか理解出来なかった。だが次の瞬間に、その言葉の意味に気付いて顔を赤くする。
ずっと聞きたくて聞きたくて仕方の無かった海馬の返事。だけど今はそれが凄く怖かった。あんな姿を晒した後では、色良い返事などとてもじゃないが望めそうになかったから。
恐る恐る海馬の顔を見上げてみる。てっきり完全に呆れられている表情が浮かんでいると思われた海馬の顔は、何故か心無しか穏やかだった。その顔を見て、城之内は思いきって自分から切り出してみる。
「それで…? 返事はどうなの…?」
「さて…どうしようかと思っているのだ。ここで重要な事など告げたら、今の弱りきっているお前じゃ心臓麻痺でも起こして死んでしまいかねん」
「なんだよそりゃ…。オレ心臓強いから大丈夫だよ。バトルシティの時だって、心停止してもちゃんと戻ってきただろ?」
「あぁ、そうだったな」
海馬は城之内の言葉に面白そうに笑い、パイプ椅子から立ち上がった。そしてそのまま踵を返して立ち去ろうとしているのを見て、城之内は慌てて止めようとする。
「お、おい! どこ行くんだよ!」
「悪いがこれ以上貴様の側にはいられないんだ。オレにも仕事があるからな。インフルエンザを移されて倒れる訳にはいかない」
「えー…。なんだよ…それ」
「その代わりと言っては何だが…、早く元気になれ。貴様が健康状態であるならば、時間がある時ならいつでも側にいてやってもいいぞ」
「は…い…?」
海馬の言葉に完全に固まってしまった城之内を心底面白そうに見詰め、海馬はクスリと笑いを零した。そしてそのまま軽く手を降るとベッドから離れ、保健室から出て行ってしまう。
後に残されたのは城之内一人だけ。だが静かな保健室の中には、幸せ一杯な空気が溢れていた。熱で火照った脳でも、先程の海馬の言葉の意味がちゃんと理解出来たからだ。
「ヤベー…オレ。超嬉しい…! ホントに心臓麻痺で死んじゃうかも…!!」
保健室のベッドの布団にくるまりながら、城之内はその後もずっとニヤニヤしていた。熱はまだあったが、具合の悪さはもう殆ど感じられない。
海馬の為にも早く元気にならなくては…!!
最後に海馬が自分の顔に触れていったあの冷たい手を思い出し、城之内は幸せそうに微笑むのだった。
おまけ
海馬が去って城之内が幸せな気持ちを噛み締めた時から数分後…。
「あらヤダ。空気が籠もっているわ。ちょっと窓開けて換気するからね、城之内君」
保健室中に溢れた幸せ一杯の空気は戻ってきた養護教諭によって、城之内から解き放たれたインフルエンザウィルスと一緒に外へ放出されてしまったという…。