Text - 短編 - 眠りの淵の

城之内←海馬。
片思い海馬の一人称です。

 




 夕闇迫る校舎をオレは一人で歩いていた。
 九月に入り二学期が始まったばかりの学校には、居残っている生徒も殆どいなかった。あと一ヶ月もすれば体育祭やら文化祭やらで生徒達にとっても忙しい時期が来るのだろうが、今はまだ夏の名残の楽しみたいのだろう。授業が終われば大半の生徒は帰宅してしまっている。
 仕事の関係上、案の定始業式に来る事が出来なかったオレは、九月も半ばに入ったこの時期に漸く登校する事が出来た。夏休み中の課題を抱えつつ、提出が遅れたペナルティのプリント等々を放課後に済ませてしまったオレは、職員室にそれらを無事提出し今教室に戻っている最中だった。
 教室に近づくにつれて、歩くスピードを緩めていく。
 彼はまだいるだろうか…? 既にいなかったら少し寂しい…とそんな事を考えながら。


 放課後の教室でオレが出席日数補佐の為の補習プリント等を片付けるのは、今に始まった事では無い。そしてオレが残っている教室で、同じように補習プリントを片付けている城之内が同席するのも珍しい事では無かった。(彼の場合は出席日数の関係では無く、純粋にテストで赤点と取った事によるのだが)
 最初はただお互いに補習プリントをこなす為だけに一緒にいた放課後の教室。それが、城之内が何の意味もなく教室に居残るようになったのはいつからだったのだろう。
 城之内が補習を受けるのは、大抵がテスト明けだった。赤点を取った為のペナルティなのだから当然と言えば当然なのだが。
 対してオレは出席日数が足りない為の補習だった為、補習を受ける時期については特に決められていた訳では無い。たまに学校に登校した日に、今まで休んでいた分の補習を受けるという流れになっていたのだ。だからテストが関わっていない時期に限っては、城之内は別に補習を受ける必要も無く、バイトの為にさっさと帰宅していたのだが…。
 気付いたのはいつからだったか。オレが補習を受ける時に、いつでも城之内が教室に居残るようになったのは。
 一緒に教室に残っていても、城之内は特に何をする訳でも無く、ただ机に突っ伏して眠っているだけなのだ。斜め前の机に突っ伏している城之内の肩が規則正しく上下するのを見ながら、オレはプリントにペンを走らせる。誰もいない教室に響くのは、オレがプリントに文字を書いている音と、城之内の寝息だけ。ただそれだけなのだ。
 城之内はオレがいる間はずっとそうやって眠ったままで、大抵において職員室から戻ってきても同じ体勢で寝入ったままだった。
 最初の頃はそのまま放置して帰宅していたものの、その内何となくそのまま帰るのは勿体無いような気がしてきた。
 そんな事するつもりは全く無かったというのに、ある日オレは眠っている彼の側にそっと近寄って、荒れた金髪に手を伸ばした。
 無理に脱色したせいでボサボサになっている金色の髪。でもその色は好きだった。いつでもどんな時でも明るく生きている彼には、この色はよく似合っていると思っていたから。
 震える手でずっと憧れていた太陽色の髪に触れる。城之内を起こさないようにそっと…毛先だけ。
 それが…オレが自分から城之内に触れた初めての経験だった。


 自分が抱いている気持ちに関しては、もうとっくの昔に理解していた。
 幼少期に似たような状況下に置かれていながら、全く違う道を選んだオレと城之内。自分に無いものを沢山持っている城之内に対して最初に抱いたのは、蔑みや苛立ちだった。だがそれはあっという間に消え去っていってしまう。
 本当は分かっていたんだ。城之内に対する苛立ちは、彼に抱く憧れの裏返しだと。
 それをはっきり理解してしまってからはもうそれを無視する事は出来ず、いつの間にか憧れは恋心へと変化していた。
 まったく厄介な事になってしまったと、気持ちを自覚したばかりの頃は落ち込んだりもしたが、今ではそんな事はもう思わない。別にこの気持ちを城之内に知って貰わなくてもいいのだ。恋を成就させる為に彼を好きになったのでは無い。そんなものは疾うに諦めてしまっている。
 ただ…この気持ちは大事にしたいと思った。
 誰も知らない、誰にも穢す事は出来ない、オレのオレだけの大切な気持ちだったから。


 そっと教室の扉を開けると、案の定城之内は今日もまだ机に突っ伏して眠ったままだった。
 この姿を見るのは実に二ヶ月ぶりだった。前回は夏休みに入る前の七月初頭で、その後はオレは仕事が忙しくなって学校に来られなくなってしまったし、七月後半には学校は学校で夏休みに突入してしまった。
 二ヶ月前のあの時と全く同じ時間帯。けれど窓から見える景色は随分と変わってしまっている。
 あの頃は…外はもっと明るかった。放課後だというのに夏の太陽はまだ天高く昇っており、眩しい日差しが窓から強く差し込んでいた。真っ青な夏空に真っ白な入道雲がビルの向こうに見えて、窓からはぬるい風が緩やかにカーテンを揺らし、教室内も酷く暑かったのを覚えている。
 今はその暑さは感じない。窓は全部閉められている筈なのに教室はうっすらと冷え込み、窓の外は濃い茜色だ。西の空に沈み掛かっている秋の太陽が、校庭に樹木や電信柱などの影を長く伸ばしていた。
 何となくその風景をもっと見てみたくて、オレは教室の電気を全て消してみた。途端に暗くなる教室内。窓一面に映える茜色が、どこかもの哀しく感じられた。
 そうだ…。本当はずっと哀しかった。
 別に気持ちは知って貰わなくてもいい、ただ自分がこの気持ちを大事にしてればいいなんて、まるで悟りきったようにしてきたけれど、本心は全然納得していなかった。
 これでいい筈が無い。オレの本当の気持ちを城之内に知って欲しかった。どれだけ自分が心から彼を愛しているか、ほんの片鱗だけでも知っていて欲しかった。
 だけど…今更どう伝えたらいいというのだろう?
 はっきり言えば城之内との関係は最悪の部類に入っていて、自分はともかく周りの人間達は未だにそのイメージを持っている。遊戯やモクバでさえ城之内の話題が出ると、そっと気付かれないようにオレの顔色を伺うくらいなのだ。周りがそんななのだ。当の城之内は言わずもがな…だろう。


 哀しい気持ちを抱えたまま窓の外の風景を見続ける。
 秋の太陽は沈むのが非常に早い。先程まではっきり見えていた太陽は既に遠くのビル群の中に姿を隠してしまって、西の空も茜色から群青色へと移り変わっていた。太陽を失った世界は途端に色を無くし、校庭に長く伸びていた影さえも今は全く見る事が出来ない。
 この光景が怖くて、オレは城之内に自分の気持ちを打ち明ける事が出来ずにいた。
 同じ男に、ましてやオレなんかに告白されれば、間違い無く城之内はそれを拒否するだろう。その途端、オレはこの太陽を失うのだ。
 色を無くしたこの世界は、未来のオレの心象風景だ。それが分かっているからこそ、『気持ちは知って貰わなくてもいい』とずっと自分に言い聞かせてきたのだ。なのに…何故、それがもう限界だなんて感じてしまうのだろう…。
 日が落ちて完全に闇に沈んでしまった教室内で、オレは振り返って机に突っ伏している城之内を見詰めた。こんなに暗くなってしまったというのに、城之内はまだ眠り続けている。足音を立てないようにそっと近づいて、荒れた金髪に手を伸ばした。いつものように毛先だけを指先で触れる。
 城之内は完全に眠りこけていた。今だったら…何を言っても気付かれないかもしれない。何を言っても…無かった事に出来るかもしれない。

「………き…だ…」

 口の中で、誰にも気付かれないように、小さく小さく囁く。

「好き…だ…。城之内…」

 誰に聞いて貰わなくても構わない。ただもうその気持ちは大きくなり過ぎて、もう自分の心の内だけに収めて置く事が出来なくなってしまっていた。
 だから今だけ。ほんの少しだけ素直になって自分の気持ちを言葉にした。そうする事で一瞬だけ楽になりたいが為に。ただそれだけだったのに…、なのに…。
 指先で弄んでいた金色の髪がふわりと動いて、そして次の瞬間、長い前髪の間から明るい琥珀色の瞳が見えた。
 教室内は既に真っ暗だというのに、その色は妙にはっきりと確認出来る。それはその瞳が生気に満ち溢れ、常に輝いているからだ。その事は良く知っている。その瞳の輝きもオレが彼を好きになった要因の一つだったから。
 不思議なのは…何故今それが見えるのかという事だったのだが…。

「やっと…言ったな」

 起き上がった城之内から紡がれたその言葉に、オレは瞬時に反応出来なかった。
 これは一体どういう事なんだ? 何故先程まで熟睡していた城之内が起きているのだ? そして今彼が放った言葉はどういう意味が含まれているのだ?
 すっかりパニック状態に陥ったオレはガチガチに固まってしまって、黙って目の前の城之内を見詰める事しか出来ない。そんなオレに城之内はニッコリと笑いかけると、髪を弄っていた状態のまま空中で留め置かれていたオレの手をギュッと握ってきた。
 冷えた秋の空気が充満しているこの教室の中で、まるで夏の日差しのような熱がオレの手を包み込んでいる。

「海馬、お前さー。今までオレが本当に眠り込んでるって思ってた?」
「な…何だと…?」

 全ての状況が理解仕切れなくて何とか現状を整理しようと躍起になりつつ、オレは城之内の言葉に応えた。オレとしては普通の対応をしたつもりだったが、城之内にはどうやってもそうは見えないらしく、奴はずっと面白そうにクスクスと笑っている。その顔は表情がはっきりとしていて、城之内が寝起きでは無い事を物語っていた。
 それが何となく…不愉快だった。

「どういう意味だ?」
「どういうって、そのまんまなんだけど? 直接触られなくても髪の毛弄られれば頭皮に感触が伝わるし、大体こんな近場に立たれれば嫌でも人の気配感じるしな」
「っ………」
「本当はオレの方から何か言ってやろうかと思ってたんだけど、でも先に行動に移したのはお前の方だったから、悪いけど待たせて貰った」
「待たせてって…。どういう意味だ?」
「言葉のまんまだよ。ずっとお前の側で寝たふりして、お前が何か行動を起こすのを待ってたんだよ」
「なっ…! そん…な…っ! 貴様…っ! ひ、卑怯だぞ…っ!」
「うん、ちょっと卑怯だったよな。ゴメン。でもオレも確信が持てなくてずっと悩んでたんだよ。お前の気持ちは何となく察していたけど、本当にそうなのか自信が持てなかったんだ」
「………っ!」
「だからちゃんと言葉が聞きたかった。オレ馬鹿だから、はっきりと言葉にして言って貰わないと分からないんだよ。その言葉を聞く為だけに、オレはずっと待ってたんだぜ。お前がいつ行動に移してもいいように、ずっと…お前の側で」

 秋の日は完全に落ちて、真っ暗な教室の中では何も見えない。だけどオレを見詰めている城之内の視線が真剣な事だけは確かで。そこにオレが城之内を想う気持ちと全く同じものが存在しているのは紛れも無い事実であって。
 だからオレは少し心に余裕を取り戻して、わざといつものように意地悪げに笑ってみせた。

「で、返事は?」
「は?」
「このオレがわざわざ告白してやったんだぞ。イエスかノーか、早く返事を返すがいい」

 ニヤリと口角を上げてやると、それを見た城之内がプッ…と吹き出し、やがて真っ暗な教室内に盛大な笑い声が響き渡る。その笑い声は、オレの中に今まで悩んでいたのが馬鹿らしくなるような、そんな感想を抱かせた。
 笑い過ぎて浮かんできた涙を指先で拭いながら城之内が徐ろに立ち上がって、脇に突っ立ったままだったオレをギュッと抱き締めてくる。肌寒く感じる秋の空気の中で、城之内の熱は至極心地良く感じられた。

「あー、やっぱいいわお前。そうでないと海馬じゃねーよな」
「それで…? 返事はどうだと聞いて居る」

 未だに肩を震わせてクツクツと笑っている城之内の耳元でそう尋ねると、頬に触れていた金の髪がふわりと縦に動いたのを感じた。

「勿論オッケーです。オッケーさせて頂きます」
「………ふん…」
「機嫌悪そうだな、海馬」
「当たり前だ! ずっと寝たふりして騙していただなんて…。性質が悪過ぎる!!」
「そう怒るなよ。勇気や自信が無かったのはお前だけじゃねーんだぜ? オレだって怖かった」
「………」
「そう考えると黙って待っていたオレより、お前の方が少し勇気があったのかもな」
「当然だ」
「参ったな。コレじゃお前には一生頭が上がらなさそうだ」

 一生…。
 城之内の言った『一生』という一言で、彼の本当の想いが伝わってきた。
 嬉しくて嬉しくて本当に嬉しくて。だけどそれを素直に伝えるのは何だか悔しくて「頭なんか金輪際一ミリだとて上がるものか。一生尻にひいてやるから覚悟しろ」と可愛くない事を言ってみる。
 オレが一時素直になったお陰で貴様はオレを手に入れる事が出来たんだ。それに感謝して、今後は二度とオレを騙すなと釘を刺す。城之内はその言葉に嬉しそうに頷いて、ますますオレを抱く腕に力を込めた。
その腕に自分の身体を全て預けつつ、それでもオレは少しだけ思っていた。
 こんな幸せな気分に浸れるのならば、たまには騙されてやってもいいし、オレも素直になってやってもいい…と。