別に死ぬつもりなんて無かった。
だけど、その時自分を取り巻いていた状況から逃げだそうとした事は…確かだった。
城之内の父親が亡くなったのは、本当にあっという間の出来事だった。
あれは城之内が高校三年生の秋の事だった。高校を卒業した後は就職して働こうと、進学組が受験勉強に必死になるのと同じように城之内も就職活動に必死になっていた。見てくれは一見いい加減なものの、あちらこちらで真面目にアルバイトしていたのが良かったらしい。童実野町内では城之内の働き具合は実に高評価で、この調子なら高卒でも結構いいところに就職出来そうだと安心しかけた時だった。突然…父親が倒れた。
朝起きて、冷蔵庫に常備してあった缶コーヒーを取り出そうと少し屈んだ瞬間、城之内の父親は軽い呻き声と共にその場に倒れ込んでしまった。慌てて近寄って声を掛けてみるも、父親は城之内の声に全く反応しない。それどころか激しい鼾をかき出したのを聞いて、城之内は慌てて電話に駆け寄り一一九番通報をしたのである。
その後父親は救急車ですぐに病院に運ばれ適切な処置が行なわれたが、結局意識が戻る事無く、倒れてから三日後に息を引き取った。城之内は何の波形も示さなくなった心音計を呆然と見詰め、そして窓の外に視線を移した。東向きのその窓からは、今昇ったばかりの真っ赤な中秋の名月が輝いているのが見えていた…。
父親が亡くなったからといって城之内の生活が変わる事は何一つ無く、その後童実野町内では比較的有名で優良な中小企業の内定を貰った城之内は、高校卒業と共に社会人として働き始めた。朝から晩まで懸命に働き続ける日々。朝起きて会社に行って働いて、疲れた身体を引き摺ってその日の夕食の材料をスーパーで購入し、誰もいない真っ暗な部屋に帰るという繰り返しに、城之内の心は少しずつ疲弊していった。
まだ高校三年生の頃、一度だけ父親が亡くなった直後にたまたま学校に来ていた海馬に話しかけた事があった。
城之内は海馬の事が気になっていた。エジプトでもう一人の遊戯ことアテムを送った直後に海馬がアメリカに旅立ってしまった時は非常にがっかりしたものだったが、高校三年生に進学した時に同じクラスに海馬の姿を見付けて、何気なく日本に戻って来たのを知って心から嬉しく思っていたのである。
「なぁ。オレ達…付合わないか?」
城之内の父親が亡くなった時は、丁度海馬も業務に追われていた時期で、彼は全く学校には来ていなかった。だから海馬が城之内の父親の訃報を知っていたかどうかは分からない。だがその時海馬は、酷く不快そうな顔をして首を横に振った。
「傷の舐め合いを望んでいるのなら、そんなものは御免被る」
「あ、やっぱり気付いてた? オレそんなに必死な顔してる?」
「そんな顔をして迫ってきておいて、気付かない方がどうかしている。今のお前はただ一方的に自分の欲求を、オレに押し付けたいだけだ。そんなものは対等な関係では無い。だから断わる」
「あー…やっぱりね。うん、そうだな、分かってたよ。困らせてゴメンな、海馬」
「城之内…。ただ…お前がもし…」
「いや、いいよ。マジでゴメン。じゃ、オレ行くから…」
「………っ! 城之内…っ!!」
あの時の海馬は確かに何か言いかけていた。だが城之内は、続きを聞くのが怖くて逃げ出してしまったのである。結局、海馬との付き合いはそれきりになってしまった。それから先は当たり障りのない関係を続け、そしてそのまま卒業してしまったのである。
卒業後は就職して、単調な毎日を繰り返す日々。疲れた身体で帰って来て、電気の付いていない真っ暗な自宅の窓を見る度に、城之内の心は重く沈んでいった。
誰もいない真っ暗な部屋に帰るのは、とっくに慣れていたと思った。父親が生きている時も、彼は好き勝手にいつも放浪していたので、自宅にいる時の方が少なかったからである。
だが一~二ヶ月に数日程度、たまに先に帰っていた父親が自宅の電気を付けている事があった。当時の城之内はその灯りを見る度に「また殴られるのか…」と憂鬱な気持ちになったりもしたが、それでもそここそが自分の帰る場所なのだと改めて教えられたような気がして、ほんの少しだけ嬉しく感じていたのである。
ほんの時たま輝く自宅の灯り。それは城之内の癒しだった。真っ暗な部屋には慣れていたが、たまに遠目に確認出来た小さな窓のその灯りが、どんなにか城之内の救いになっていたか知れない。だけど社会人になった今は、決してその灯りが点る事は無かった。いつ帰ってきても部屋は真っ暗なまま。僅かな灯りさえ点る事は無い。それは城之内に絶望感をもたらした。どんなに必死に孤独に抗って生きてみても、結局自分は一人ぽっちなんだと指をさされて言われているようだった。
あれは去年の秋の事。体調を崩した城之内は、その日は会社を休んでいた。身体も気持ちも怠く感じて夕方まで家で寝ていたのだが、城之内がどんなに塞ぎ込んでも身体は馬鹿正直に生きようとする。空腹を覚えた城之内は気怠い身体を起こしてノロノロと着替えをし、駅前のスーパーまで買い物に出掛けた。
簡単に作れる物を買って、元来た道を辿り始める。駅前のスーパーから城之内の住んでいる団地に戻るには、一回線路を越えなければならない。スーパーを出てすぐ先には大きな踏切があった。だが城之内はその踏切が好きでは無かった。いや、昔は好きだった。まだ自分が学生で、父親が生きていた頃は好んでその踏切を使っていたのである。
そこは駅に尤も近い踏切で、勿論そこを通り抜ける人も多かった。遠くの駅から地元の駅に帰って来た学生や社会人、それにすぐ側のスーパーで夕食の材料等を買い込んだ主婦などが、急ぎ足でその踏切を通り抜ける。誰もが疲れた顔をしていた。だが、誰もが幸せそうな顔をしていた。家に帰れば家族がいる。親がいて兄弟がいて子供がいるのだろう。疲れる外の世界から安全な自宅へと戻って行く安心感とそれによる幸福感が、人々の顔には溢れていた。
昔の城之内は、そんな人々の顔を見るのが大好きだった。だから好んでその踏切を使っていた。だが今の城之内は…その顔を見るのが辛かった。自分の家には自分一人だ。安全な自宅へと帰っても誰もおらず、幸せなんてあれから一度も感じる事は無い。だから城之内は人の波に逆らうように、少し離れた踏切までわざわざ遠回りするようになった。
その踏切は見通しが悪い事で有名だった。側に小さな稲荷神社が建っていて、その社を守るように鬱そうとした竹林が線路にそって生えていた。しかもその直前で線路が緩くカーブしているせいで、過去何度か事故が起こった事もある。側には『事故多し! 注意!!』や『危険!!』等の看板が立っていて、そのせいでこの踏切を使う人は殆どいなかった。
だが今の城之内にとっては、この静けさが酷くありがたかった。夕食の材料が入ったビニール袋をガサガサと鳴らしながら踏切に近寄ると、それまで静かだった踏切の警報機が突然鳴りだし遮断機が下り始める。
平日の夕方。これから先は帰宅ラッシュに入る為に電車の数も多くなる。一旦遮断機が閉まるとなかなか開く事は無い。城之内は軽く溜息を吐くと、側の電柱に寄りかかった。やがて駅の方から電車がやってくる。これから家に帰る沢山の人々を乗せている電車。城之内はその人々の顔を見たくなくて、そっと電車から視線を外した。
轟音と共に電車が通り過ぎる。だが案の定、警報機が鳴り止む事は無い。
カン、カン、カン、カン、カン、カン………。
酷く耳障りな警告音に、城之内は眉を顰めて顔を上げた。体調が悪くてボーッとしている頭に、その音は些か煩さ過ぎる。警報機を睨み付けようとして…ふと、城之内の視線が一点で止まった。
「満月…」
遠く線路の向こう。東側の地から赤く輝く中秋の名月が顔を覗かせている。その月を見て、城之内は漸く自分の父親が死んで一年が経っていた事を思い出した。
そっか…。オレ一年頑張ったのか…。
こんな寂しくて苦しい日々を…たった一人で一年…頑張ったんだな…。
でも…あとどれくらい頑張ればいいのかなぁ?
あと何年頑張ったら…オレは寂しくなくなるんだろう?
ていうか、そこまで頑張れるのかな…オレ。
出来ればもう…頑張りたくないな…。
駅とは反対方向から特急電車が走ってくるのが目に入ってきた。この駅は通り過ぎる為に、スピードを緩める事も無い。
別に死のうと思った訳ではなかった。ただこの状況から逃れたかっただけだった。
カン、カン、カン、カン、カン、カン………。
頭上からは酷く耳障りな警告音が鳴り響いている。それを無視して、城之内はフラフラと踏切に近寄っていった。まるで赤い満月に誘われるように…。
目を強く瞑って鳶が自分を捕まえるのを待っていた黒兎は、突然自分の長い耳を誰かが痛い程強く握ってきたのを感じました。驚いて思わず目を開けると、次の瞬間には力強く引っ張られ、元居た藪の中に引き込まれてしまいます。
「な、何…? 一体…っ!?」
余りに突然の事に叫び声を上げそうになった黒兎は、けれど背後から誰かが自分の口を覆ったので声を出すことが叶いません。しかもその後思いっきり誰かにのし掛かられて、地面に這いつくばってしまいます。それでもモガモガと必死で抵抗していると「静かにしろ」という鋭い声が耳に入って来ました。その声には聞き覚えがありました。その声は…あの白兎の声だったのです。
そのまま藪の中で二羽はじっと息を潜めます。獲物を逃した鳶は暫く上空を旋回していましたが、やがて諦めたのか遠くの空へと去っていきます。それを見て漸く安堵の溜息を吐いた白兎は、押さえつけていた黒兎を解放してあげました。そして白兎は驚く黒兎に対して、怒ったような嬉しそうな心配したような安心したような複雑な表情を見せながら叫びました。
「どうしてこんなに追い詰められるまで寂しい思いをしていたなら、それをオレに正直に言わなかったんだ!! 自分から鳶に食われようとするなんて見損なったぞ!! この馬鹿黒兎!!」
本当に自分の事を心から心配してくれていた白兎に、黒兎は泣いて謝りました。そして自分が本当は一人ぽっちだという事、寂しくて寂しくて死んでしまいそうだったという事を打ち明けて、それから白兎の事が好きだから一緒に住んで欲しいという事をお願いしました。
「それから…?」
モクバの心配そうな声に城之内は微笑んで口を開いた。
「それからは黒兎と白兎とその弟兎は、仲良く三羽で一緒に暮らしましたとさ」
「幸せに?」
「そう、幸せに」
幸せに暮らせるかどうかは『こっち』ではまだ分かんねーけどなー…と心の中で呟き、城之内はモクバに優しく微笑みかけた。
カン、カン、カン、カン、カン、カン………。
あの日、あの踏切の耳障りな警告音が鳴り響く中、線路に踏み出そうとした城之内の腕を白く冷たい掌が引き留めた時。それが城之内と、そして海馬の本当の恋が始まった瞬間だった。