一瞬何が起こったのか分からなかった。
突然腕を引っ張られたと思った瞬間、轟音を立てて特急電車が目の前を通り過ぎていく。そしてそのまま後ろに引き倒され、慌てて振り返って見たのは、必死な形相で自分の腕を掴む海馬の姿だった…。
「貴様…っ、何をしている!! 死ぬ気かっ!?」
城之内が見たのは、高校卒業以来久しぶりに見た海馬の姿だった。だがその表情は、今まで見た事も無いような怒りの形相で染まっている。ゼーゼーと荒い息を吐きながら自分の腕を痛い程に掴んでいる海馬に城之内は首を捻った。何故海馬がこんなに必死になっているのか、全く検討が付かなかったのである。
「え…? 何…? 海…馬…?」
突然の展開に頭が付いていかず思わず素っ頓狂な声をあげると、目の前の海馬がギリッと睨み付けてきて「何…ではないわ!! この馬鹿者が!!」と大声で怒鳴ったのが聞こえた。その怒鳴り声で城之内は漸く目が覚めたような気がして、改めて海馬の姿をじっと眺めてみた。
きっちりと着込んだスーツは城之内と共に地面に倒れ込んだ為、土や埃で汚れてしまっている。そのまま海馬の背後に視線を向けると、数メートル先の道路脇に一台の黒塗りのリムジンが停まっており、いつもはきちんと閉められる後部座席のドアが開けっ放しになっているのが目に入ってきた。リムジンの脇では海馬邸の運転手がオロオロとした表情で突っ立っているのも見える。
一体何が起こったのか、城之内は未だに理解出来ていなかった。頭が混乱して整理が付かない。
「何だ…? え…? 今…何が起こったんだ…?」
自問自答するようにそう呟くと、相変わらず怒ったままの海馬が強く胸ぐらを掴んでくる。そして更に大きな声ではっきりと叫んだ。
「何…だと…? そんなものオレが聞きたいわ!! 何故自ら死を選ぶような真似をした!!」
「死って…。え? マジで? オレが?」
「他に誰がいるのだ!! 今自分から踏切内に立ち入ろうとしただろう!!」
そこまで言われて、漸く城之内も数秒前に自分が取ろうとしていた行動を思い出す事が出来た。
別に死のうとした訳では無い。自ら命を捨てよう等と思った事もない。ただ少し…今現在自分を包むこの辛い状況から…逃げ出したかっただけだった。
東の空に輝きだした赤い満月に誘われるように踏切へと近付いていく。頭上には酷く耳障りな警告音。それを無視して遮断機に手を掛けて、それを乗り越えようとした。線路の向こうから特急電車が近付いて来ているのは分かっていた。それに跳ねられれば自分がどうなるかという事も…よく分かっていた。なのにその足は止まらなかった。ただ逃げ出したい…その一心で線路内に踏み込もうとした時、白く冷たい掌が城之内を止めたのである。
「そっか…。オレ…死のうとしたんだ…」
半ば呆然としたように呟くと、漸く腕の力を抜いた海馬が深い溜息を吐きつつ呆れたような顔で城之内を見詰めた。
「漸く…理解したか…」
「あぁ…うん…。でも…」
「でも…?」
「でもオレ…本気で死にたいって思ってた訳じゃ…無いんだ…。ただ…ちょっと…逃げ出したくて…。今の状況を変えたくて…ただそれだけで…」
「それで電車に飛び込もうとしたのか」
「うん…。信じては貰えないだろうけど…本当に死を選んだ訳じゃなかった…。ただ『今』から逃げ出す為に、手段を選ばなかっただけというか…何というか…」
「貴様は本当に大馬鹿者だな。それを…『自殺』というのだ…」
「うん、そうだな…。ゴメン…」
城之内自身も、もはや誰に言い訳しているのか分からなかった。目の前の海馬に言い訳しているような気もするし、自分自身に『死ぬつもりは無かった』のだと言い聞かせているような気もする。
「ゴメン…っ! オレ…オレ…本当に…っ!!」
目の前が激しく歪んで、そして熱い涙が頬を零れ落ちてゆく。慌てて手の甲で涙を拭っても、それは後から後から溢れ出て止まらなかった。地面に座り込んだまましゃっくりあげていると、フワリと城之内の身体を海馬の腕が包み込む。そしてギュッと力を入れて抱き締められた。後頭部に長い指が這わされて、そのままグッと肩口に顔を押し付けられる。
海馬は何も言ってはいない。だが城之内には、まるで自分が泣く事を許して貰えたような気がしていた。
「っ…! うっ…!! ふ…ぅ…っ!!」
土埃に塗れた高級なスーツに涙を吸い込ませながら、城之内は声を殺して泣き続けた。
その後、城之内をこのまま一人にしておけなかった海馬によって、城之内は海馬邸へと連れていかれる事になった。さらにリムジンの中で城之内が発熱している事に気付いた海馬は、邸に着くと同時に使用人達に指示を出し、客室に連れて行くのも面倒臭いと城之内を自分の部屋に招き入れた。直ぐさま城之内を熱い風呂に入れて身体を温まらせたあと、予備のパジャマを着せて自分のベッドに寝かしつける。一見乱暴に見える行動の端々に、自分に対する労りと優しさが見えて城之内はまた泣きそうになった。ベッドの中でこっそり涙を拭っていると、それを目聡く見付けた海馬に苦笑される。
「何だ…。また泣いているのか?」
「な、泣いてない!」
「意外と泣き虫なのだな、お前は」
「泣いてないって言ってんだろう!? 大体…こんな事する海馬が悪いんだよ…」
「は? 何故だ?」
「一度フッた相手にこんな事するなよな…。こんだけ優しくされると勘違いするだろ…?」
「フッた? 誰がだ?」
「お前がだよ! オレ一度告っただろ!? だけどお前は…っ!」
高校三年生の頃。一度だけ「付合わないか?」と口に出した告白は、「傷の舐め合いは御免だ」という海馬によってあっさりと退けられた。城之内がその事を海馬に告げると、海馬は「あぁ」といって漸く合点がいった顔をする。だがその表情は全く納得していなかった。
「悪いが城之内。オレは貴様をフッたつもりでは無かった」
「へ? どういう…事…?」
「あの時オレは言った筈だ。『傷の舐め合いは御免被る』とな」
「うん…。だから…」
「だが、オレの話はそれで終わりでは無かったのだ。話を続けようとしたオレの言葉を遮って勝手に逃げたのは、城之内…お前の方だっただろう?」
「あっ…! それは…そう…だけど…」
「あの時…オレが一体何を言いかけたのか…。聞きたくはないか、城之内?」
一見意地悪そうな声で質問される。だが城之内を見詰める海馬の視線はどこまでも優しくて、だから城之内も素直な気持ちでコクリと頷いた。
海馬の本音が…聞いてみたかったのである。
城之内が頷いたのを見て、海馬は小さく嘆息した。そしてゆっくりと口を開いた。
「ただの傷の舐め合いは御免被る。だけどもしお前がオレの事を本気で好きならば。そしてもしお前がどうしてもオレ自身を必要だと思っているのならば。それならば…お前と付合ってやってもいい。オレもお前が…好きだからな…」
じっと自分を見詰める海馬の瞳を、城之内は驚いたように見返した。海馬の口調が妙に確信に満ち、そしてそれが的確に城之内の心を突いて来たからである。
「お前は…、どこまで知ってる訳?」
「どこまでとは?」
「その…。オレの事…を…」
「あぁ、そういう事か。それならば全て…だ」
「全て?」
「そう、全て。好きな相手の事というのは…、普通気になるものだろう?」
海馬ははっきりとした答えを避けている。だけど城之内は気付いていた。
海馬は…今まで自分がどのような状況に置かれているか…もう既に知っていたのだ。一年前に父親が死んだ事も、今は働きながら一人で暮らしている事も、多分全てを。城之内が精神的に追い詰められていた事までは知る事は出来なかったのであろう。ただ、常に気にはしていたに違いない。何となくだが、城之内はそう感じていた。
漸く城之内に本心を打ち明ける事が出来て安心している海馬の顔が、そこにはあったから。
「海馬…」
震える手を掛布から出して、そっと海馬へと伸ばした。その手を白く冷たい掌が優しく握ってくる。
自分を死の淵から救い出してくれた力強く優しい掌。この救いの手を…城之内は二度と手放したくないと願った。
「海馬…。オレの…生きる意味になってくれ…」
「城之内…?」
「今までのオレは…生きる意味を見失っていた…。だから安易に楽になろうとしてしまった…。だけどお前がいるのなら…、どんなに辛くて寂しい世の中でも、お前がいてくれるのなら。それがオレの生きる意味になる。だから…オレの生きる意味になってくれ。オレの側に…いてくれ。オレには…お前が必要なんだ…っ!」
冷たい掌を熱を持った熱い掌でギュッと力強く握る。ややあって、その掌を同じくらい強い力で握り返されたのを感じて、城之内はその掌を強く引き寄せた。
身体は熱で気怠く辛かった。だけどもう…心はちっとも辛くは無かった。
その夜、少し無理をしながらも、二人はそのまま結ばれたのである。
夜遅くになって海馬が仕事から戻ってきた時には、モクバはもう既に眠りについていた。静かになった邸を歩いて自室まで戻って来て重厚な扉を開け放つと、温かな筈の部屋の奥から秋の冷気が通り抜けてくる。訝しく思いながら部屋に足を踏み入れると、バルコニーの扉が開けっ放しになりレース地のカーテンがひらひらと揺らめいているのが見えた。そのカーテンの向こうに見慣れた後ろ姿を見付けて、海馬はゆっくりと彼に近付いていく。
「何を見ている?」
海馬の気配には既に気付いている筈なので遠慮も無くそう問い掛けると、城之内は振り返る事無く空を見上げたまま穏やかな声で応えた。
「月…見てた」
「月? あぁ、今日は中秋の名月だったな」
「うん。すっげー綺麗な満月だぜ」
「知っている。帰って来る途中に見えていた」
「移動しながら見る月より、こうして落ち着いて見上げた方がずっといいぞ」
「そうか」
「うん」
「そうだな…。本当に綺麗だ…」
天空の一番高い場所から眩しく輝いている白い満月は、静かに二人が寄り添う姿を照らしていた。二人が見上げるその月に、一年前のあの時のような禍々しさはどこにも無い。それどころか清浄な空気さえも感じる程だ。
「なぁ、海馬」
月を見上げていた視線をゆっくりと海馬に移して、城之内はニッコリと微笑んだ。
「オレを幸せにして?」
「…っ! な、何だ突然…っ」
「オレはさ、お前と…それからモクバと一緒に幸せにならないといけないんだ。じゃないとこの物語は完結しないんだよ。だからお願い。オレを幸せにして?」
「貴様が何を言っているのか、全く理解出来ないぞ」
「うん。別に理解して貰わなくてもいい。ただ幸せにしてくれるだけで…それだけでいい」
そう言って城之内は、未だ高級なスーツに身を包んだままの身体をそっと抱き締めた。
「オレはすっげー寂しがり屋だからさ…。一人にされると寂しくて寂しくて、辛くなって死んじゃうんだよ。だからオレの側にいて。ずっと…離れないでくれ」
夜風に紛れて囁いた言葉は、だけどしっかり海馬に届いていたらしい。あの時自分の命を救ってくれた白く冷たい優しい掌が城之内の背に回り、そしてギュッと抱き締めてくれたから…。
昔々ある小さな森の中に、兎が三羽住んでいました。
寂しがり屋の黒兎とその恋人の白兎、そして白兎の弟兎の三羽です。
三羽はいつでも仲良く協力して、森の中で楽しく幸せに暮らしていました。やがて弟兎が大きくなってお嫁さんを見付け、自分の縄張りに住むようになっても、三羽はいつでも仲良しでした。
特にずっと一緒に暮らしていた黒兎と恋人の白兎は、二人きりで暮らすようになっても幸せ一杯だったのです。
黒兎はとっても寂しがり屋でした。だけどもう二度と、寂しいなんて思う事はありませんでした。寂しがり屋の黒兎の側には、いつでも白兎がいてくれたからです。
時々喧嘩する事もありましたが、それでも黒兎と白兎はいつでも一緒にいました。黒兎にとってはそれが何より一番幸せだったのです。
秋が深まってくるこの時期。夜の冷え込みから身体を守るように、黒兎と白兎の二羽は今夜も仲良く寄り添って、柔らかい下草の上で眠りにつきます。天空には美しく真っ白な満月が、そんな二羽を見守るように優しく輝いていました。
丁度、中秋の名月の頃のお話です。
めでたし、めでたし。