Text - 短編 - 冷たい手

城之内×海馬。
弱っている城之内が見る悪夢の話。
優しい人ほど手は冷たいって言いますよね。
 




 風邪をひいたんだと思う。
 朝から何だか調子が悪い。頭がボーッとして食欲も無いし喉も痛い。どことなく熱があるような気がする。
 普段だったら速効布団に潜り直して学校を休むオレだけど、今日ばかりは無理してでも登校しなくてはいけなかった。
 というのも、今日の夜のフライトで海馬が二週間ほどアメリカに出張に行ってしまうからだ。
 たかが二週間されど二週間。
 友人同士だったらあっという間に過ぎる二週間という時間も、恋人同士となると途轍もなく長い時間に感じる。
 だからこそ少しでもその顔を見ておきたくてこうして無理をして学校に来ているというのに、オレの額に冷たい手を当てた海馬は速攻「帰れ」と言いやがった。

「凡骨…、貴様熱があるぞ。どうりで朝から様子がおかしいと思っていたのだ。今日はもう帰れ」
「い…嫌だ」
「嫌だではないわ、馬鹿者が。無理をしてどうにかなる熱じゃないぞ」
「せめて一緒に昼飯は食いたい…」
「全く食欲が無さそうな顔をして何を言う。さっさと家に帰って寝ろ」
「嫌だってば。だってお前、今日の夜にはもうアメリカに行っちゃうんだろ? だったらもう少し側にいさせてくれよ…」
「二週間もすれば戻ってくると言っているだろうに。いいからもう帰れ。これ以上我が儘を言うようだったら、SPを呼んで無理にでも家に送り届けるぞ」

 海馬の非常な最後通告に、オレは渋々早退する事となった。
 大体アイツは全然分かっていない。恋人だったら常に側にいてベタベタしたいと思うのが普通じゃないのか? それなのに海馬は常にさっぱりし過ぎている。そのさっぱりさ加減といったら依然と全く変わっていない。
オレ達本当に恋人同士になったんだろうか…と、時々本気で悩んでしまう程だ。


 発熱している為に重く感じる身体をふらつく足で支え、何とか自宅のある団地まで帰ってきた。
 一階の部屋の前で箒をかけていた品の良いおばさんが、オレを見て軽く会釈をする。オレは同じように会釈で返して、階段を昇り始める。
 昔、あの部屋にはギャンブル好きのお爺さんが住んでいた。
 パチンコと競馬が大好きで、よく階段の踊り場で親父と盛り上がっていたのを思い出す。
 パチンコで勝つと大体は現金に換えてしまうものの、たまにキャンディーやチョコレートやスナック菓子などを持って来てくれて、オレや静香にくれたりした。
 基本的に明るくて人の良いお爺さんで、オレや静香はお菓子を貰う度に懐いていたものだった。
 そのお爺さんも数年前に病気で入院したきり、戻って来ることは無かった。
 亡くなる直前に故郷の病院に転院したらしくて、こっちで葬式をする事がなかったから詳しい最後は分からず仕舞いだ。

 二階の自宅前に辿り着くと、向かいの部屋から若夫婦が揃って出てきた。
 一階のおばさんと同じように軽く会釈して、二人で階段を下りていく。
 今は若夫婦が住んでいるこの向かいの部屋は、昔は息子と二人暮らしのおばさんが住んでいた。
 何でも息子さんがまだ小さい頃に旦那さんと死別したらしく、仕事をしながら女手一つで立派に子供を育てている凄い人だった。
 オレと静香が子供の頃、そこの息子さんは既に大学生になっていて、おばさんは「漸く肩の荷が下りたわ」と良く笑っていたのを覚えている。
 玄関の靴箱の上に水槽が一つ飾ってあって、その中に既に鮒サイズにまで大きくなった金魚が一匹泳いでいた。
 白と赤の斑の金魚は、息子さんが小学生の頃、近所の祭りの屋台で取ってきたものだと言っていた。
 何でも五匹釣ってきた内四匹は早々に死んでしまったが、これだけが大きく育ってしまったらしい。
 おばさんはよく、オレと静香にこの金魚に餌をやらせてくれた。
 オレの家ではペットを飼うことは禁止されていたから、生き物に餌をやるという行為そのものが凄く嬉しかった。
 自分達の手で水槽の上から金魚の餌をパラパラと入れると、それをパクリと食べてくれて、その度に静香は声を上げて喜んだ。
 懐かしい思い出だけど、そのおばさんも既にここにはいない。
 去年の今頃、結婚した息子さんに連れられて遠くの地へ引っ越して行ってしまったからだ。

 長く同じ場所に住んでいれば自ずと環境は変わっていってしまう。
 一階のお爺さんも向かいのおばさんも、そしてウチも…。


 鍵を開けて家に入ると、中には誰もいなかった。
 親父はまたどこかにフラリと行ってしまったらしい。こんな風に突然いなくなるとなかなか戻って来ないが、具合の悪い今のオレには丁度良い。
 台所に行ってコップに水を一杯汲んで、それを一気に飲み干す
 制服を脱いで寝間着代わりのTシャツとスウェットに着替えると、そのまま敷きっぱなしの冷たい布団の中にくるまった。
 布団に入ってから鍵を閉め忘れた事に気付いたけど、別に盗まれるものなんて無いし何だか面倒臭くなってそのまま目を瞑ってしまう。
 本当は眠りたくなんてなかった。
 こういう風に具合が悪い時や悩み事がある日など、決まって同じ悪夢を見ることが分かっていたから。
 どういう内容かも覚えているし展開も全く同じだけど、夢の中のオレは違う行動を取ることが出来ない。
 あの夢だけは嫌だった。起きた時凄く嫌な気分になるから。
 だけど発熱したオレの身体は少しでも頭と身体を休ませようと、無理矢理眠りの世界へと引きずり込んでいった。



 夢の中のオレは小学生で、親父もお袋も静香もまだこの部屋で一緒に住んでいた。
 たまには家族四人で遊びに行こうと、オレ達は手に手を取り合って遊園地へ向かう。
 今は海馬ランドが立っているあの地は、昔は市営の小さな遊園地があった。
 海馬ランドに比べれば遊具もショーも大した事無いけど、それでもオレと静香にとってはまさに夢の楽園だった。
 遊園地に着くと、オレと静香はまず中心部に立っている観覧車に向かう。
 それに乗って遊園地全体や、童実野町を見渡すのが大好きだった。
 親父とお袋は外で待っていて、オレと静香だけが観覧車に乗せて貰う。
 頂上に近付くにつれ遠くの景色まで一気に見渡せて、思わず窓に張り付いて溜息を吐いた。

「ほら静香! アレ、ウチの団地だぜ! ここからでも良く見える」
「本当だね、お兄ちゃん。凄いね~」

 観覧車の上からは何でも見えた。
 自分達が住んでいる団地も、オレと静香が通っている小学校も、大きな船が泊っている童実野港も、遠くの山並みも、全て見えた。
 観覧車は少しずつ高度を下げて、やがて地面が見えてくる。
 残念に思いながらも係員のお兄さんがドアを開けてくれたのを見て後ろを振り返った。

「ほら静香、もう出るよ…。あれ? 静香?」

 さっきまでオレと一緒に騒いでいたはずの妹が、何時の間にかいなくなっていた。
 大変だと思い慌てて観覧車を飛び降りて、待っててくれた両親の元に行こうとすると…そこにも誰もいなかった。
 妹や両親だけじゃなかった。
 周りを見渡すと、さっきまであれ程沢山いた人達全員が消えてしまっている。
 足下を見ると、さっきまで整然と並んでいたタイルのあちこちが剥げてしまって、名前も知らない雑草が何本も生えていた。
 後ろからキィ…キィ…という耳障りな金属音がする。
 何事かと振り返ると、さっきまで乗っていた観覧車が動きを止めすっかり錆び付いてしまっていて、外れかけた金属片が風に揺れて嫌な音を出していた。
 それを見てぞわりと背筋が寒くなる。
 自分はここにいてはいけないんだと強く感じて、慌てて遊園地の出口へと駆けだした。
 誰もいないゲートを潜り抜けて街に出ると、そこは真っ白い霧で覆われていた。
 勿論街の中にも人っ子一人いない。
 慌てたオレはとにかく家に帰ろうと走り出す。
 見覚えのある道を走って走って走って、何とか団地まで辿り着いて二階まで駆け上がり自宅のドアを開けた。

「父さん! 母さん! 静香!」

 だけどそこには誰もいなかった。誰もいないどころか、何も無かった。
 玄関に置いてあった靴箱も、みんなの服が入った洋服ダンスも、リビングに置いてあったテーブルも椅子も、親父がよく野球中継を見ていたテレビも、押し入れに入れてあった皆の分の布団も、全て無かった。
 畳も全て剥がされていて板間が剥き出しになり、何に使うのか分からない材木が何本か壁に立てかけてあるだけ。
 タンッ…タンッ…と規則正しい音がして思わず振り返ると、きちんと閉められていなかった蛇口から漏れた水滴がシンクに落ちていただけだった。

「父さん…? 母さん…? 静香…? どこに行ったの…?」

 恐怖で身体がガクガクと震える。
 震える足で後ずさりして部屋から飛び出した。
 とにかく助けを呼ばないとと思って向かいの部屋のドアを夢中で叩いた。

「おばさん! おばさん助けて!!」

 中から返事は無かったものの、オレは思い切ってそのドアを開ける。
 するとおばさん家も何も無かった。
 靴箱の上にはあの水槽がそのまま置いてあったけど中には何もいなくて、腐って濁ってしまった水がゆらゆらと揺れているだけだった。
 慌ててそこも飛び出して一階へ駆け下りる。
 一階のお爺さんなら何とかしてくれると思いドアを開けるけど、やっぱり誰もいなかった。
 玄関にはお爺さんがよく持って来てくれた駄菓子の袋が散らばっているだけで、誰の気配もしない。

「………」

 絶望感に打ちひしがれてノロノロと団地から出てくる。
 外は相変わらず真っ白な霧で覆われ、何の音もしなかった。
 ここは確かにオレの知っている街。だけど知っている筈の街でオレは一人迷子だった。
 誰もいない、誰も助けてくれない。
 みんなオレを置いてどこかに行ってしまって、この霧の街でオレはひとりぼっちだった。

「っ…! ひっくっ…! うぇ…っ! うわぁぁぁぁぁ―――ん!!」

 耐えきれなくてついに大声で泣き出す。
 誰か助けてと大声で叫んでも、助けに来てくれる人は誰もいない。
 絶望感と孤独感に耐えきれなくなった時、普段だったらそこで唐突に夢が覚める筈だった。
 だけど今日に限って夢は終わらない。
 夢の中のオレはある人物を思い出していた。

「海馬…。海馬ぁ…っ」

 海馬ならきっと何とかしてくれると、訳の分からない妙な自信が出てきて、オレは泣きながら童実野町の中心地へ走り出した。
 独特な形状の海馬コーポレーションビルまで全速力で走っていって、三体のブルーアイズ像の間を抜けて入り口の自動扉に縋り付いた。
 だけどそこも他と変わらずガラスの向こうには誰もおらず、自動扉も少しも反応しない。

「どうして…。どうしてだよっ…!」

 オレはやりきれない思いで拳で扉を叩き、ついにしゃがみ込んでしまった。
 もうこれで本当にダメだと思った。
 顔を上げて周りを見渡す勇気も無くなって、ただしゃっくり上げて泣き続けるしかなかった。
 ふと、突然目の前の自動扉が開く音がした。そして誰かが目の前に立ったのが雰囲気で分かる。
 冷たい手がオレの頭に触れて、そして頬に流れ落ちた涙を拭った。

「海馬…?」

 その手に導かれるように顔を上げると、確かに目の前にいたのは海馬だった。
 大人の海馬が子供のオレに視線を合わせるように膝を付いて、こっちを見詰めて微笑んでいる。

「済まなかったな、城之内…。遅くなった」

 その言葉を聞いた瞬間、オレはたまらなくなって目の前の身体に抱きついた。
 普通の人間よりすこし体温は低いけど、確かに感じる体温と質感。そこにいたのは幻でも何でも無く、間違いなく海馬本人だった。

「海馬…っ、海馬…っ!」
「もう大丈夫だからな、城之内」
「お前…! もうどこにも行くなよ…! オレ…怖かった…っ!」
「あぁ、ここにいる。だから安心しろ」

 海馬の冷たい手が優しく優しく頭を撫でてくれて、オレは漸く安心することが出来た。



「ん…? あれ…?」
 頭を撫でられる感触が妙にリアルで目を覚ますと、何故かそこにも海馬はいた。
 一瞬まだ夢を見ているのかと思ったけど、どうやらこっちは現実世界のようだ。

「海馬…?」
「目が覚めたのか? 城之内」
「今…何時…?」
「夜の八時だ。随分眠っていたな。具合はどうだ?」
「お前…何でここにいるの…?」
「駄犬が本気で具合悪そうだったからな。日程をずらして貰ったのだ」

 酷いこと言ってる割には優しそうに微笑んで、海馬は一旦オレの側を離れた。
 手に何かを持って直ぐに戻って来た海馬は、オレの側に膝を付いて背中に手を入れて上半身を起き上がらせてくれる。
「喉が渇いただろう。スポーツドリンクだ。飲んでおけ」
 手渡されたそれを受け取って、素直に口を付けた。
 汗をかいていたせいか、喉が腫れて痛かったけれど一気に半分近くまで飲み干してしまう。
 それを見て思いの外大丈夫だと思ったらしい海馬は、そのままテキパキとオレの世話をし続けた。
 熱いお湯で固く絞ったタオルで身体を拭いてくれて、新しいパジャマと下着を用意して着替えを手伝ってくれる。
 さらにはオレが起きている内にとお粥まで作ってくれて、市販の薬を飲ませてくれた。
 最後のトドメとばかりに冷却シートを額に貼られ布団に押し込まれる。
「サンキューな…」
 再び布団に戻りつつ礼を言ったら、海馬は「フン、凡骨が」と鼻で笑っていた。

「礼を言う暇なんぞあったら、さっさと寝て良くなるがいい」
「嫌だ…。オレ、もう眠りたくない…」
「また嫌だ…か。余り我が儘を言うな」
「寝ると悪夢を見るんだよ。昔から具合悪い時とかによく見るヤツ。すっげー怖いんだ。実はさっきも見てた…」
「ふむ…。そういえば先程魘されていたな」

 そう言うと海馬はそっとオレの頭を撫でてくる。
「約束する。お前の熱が下がるまではどこにも行かない、ずっとここに居てやろう。夢に魘されたらまた起こしてやるから…。だから安心してもう眠るがいい」
 冷たい手で何度も何度も優しく髪を梳かれて、眠りたくないのにウトウトと意識が遠のいてくる。
 眠りに落ちる瞬間、「おやすみ城之内」と頬に優しいキスの感触がして、オレは少し幸せな気分になりつつ意識を失った。


 その後も何度もあの夢を見た。
 だけどその度にあの冷たい手が現実に戻してくれて、その度にオレは安堵の息を吐く。
 だから夢を見るのは嫌だったけど、どこか安心して眠りにつくことが出来たんだ。


 海馬の看病のお陰で熱は収まり、次の日の朝には大分体調が戻っていた。
 心配した海馬にその日もお世話になってしまい、結局海馬がアメリカに飛んだのは予定から二日も遅れての事だった。
 二週間会えないのは変わらないけれど、オレはもう我が儘を言うつもりは無かった。
 だってそんな事しなくたって、あの冷たい優しい手はいつだってオレに伸ばされてるんだと分かったから。
 だからあの夢はもう怖くない。
 だって最後にはお前がちゃんと助けに来てくれるって分かっちまったからな。
「早く帰って来いよな。オレお前に一杯お礼しなくちゃいけないんだから…」
 あの冷たい手を思い出しつつ、オレはどうやってお礼してやろうかと二週間後を楽しみに待ち続ける事にした。