Text - 短編 - 落陽

城之内×海馬。
ちょっと切ない系(?)のお話です。

 


 

 喉の渇きを覚えて城之内は目を覚ました。
 部屋の中が薄暗くなっていて慌てて枕元の目覚まし時計を確認すると、針は十七時半を差している。寝入ったのは昼の三時でまだ外は太陽が高く昇っていたというのに、たった二時間半でその威力は西の彼方へ消えようとしていた。 秋の落日は早い。そっと西向きの窓から外を眺めると、今まさに最後の陽光が沈みゆこうとしている最中だった。
 赤い光が遠く西の地へ落ちたのを見届けて、城之内は振り返った。布団の上ではまだ海馬が気持ち良さそうに眠っている。白い裸体に毛布を巻き付けて一瞬ゴソリと動きはしたものの、溜息のように深く息を吐き出すと再び規則正しい呼吸を繰り返し始めた。
 城之内がこの海馬と身体の関係を持つようになってから、丁度一年が過ぎていた。
 

 去年の今頃。丁度二学期に入り夏休みの自堕落な生活を忘れ、規則正しい学校生活のリズムを取り戻していた頃。城之内と海馬は唐突にそういう関係に陥った。
 切っ掛けはよく覚えていない。確か学校が始まりバイトが忙しくなってストレスが溜まっている時に、久しぶりに登校した海馬とちょっとした事で揉めて激しい言い争いになった事が始まりだったと思う。
 海馬も海馬でもうすぐ上半期が終わるこの時期は仕事が立て込んでいて、それでも何とか仕事と学業を両立させようと必死に頑張っていた。溜まり続けるストレスに閉口しながらも、終わらせた課題を提出しようと登校したところで城之内とぶつかってしまったのである。
 どちらが先に因縁を付けたかなんてもう忘れてしまった。ただ教室内で激しく言い争い城之内が海馬の胸ぐらを掴んだ辺りで、慌てた遊戯に止められた事だけはよく覚えている。
 結局そのすぐ後に授業が始まってしまい、海馬との喧嘩もそれで終わった筈だったのだが…。どこから嗅ぎつけたのか。次の日、城之内の携帯に海馬からのメールが届いていたのだ。曰く、

『貴様も色々溜め込んでいるようだな。丁度いい。今度我が邸に来るといい。良いストレス解消を教えてやる』

 …と書いてあったのだ。
 一瞬何か裏があるんじゃないかと訝しげに思ったものの、結局単純思考の城之内はその言葉通りに海馬邸を訪れて、そしてストレス解消と称したセックスに勤しむ事になったのだ。
 初めて海馬と身体の関係を持ってから丁度一年。最初は自分が海馬邸に訪れるだけだった逢瀬も、いつの間にか海馬も城之内の家に上がり込むようになった。海馬邸の柔らかいベッドとは違う畳に直に引いた固い布団の上で、海馬は城之内の愛撫によがって泣いた。防音管理が完璧な海馬の私室とは全く違う薄い団地の壁を気にして、口に手を当てて漏れ出る声を必死に我慢する。目元を真っ赤に染め上げて「っ…! うっ…!」と泣きながら耐える海馬を見る度、城之内は酷く興奮して余計に酷く海馬を抱いてしまうのだ。
 海馬邸での開放的なセックスと、そして自分の家での閉鎖的なセックスを両方楽しみつつ、二人の関係は続いていく。そして気が付いたら一年が過ぎていたのだ。


 完全に日が没したせいで外はあっという間に暗くなり、部屋の中も電気を付けなければ何も見えない状況になっていく。それでも城之内は明かりを付ける事を躊躇って、自分の布団の中で穏やかに眠る海馬を黙って見詰めていた。
 一年経って漸く気付いた事がある。それはお互いの気持ちがどこにあるのか、全く分からないという事だった。
 気持ちを伝えた事なんて無い。何故ならばそれは全く必要の無い事だったから。自分達が身体を重ねるのはあくまでストレス解消の為であって、決して愛を確かめる為の行為では無かったからだ。
 海馬の身体の事なら隅々まで知っている。多分海馬も城之内の身体の事なら何でも知っているだろう。互いに互いの外側は知り尽くしているというのに、その中身が分からないのだ。心の中が見えない、読めない、感じられない。身体の熱は昂ぶっても、心はいつもどこかに置き去りにされヒンヤリと冷めたままだった。
 城之内は、最近この関係に疑問を持つようになってきた。何となくこのままではいけないような気がする。だけれども、同時にこのままで良いような気がするのも事実だった。
 自分達はもう高校三年生だ。半年後には卒業して、それぞれの行き場所へと散っていく。海馬はそのまま海馬コーポレーションの社長として世界をその手に握る為に、今まで以上に奮闘していく事だろう。自分も卒業後は本格的に働き出す予定だ。必死で働いて父親がこさえた借金を返さなくてはいけない。そしてお互いの世界で生きていく自分達は、今までのようには会えなくなるという事なのだ。
 そこまで考えて城之内は深く溜息を吐く。
 つまり…自分達の関係はここまでだ…という事に気付いたのだ。

「あぁ…。参ったなぁ…」

 口の中で小さく呟き、城之内は布団の脇に落ちていた自分の下着とTシャツとスウェットを手に取った。手早く身に着けてそのまま足音を忍ばせて布団を横切り、居間に続いている襖を開ける。そして後ろ手で静かに襖を閉めると、居間と台所の電気のスイッチに手を伸ばした。パチンという音と共に明るくなる部屋の中。暗い世界になれていた瞳孔がその明るさに耐えきれずに、一瞬何も見えなくなった。まるで無理矢理夢から覚めさせられたかのようだな…と思いながら、何度か瞬きを繰り返して人工的な明るさに瞳を慣らしていく。
 自分の眼が漸く明るさに慣れたのを感じて、城之内はそのまま台所へと進んでいった。コップを手に取り蛇口を捻って水を出す。コップの縁ギリギリまで水を貯めて、そしてそれを一気に喉に流し込んだ。乾いた喉が潤っていく。身体の隅々にまで水が染み渡っていくようだった。なのに…最深部の心にだけはその水は届かない。ずっと乾いたままなのだ。
 空のコップをテーブルに置き、シンクに寄りかかったまま城之内はまた深い溜息を吐く。
 本当は自分の気持ちにはもうとっくに気付いていた。海馬との関係をこのまま終わらせるのは嫌だった。だが自分だけがそう思っていたところで、一体どうしろと言うのだろう。海馬の気持ちがどこにあるのか、全く分からないというのに。

「馬鹿だな…オレ」

 そのままズルズルとしゃがみ込み頭を抱える。
 身体だけの関係だなんて、最初から分かっていた事じゃないか。このセックスはただのストレス解消の為の行為。一般的な愛を語り合う為のものじゃない。それでもいいと、いや…むしろその方がいいとお互いに納得して今の関係になったんじゃないか。
 自分だって最初はそう思っていた。このままでいいと信じて疑わなかった。それなのに時が経つにつれ、どんどんと心が引っ張られていった。互いの心が見えなかったばかりに、その事実に気付かなかった。そしてある日突然気付かされたのだ。自分が海馬に惹かれている事に…。
 慌てても時既に遅しとはこの事で、既に後戻りは出来ない状況にまで追い込まれていた。せめてこれ以上は…と思って何とか無関心を装うが、一度確認してしまった感情は肥大していくばかりで留まる事を知らず、城之内を苦しめていくだけだった。

 海馬が欲しい! 海馬が欲しい! 海馬が欲しい!

 城之内の心が必死で叫ぶ。そんな事は不可能だと分かっているのに。海馬とのセックスに溺れて流されて、彼を抱けば抱く程その想いは強くなっていった。海馬への気持ちに気付いた本当の自分が、心の内側からドアを叩き続ける。ここから出せとずっと叫んでいた。だが、出してやる訳にはいかなかった。そんな事をすれば、この関係はすぐに終わってしまう事が分かっていたから…。

「あ…。でもそれ、いいかもな…」

 しゃがみ込み、薄汚れた台所の床を見ながら城之内はポツリと呟いた。
 そうだ。いっその事本心を告げてしまえばいいのだ。そうしたらこの関係はすぐに終わってしまうだろう。さながら先程見た秋の落陽のように…あっという間に。きっと海馬は城之内の身体は求めていても、心は全く求めていない。自分の中に海馬に対する気持ちが溢れていると知ったら、途端に面倒臭くなって自分から離れて行くのは目に見えていた。
 そうだ…そうしよう…終わらせてしまおう…。何もこの関係を卒業まで引き延ばす必要は無いのだ。それであと半年も苦しい思いを抱え込まなきゃならないのなら、いっその事今の内に終わらせてしまえばいいのだ。そうすればきっと楽になる。最初は辛くても…きっと無駄にズルズルと関係を続けるよりマシだと確信した。
 どうせなら今ここでさっさと終わらせてしまえ。そう思ってその場で立ち上がった時、唐突に居間と寝室を隔てている襖が開いた。驚いてその場所を見詰めていると、暗闇の中から上半身にシャツを纏っただけの海馬がゆらりと出て来る。明るい電灯に眩しそうに目を細めながら裸足のままペタペタと床を歩き、そして城之内の前でピタリと止まった。青い瞳がじっと自分を見詰めてくる。

「な…何…?」

 余りにもじっと見詰められて居心地が悪くなり、そう問いかける。すると海馬は酷く不機嫌そうに眉を顰めて口を開いた。

「貴様…。何で側にいない」
「は?」
「真っ暗になった他人の部屋で目覚めて、しかも一人にされている気持ちを考えろ。不安になるだろうが」
「あ、あぁ。そういう事か。ゴメン…あんまり良く眠ってたもんだから…」
「大体貴様はオレの恋人の癖に無責任過ぎる。オレの身体だけ手に入ればそれでいいのか? オレとは身体だけの関係なのか?」
「え…いや、そういう訳じゃ…。って、ええぇぇぇ―――――っ!?」

 余りに自然に海馬の口から漏れ出た『恋人』の言葉を一瞬そのまま流しそうになって、一拍遅れて気付いた城之内は思わずその場で叫んでしまった。何でそこで城之内が叫んだのか海馬には全く理解出来なかったらしく、その煩さに不快そうに眉を顰め首を傾げる。

「何故そこで叫ぶ。煩いぞ凡骨。静かにしろ」
「えぇっ!? だ、だって、こ…こ…恋人って…っ! 恋人って…お前っ!?」
「………? 恋人だろう? 何を今更」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!! オレ達いつから恋人になったんだよ!!」
「は? 貴様は何を言っているんだ? いつからって…ふむ。丁度一年前か」
「えぇぇっー!? マジで!? アレから? 最初から!?」
「………? 城之内…? 貴様…もしかして…」

 城之内の驚きように、漸く海馬も何が起こっているのか理解し始めたようだった。途端に不機嫌になり、眉間の皺がますます深くなる。青い瞳が鋭く睨み付けてきて、城之内は思わずたじろいでしまった。

「城之内…」
「は…はい…」
「貴様…もしやこのオレをただのセックスフレンドとは…思ってはいないだろうな…?」
「………」
「どうなんだ?」
「えーと…」
「城之内」
「スミマセン…。思ってました…」

 城之内がそう謝った途端、「巫山戯るなぁー!!」という怒声と共に左頬に激しい痛みが襲ってきた。海馬が思いっきり城之内の頬を平手打ちしたからなのだが、その余りの激しさに揺らぐ身体を何とかシンクに手を付く事で支え、城之内は慌てて目の前の海馬を見返した。
 目の前に立っている海馬は、顔を真っ赤にして震えていた。青い瞳がじんわりと潤っている。全身から迸る怒りと悲しみが、城之内の目にも見えるようだった。

「貴様にも舐められたものだ…っ。オレが…このオレが…っ! 何の関係も無い奴に平気で足を開くような奴だと思われていたとは…っ! 情けなくて涙が出るわ!!」
「ゴ…ゴメン…ッ!」
「謝るな! 余計虚しくなるわ!!」
「ゴメン…ッ!!」
「謝るなと言っているだろう!! 一年も恋人だと思って…一人で盛り上がって…。情けないにも程がある…っ!」
「ホントにゴメン…ッ!」

 怒りと悲しみでブルブル震える身体に手を伸ばし、城之内はその細い身体を抱き締めた。途端に海馬が激しく抵抗するが、それも腕力にものを言わせて無理矢理抱き込んでしまう。

「離せ!!」
「嫌だ! 離さない!!」
「離せと言っているんだ!! 貴様にとってオレなんぞただのセックスフレンドの癖に!!」
「そうは思って無い! いや、思ってたけど…。でも好きなのは本当だから…っ!!」
「嘘を吐け!!」
「嘘じゃない!! 好きなんだよ! オレ、お前の事が好きだ!!」
「嘘だ…っ! 貴様なんてどうせ、セックスさえ出来ればそれでいいのだろう!?」
「そんな事思って無い…! 思ってないから苦しかった…っ! お前の事を好きになって苦しかったんだよ…っ! だって…だって…」

 未だ抵抗を続ける身体を思いっきり強く抱き締めて、城之内は心から叫んだ。

「だって…お前の本心がどこにあるのか…全然分かんなかったから…っ!!」

 城之内の叫びに漸く海馬が身体の力を抜く。そして信じられないように小さく耳元で「何だと…?」と問いかけてきた。

「海馬…。オレはお前の方こそが、オレの事をただのセックスフレンドだと認識してるんだって…思ってた」
「馬鹿な…っ。そんな筈無いだろう…?」
「でもさ…。お前…自分の気持ちを教えてくれなかったじゃんか。最初の理由だって『ストレス解消の為のセックス』だっただろ? だからオレもてっきりそうなんだと思ってたんだ」
「つ、伝えて…無かったか?」
「うん…」
「本当に…?」
「残念ながら…」

 二人で一瞬固まり、そして次の瞬間には互いに「はぁ~…」と情けない声を出しつつ抱き締め合いながらその場に崩れ落ちた。
 馬鹿なオレ達…と城之内は海馬の身体を優しく抱き寄せながらそう思う。一年も互いに互いの気持ちを確認せず、ずっとすれ違ったままだった。あんなに肌を重ね合ったのに、語り合う時間もあったというのに、確かめる勇気さえ持てず危うく本当に崩壊するところだった。
 シャツ一枚しか羽織ってないせいで秋の夜の空気に冷えてきた海馬の肌を擦りながら、城之内はもう一度強くその身体を抱き締める。今はどんなに嫌がられても、この身体を離そうとは思わなかった。まぁ…抱き締められている海馬の方にも一切抵抗は見られなかったのだが…。

「オレ…鈍いから…、お前の気持ちに気付けなかった…。本当に…ゴメンな…」

 心からそう謝ると、城之内の首元に顔を埋めた海馬はフルフルと小さく首を横に振った。

「もういい…。ちゃんと言わなかったオレも悪かった…」
「でも…。せっかく恋人だと思ってくれたのに、一年も無駄にしちまった…」
「後悔したって過去には戻れんぞ」
「うんまぁ…そうだけど」
「これからではダメなのか?」
「え…?」
「この一年はもういい。いい勉強になったと諦めるしか無い。だから…これから始めるのではダメなのか…と聞いている」
「………っ!!」

 聞こえてきた海馬の言葉が本当に嬉しくて、城之内はますます力を入れて細い身体を抱き締めてしまった。それに当の海馬は苦しそうに呻いたが、別に文句を言う事も無く大人しく腕の中に収まっている。それどころかそっと腕を回して、城之内の背を強く抱いてくれた。サラリとかかる栗色の髪に自分の頬を擦りつけるように、城之内は何度も頷く。

「うん…っ。うん…っ。これから…これからでいいから…。だからオレの恋人になってよ…っ!」

 城之内の脳裏に先程の秋の落陽が浮かび上がる。西の地に消えていったあの最後の光は、てっきり自分達の関係だと思っていた。だが、あの落陽の光はそうではなく、消えていったのはこの一年の間に知らず知らず気付いていた自分達の誤解の方だった。
 外はもうすっかり暗くなり、夜空には秋の星々が瞬いている。澄んだ秋の空気はとても美しく星空を彩っていた。人工的な明かりの中にいる二人にはそのささやかな光が届く事は無いが、それでもその光達は漸く本当の恋人同士になれた二人を祝福するようにいつまでも輝いていた。