Text - 短編 - 恋愛回避不可能症候群

城之内+海馬→城之内×海馬。
『相互依存症』の続きになります。

 




 一週間ぶりに鳴った携帯電話の着信メロディーに海馬は簡単に応対すると、もはや何も言わずに棚の上から救急箱を取り出して治療の準備を始めていた。


 城之内と海馬が相互依存症になってしまってから早一年半。長い冬も終わりに近付き春はもうそこまで来ているというのに、まだまだ寒い日が続いているような、そんな時期の事。
 城之内も海馬も高校卒業を間近に控え、それぞれの進路の対応に追われていた。
 海馬は近場への大学への進学を早々に決め、城之内は童実野町内にある中小企業への内定が決まっている。高校を卒業したら実家を出て一人暮らしをし、真面目に働いて借金をさっさと返して、そして今度は自分の為に金を貯めるんだと城之内は事ある毎に海馬に話して聞かせるのだ。そんな風に自分の夢を語って聞かせる城之内の顔は希望に満ちていて、それを黙って聞いている海馬も至極いい気分だった。城之内が夢を語り、明るい未来に夢を馳せれば馳せる程、海馬も心から安心する事が出来たのだ。
 だがその城之内の選択が、あのアルコール中毒の父親の逆鱗に触れている事も確かな事実であった。現に就職先の内定を貰ってからというものの、城之内が海馬の家に避難しにくる事も格段に増えている。以前は一、二ヶ月に一回だった城之内の避難も、現在は一、二週間に一回の割合になってしまっていた。
 今日も目の前に現れた城之内の惨状を見るやいなや、海馬は不機嫌そうに眉根を寄せて黙って治療の準備を始めた。
「今回はまた…早かったな」
 温水で濡らしたタオルで顔や手足を拭いてやりながらそう言うと、城之内は困ったように微笑んで「うん…」と力無く頷いてみせる。

「オレが家を出て、生活費を入れなくなるのが嫌みたいなんだよな。借金は全部こっちで返してやるって言ってるのにさ…」
「自分が働く分だけでは家賃や光熱費が払えないのか?」
「そんな事は無いぜ。あの団地の家賃はすっげー安いし、光熱費だって大した額にはならない。だって今まで高校生のオレが稼いできた金だけで何とかやってたくらいなんだからな。親父が働く分だけでも十分賄えるし、上手く節約すれば釣りが出るくらいだ」
「ならば何故…」
「ようは自分が酒を飲んだり遊んだりする為の金が少なくなるのが嫌なんだろう。今までは家賃も光熱費も全部オレが賄って来たから、親父は自分の為の金だけを稼いでくれば良かった。逆に言えば、親父が稼いで来た金は親父だけが自由に使えていた訳だ。だけどオレが出ていっちまったら、そうはいかなくなるだろう?」
「まぁな」
「だから、ここんところ物凄く荒れちまってる。事ある毎に絶対に出て行かせないだの、出て行くんなら仕送りをしろだの煩くてさー。オレがそれを断わると、お約束通り拳やら足やらが飛んでくるって訳だ。いやいや、参ったねこりゃ」

 話をしながらも海馬は丁寧に城之内の傷の手当てを続けて、そして「フン」と鼻で笑ってみせた。

「それは完全に息子に甘えきってしまっているな。そんな奴は早々に見捨てるに限る」
「うん、分かってる。だからオレも家を出て行く事にしたし、余計な金は一切送らない事に決めたんだ。親父を甘やかすのは…もう止めだ」

 腕の内出血痕に湿布を貼って貰いながら、城之内はそう言って少し寂しそうに笑う。そんな表情を見て、海馬はまた苛々とした気分が募って行くのを感じていた。
 家を出て行くと言っているのに、もう甘やかさないと言っているのに、それなのにあの父親を見捨てる気なんてこれっぽっちも感じられないのだ。
 出ていってすぐは厳しい対応が出来るだろう。だが時が経てば、城之内は結局父親に情けを掛けてしまうのだ。それが城之内の優しさだと言う事はよく分かっている。だが常に自分勝手に金を要求し、気に入らない事があれば酒を飲んで息子を本気で殴りつけるあの父親に、城之内がそこまで気に掛ける理由が分からなかった。
 そこには確かに親子という絆があるのだろう。抗えぬ血の繋がりもあるのだろう。自分とてモクバとの血の繋がりを大事にし、兄弟としての絆を信じている。だが自分達の絆と、城之内達の絆は、何かどこかが違う気がした。
 このままでは…ダメな気がしてならなかった。

「そんなに…。そんなに自分の父親が大切か?」
「え………?」

 突如低く呻くように吐き出された声に、城之内が驚いたように顔を上げた。
 海馬は城之内の右手の甲に出来た傷の上に丁寧に包帯を巻きながら、酷く不機嫌そうに口を開く。

「家族が大事だという気持ちはオレにも理解出来る。オレにだってモクバがいるからな。だが、貴様の父親はその気持ちに値しない事をし続けている。それなのに何故貴様はそんなにもあの父親の事を気に掛け続けているんだ」
「海馬…」
「こんなに酷い目にあっていながら、それでもまだあの父親が大切なのか? 自分の身がボロボロに傷付けられるよりも大切なものなのか…? 自分の将来を父親の欲望の為だけに潰されても…それでもまだ大切なのか? 城之内…っ!!」
「いっ………!」

 綺麗に包帯を巻かれた手をギュッと強く握られて、城之内は思わず呻き声を出してしまう。だけど文句は出なかった。目の前の海馬が酷く真剣に…そして哀しそうな顔をしているのを見てしまったから。
 すっかり俯いて何も言わなくなってしまった海馬の手から自分の手を引き抜く。そして薬品臭い手で栗色の頭をそっと撫でた。サラリと柔らかな髪が指の間を通り抜けていく。それがとても気持ちが良かった。
「どうした、海馬? 今日はまたえらく不機嫌だな」
 そう言って敢えて明るく笑いかけると、海馬は不機嫌な様相を隠しもせずに睨み付けてくる。

「今日は…では無い。いつも不機嫌なのだ。オレは本当はもう嫌だったんだ。実の父親にボロボロに傷付けられて命からがら逃げてくるお前の面倒なんか、もう二度と看たくないと思っていた」
「え? マジで? それは気付かなかったなぁ…」
「この鈍感が! だから貴様は凡骨なのだ」
「ちょ…っ! 凡骨って言うなよ!」
「煩い! 黙れ凡骨!! それでも我慢して治療してやっていれば…この様は一体何だ!? 何で避難してくる回数が驚異的に増えているのだ!!」
「何でって…。だからそれはさっきも言った理由があってだな…」
「喧しい!! もう下らない言い訳なんぞ聞きたくないわ!! オレはずっと抵抗しろと言っているだろう!? 何で貴様はいつもやられっぱなしなのだ…っ!!」

 最初の頃は、これでいいと思っていた。過去に虐待を受けていてトラウマを持っている自分が、現在進行形の城之内に手を差し伸べる事によって、傷付いていた心が少しずつ癒されていくのを感じていたから。
 だけど最近はそうでは無くなってしまっていた。
 城之内の傷を見る度に…凄く辛いと感じてしまうのだ。それは決して城之内の傷の手当てをする事が嫌だという訳ではない。むしろ城之内の身体に傷が付くのが嫌だと感じていたのだ。
 海馬は自分では気付いていなかったが、傷付いた城之内を介抱する事によって、彼のトラウマはもうすっかり浄化されていたのである。だからこそ海馬の心は次のステップに進んでいた。
 つまり、好意を持った人間が傷付いていくのを『辛い』と感じるようになっていたのである。しかもその傷は他人によって無理矢理付けられたものだった。それだけでもより辛いと感じてしまうのに、当の本人はその理不尽な暴力を抵抗もせずに敢えて受け止めてしまっている。これで苛つくなという方が無理な話だった。


 そうだ…。オレはいつの間にか…この男の事が好きになっていたんだ…。
 自らが手当を施したその手で優しく頭を撫でられながら、海馬はずっとそんな事を考えていた。
「おい、凡骨…」
 俯いたままそう小さく呼びかけると、頭を撫でていた手の動きが止まる。それを確認して海馬は顔を上げ、目の前にいた城之内の顔をじっと見詰めた。

「これからオレが言う事を良く聞いておけ」
「う、うん…」
「オレは貴様が好きだ」
「あ…うん」
「Likeでは無い。Loveで好きだ」
「うん…。って、ええぇっ!?」
「貴様がオレの告白をどう受け取ろうと構わないが、これだけは聞いて貰う。オレは貴様の事が好きだから、もう貴様の手当をする事が嫌なのだ。ただの怪我ならまだしも、オレの意に沿わぬ暴力を甘んじて受けた結果の怪我なんぞ、金輪際面倒看たくは無い」
「かい…ば…」
「だからこれ以上『抵抗』をせずにいるのならば、二度とオレの邸に来るな。来たとしてももう入れてはやらないし、怪我の手当だって絶対にしない。それで貴様が野垂れ死のうがどうなろうが、オレの知った事ではないからな」
「海馬…。お前、オレの事が好きだって言った途端にそれかよ」
「好きだからだ。好きだと思った男が他人に好き勝手に傷付けられて、その怪我の手当をする方の身にもなってみろ。抵抗しているのならまだしも、当の本人は暴力を受けてもヘラヘラと笑っているだけなのだぞ。これで怒るなという方が無理な話だ。そうだろう?」
「うん…まぁ…そうだよなぁ」
「分かったのならさっさとシャツを脱いで後ろを向け。今日の分の手当くらいはしてやるから。ただしこれが最後だ。次回からは知らんから、そのつもりでいろ」

 相変わらず不機嫌な表情を崩してはいないが、その頬に微かに朱が差しているのを見て、城之内は慌ててシャツを脱いで後ろを向いた。
 心臓がドキドキして止まらない。慌てて振り向いたのは、自分の顔が急激に熱くなっていって、それを海馬に見られたくないが為だった。
 背中の痣に湿布を貼る海馬の指先に、この鼓動が伝わっていなければいい…と思った。だが次の瞬間、逆にその鼓動が伝わっていればいい…なんて事も思ってしまう。ドキドキしながらも背後の海馬が気になって、そっと肩越しに振り返った時だった。
 突然背中に重みを感じて動きを止めてしまう。
 海馬が…自分の背中に両手と頭を押し付けていた。

「うぇっ…!? ちょ…か、海馬!!」
「黙れ。動くな」
「う、動くなって…。お前…っ」
「どうせ貴様はこれからも『抵抗』をしないつもりなのだろう?」
「え…?」
「だったらこれが最後だ。オレは先程も言った通り、もう二度と貴様の手当はしない。好きなだけ殴られてくるがいい」
「好きなだけって…。オレも別に好きで殴られてる訳じゃ無いんだけど」
「煩い。『抵抗』もしない癖に」

 海馬の声は震えていた。そしていつも手当をしてくれる優しい手も…震えている。
 完全に背中にピッタリくっつかれている為に、その表情を伺う事は出来ない。それなのに城之内は何故か確信してしまった。
 海馬は今…泣きそうになってしまっているんだという事を。

「海馬…オレ…ちょっと反論してもいいかなぁ? 言い訳がましく聞こえるかもしれないけど」

 敢えて声を低く出し真面目な話をしたいんだと言外に伝えると、背後の海馬がピクリと震え、だが異論が出る事は無かった。
 それに安心して城之内は話を続ける事にする。

「親父が大切かって言われれば…そりゃ大切なんだと思うよ。たった一人の父親だしな。オレはほら、馬鹿だからさー。どんなに殴られても蹴られても、ずーっと親父の事を信じていたんだよ。それが親子の絆だと思ってた。その絆を信じていた。お前の目にはただの甘やかしに映っていただろうけど、それが親父の為になるんだって、ずっと信じて疑わなかった」
「………」
「だけど…。お前のところに来るようになって、それって何か違うんじゃないかなーって思うようになったんだ。だっていつまで経っても絆も何も感じられない。オレがどれだけ頑張ったって、親父はちっとも変わる事が無かったんだ。それどころかどんどん酷くなる」
「………」
「その代わり、別の絆を感じられるようになってきてたんだ。それは凄く心地良い絆で、会えば会うほどどんどん絆が深まって、それがとても気持ちが良かった」
「………」
「お前の事だよ、海馬。分かってるか?」
「………っ!?」
「お前のところに逃げ込む度に、優しく丁寧に傷の手当てをして貰う度に、オレはずっと嬉しいって思ってた。お前の側にいるのが心地良かった。心から安心出来た。誰かの側にいてこんな気持ちになった事なんて、初めてだった」
「城之…内…」
「だけどオレのそんな甘えが、お前をここまで苛つかせていたなんて知らなかった…。本当に知らなかったんだ。苦しませて…ゴメンな?」

 ゆっくりと身体を離して城之内は振り返った。そして目の前で泣きそうな顔をしたままの海馬に手を伸ばし、今度は自分の胸の内に抱き寄せる。海馬は一瞬驚いたようだったが、結局抵抗もせずに黙って抱き締められていた。自分が施した手当による強い薬品臭がツンと鼻を刺す。その臭いが不快で、まるで消し去ってしまいたいかのように海馬は城之内の胸に顔を擦りつけた。

「自分勝手で悪いけど、これが最後だなんて嫌だ。オレはもっとお前の側にいたい。側にいられるなら何でもする。オレは…どうしたらいい?」

 擦り寄る海馬の頭を優しく撫でつけながら、城之内は自信無さげにそう呟いた。それに軽く溜息を吐くと、海馬は城之内の背に手を回した。今度は城之内が痛がらないように加減しつつ抱き締める。

「『抵抗』しろ。絶対に譲歩はするな。それがあの父親の『為』になるし、貴様にとっての最大限の『親孝行』にもなる」
「うん、分かった」
「ただし勘違いはするなよ? オレは貴様の父親と同じようにすればいいと言っている訳では無い」
「ちゃんと分かってるよ。言われなくても、今度はさっさと『逃げて』くるから。もう黙って暴力受けたりはしないから」
「あぁ。分かっているならいい」
「そしたらまた受け入れてくれる?」
「勿論だ」
「良かった。じゃぁ…ついでにもう一つ聞いてもいい?」
「何だ?」
「それは友達として? それとも…恋人として受け入れてくれるって事?」
「っ………。そ…それは…っ。好きに…しろ…」
「そっかー。好きにしていいのか。じゃぁ後者がいいな。うん。やっぱ恋人がいい」

 そう言うと城之内は抱き締めていた海馬の身体をそのままゆっくりとソファーに押し倒した。眼下に見える青い瞳が、じっと自分を見詰めている。それが嬉しかった。この美しい青い瞳が自分だけを見詰めてくれているのが、本当に心から嬉しかったのだ。
 キスをしようとそっと顔を近付けると、突然口元を掌で押さえつけられてしまう。海馬の手から漂ってくる薬品臭に顔を顰めつつ、城之内は至極不満そうに鼻を鳴らした。

「ちょっと…、何してんだよ。手が邪魔なんですけど?」
「まだ返事を聞いていない」
「返事?」
「オレの気持ちに対する貴様の気持ちだ。その場の雰囲気に流されてそういう関係になるのだけは絶対に嫌だ」
「細かいなぁ…お前。ここまで行動に移しているんだから、もう分かっているようなもんじゃん」
「分からないから聞いているのだ、この馬鹿者が」
「好きな男に馬鹿者って言うなよ…」
「で、返事は?」
「…き…だよ…」
「ん?」
「好きだよ、マジで。オレもお前と同じ気持ちです。これでいい?」
「ふん…。まぁいいだろう。一言多いがな」

 偉そうにそんな事を言う海馬を城之内が軽く睨み付け、そして耐えきれないように二人でクスリと笑い合い、やがて今度こそ本当にキスをする為にお互いの顔を近付けていった。
 ロマンの欠片もない非常に薬品臭い初めてのキスは、二人の脳裏にいつまでも残っていく事になる。


 それからの城之内は、あまり酷い怪我をして来なくなった。
 逃げる際にどこかにぶつけたり転んだり、または避けようとしても避けきれなかったりした傷はあるものの、今までのような酷い傷痕は一つも無い。
「今日はこれだけで済んだぜ」と至極嬉しそうに報告する城之内に溜息を吐きつつも、海馬はその度にしっかりと手当をしてやるのだ。
 城之内に対する愛しい気持ちを込めて、丁寧に…優しく、少しだけ力を込めて。