城之内克美×海馬瀬人子。
『Escape...?』から少し経った後の二人のお話です。
あくまで『親友』としてのお泊まり会は続けていたようですが、それぞれに気持ちの変化が出て来たようです。
それはもうすっかり恒例となっているお泊まり会で、そろそろ寝ようかと一緒にベッドに入った時だった。克美が暇潰し用にと持って来ていたティーンズ雑誌をやけにじっくりと読んでいた瀬人子が、ふと顔を上げてこんな事を言い出した。
「なぁ…城之内」
「何ー?」
「キスってそんなに気持ちの良い物なのか?」
「………ぶっ!!」
ゴソゴソと瀬人子の隣に潜り込もうとしていた克美は、一拍遅れて吹き出してしまう。すぐに反応出来無かったのは、それが瀬人子の言葉だという事が認識出来無かったからだ。
認識出来無かったというか、脳が拒否したと言った方が正しいような気がするが…。
瀬人子にアメリカ人のセレブとの結婚話が持ち上がって、それを嫌がった克美が瀬人子を連れて脱走騒ぎを起こしてから暫くが立つ。あれから二人の関係は少しだけ変わった。一見何も変わっていないように見えても、お互いを見る目線が変わってしまったのは明白だった。
まず克美は、同じ女性でありながらも自分が瀬人子に恋をしている事を、はっきりと自覚してしまった。瀬人子の要望もあってそれから何回もお泊まり会は続けられたが、克美の態度は何となく遠慮しがちになっていった。
それもその筈…。克美は決して遠慮している訳では無い。遠慮では無く、自重なのだ。
もし自分が自重する事を辞めてしまったらどうなるかなんて、今の克美にはよく分かっていた。だから克美は距離を取る。あからさまにすれば瀬人子にもバレてしまう為、そっと気付かれぬように…何気なく引いているのだ。
もしかしたらとっくの昔にバレているのかもしれないが、瀬人子がそれについて何も言及しない為、克美は今の状態が続けばそれで良いと思っていた。
そして瀬人子の方はと言うと、克美の性生活について何も言わなくなってしまった。
以前はあれ程口喧しく、克美の乱れた貞操観念について小言を言っていたというのに、それについて一切何も言う事が無くなってしまったのである。勿論それは、克美があの日街中で一緒に買い物に来た筈の瀬人子を置いてけぼりにし、元彼とラブホテルに消えてしまったという事件以来、そういう事を一度もしていないというのも一つの理由ではあったが…。
それでもたまに克美が過去の自分の体験談なんかを話しても、瀬人子が逆上してそれに反論するというやり取りは全く無くなってしまったのだ。克美が言う事をただ黙って聞き流し、けれど自分には分からないと少し寂しそうな笑顔を浮かべるだけだった。
見えないけれど、克美と瀬人子の間には確実に何かの壁が出来てしまっていた。二人ともそれにハッキリと気付いている。気付いてはいるけれど…二人揃って気付かない振りをしているのだ。まるでそれが暗黙の了解であるかのように。
こうなってくると、自然とその手の話もしなくなってくる。最近は本当に学校の事や、流行りの話題など、無難な会話しかしていない。お泊まり会をし、二人で一緒にお風呂に入ったりベッドに寝転がったりしても、どこか手探りの会話しかしていなかったのだ。
克美はそんな状況を、少し疲れると思っていた。けれど…疲れはするが安心もしていた。そういう話をしてしまえば、いずれ自分の気持ちも隠しきれなくなってボロが出るかもしれないという危機感を、本能的に感じていたのかもしれない。
そんな状況下が続く中、急に発せられたあの瀬人子の一言に克美がパニックを起こすのは…当然と言えば当然であった。仕方が無かったのかもしれない。
先程の会話から数秒後、克美の頭は真っ白のままだった。口はパクパクと大きく開閉し、何か言おうとしても言葉が出て来ない。一人でアワアワしている克美を、瀬人子はただじっと見詰めていた。
やがて、何とか落ち着きを取り戻した克美は大きく深呼吸をし、瀬人子に向かって尋ねてみる。
「………な、何で急にそんな事を…?」
「別に? ただ少し気になっただけだ」
せっかく克美が思いきって尋ねたその一言にも、瀬人子は我関せずと言った風に飄々と答える。
お前の『少し』はこっちの心臓に悪いんだよ!! と心の中で悪態をつきつつ、克美はホッと息を吐いた。正直これ以上突っ込んだ質問をされても、答えようが無いからだ。
大体「気持ちいいのか?」と聞かれても、何と答えればいいと言うのか。「はい、気持ちいいです。癖になります。慣れるとキスだけでも濡れてきます。むしろお前としたいです」とでも答えて欲しいのだろうか?
冗談じゃ無い。せっかく自分の気持ちを押し込めて、瀬人子と普通の『親友』としての地位を確立してきたところなのだ。そんな危ない橋は渡れないと、克美は内心でゲンナリと思っていた。
それなのに、瀬人子はそんな克美の気持ちを弄ぶかのように、飄々とした態度を崩さない。ベッドサイドの灯りを頼りに、先程からずっと雑誌をパラリパラリと捲って読んでいる。
大体にして、持ってくる雑誌を間違えた…と克美は大いに反省した。
よりにもよってセックス特集号。自分は特に何も考える事無く普通に読める内容だが、瀬人子にとってはそうではないだろう。更にいつもの瀬人子は、そういう雑誌に一切の興味を示さない。それが克美の油断を招いた。
どうせいつもと同じように、「またそんな下らん雑誌を…」と言われて無視されると思っていたのだ。だがそれが今日に限って違っていた。ちょっとトイレに行こうとその雑誌をソファの上に放り出して席を外した隙に、暇潰しのセックス特集号は瀬人子の手に渡ってしまっていたのだ。
トイレから戻って来てその場面を目撃し、確かに克美は驚いた。驚いたが、別に瀬人子が何も言わず「ふぅん…」と特に感心も無さそうにページを捲っていたので、特に気にすることもないと安心しきっていたのだ。
それがまさか…こんな強烈な爆弾になるとは思わずに。
「もういいだろ。ほら、電気消して寝るぞ」
流石に居たたまれなくなって、克美は瀬人子が読んでいた雑誌を取り上げた。その途端、何故か非常に不服そうな顔を向けられて戸惑ってしまう。
「何だ」
「何だじゃねーよ。もう寝るんだろ」
「まだいいだろう。オレはそれを読んでいたんだ」
「お前が読むようなモンじゃないって。いつもは低俗だ何だって馬鹿にしてる癖に」
「オレにだって、たまには興味も湧くのだ。いいから寄越せ」
「興味って…お前なぁ…」
「オレだって女だ。いつかこういう事をする時が来るかもしれないだろう?」
「………。そ…そりゃそうだけど…」
瀬人子の言葉に、克美はこの間の事件を思い出した。
急に持ち上がった、瀬人子とアメリカ人セレブとの結婚話。瀬人子に恋している克美はそれが本当に嫌で嫌で堪らなくて、瀬人子を攫ってどこかに逃げてしまおうと本気で考えた。そして、ボロ自転車の荷台に瀬人子を載せて、無我夢中で隣町まで走って逃げたのだった。
あの日の出来事がまるで昨日の事のように、今でも鮮明に思い出される。勿論そんな子供の逃避行が成功する訳も無く、二人はその後、大人しく童実野町まで戻って来た。
あの日以来、克美は自分の気持ちを強く認識する事になる。そして、瀬人子との距離を作ってしまったのだ。
克美が瀬人子との距離を作った理由は、半分は諦めの気持ちがあったからだ。自分と瀬人子は女同士。例え告白したとしても、上手く行くとは思えない。それどころか気持ち悪がられて疎遠になる方が、ずっと確率が高いだろう。だから距離を取った。もし本当にそうなった時に、少しでもショックが少ないようにと…。
だけどそう思ってみても、もう半分の気持ちは諦め切れずにいた。今だって物凄く気分が悪い。いつか、自分の知らない他の男と瀬人子がそういう風に結ばれるなんて…考えただけでも頭がカッと熱くなって怒りが湧いてくる。
ただその気持ちを瀬人子にぶつけるのはお門違いだという事も分かっていたし、結局は無意味だって事もよく知っていた。だから克美は何も言わない。ぐっと堪えて我慢する他無かった。
「どうでもいいけど、オレは眠いんだ。先に寝るからな」
仕方無く諦める事にして、克美はそう言って布団に潜り込んだ。そして枕元に置いてあった小物入れから、小さな林檎型のリップクリームケースを取り出す。中に入っている半透明の溶液を小指の先で掬って、軽く唇に塗り込んだ。辺りに人工的な林檎の香りがフワリと漂っていく。
クリームを綺麗に塗り終わってから、克美は林檎の蓋をきちんと閉め、再び小物入れに仕舞った。そして今度こそ寝てしまおうと寝返りを打って…そこで漸く瀬人子の視線に気が付いた。
何故だかは知らないが、瀬人子はじっと克美を見詰めている。雑誌への興味はもう既に無いらしく、哀れセックス特集はサイドボードの上に投げ捨てられていた。
「いい香りだな…それ」
一瞬、克美は何を言われているのか分からなかった。だが次の瞬間、自分が塗ったリップクリームの事だと気が付く。
「あぁ、これ?」
「そう、それだ」
「ただのリップクリームだけど…。お前、こういうの持って無いの?」
「無いな。オレが持っているのはこういうのだけだ」
そう言って瀬人子がサイドボードから取り出したのは、メンソレータムの香りでスースーする某有名薬用リップスティックだった。
「言っておくけど安物だぜ?」
「そうなのか? 容器が可愛いな」
「うん。可愛いだろ。これが気に入って買ってみたんだ」
「………」
「何?」
「………」
「何だよ」
「………」
「もしかして…使ってみたいの?」
余りにじーっと見詰めて来るものだから、克美は思わずそう問い掛けてみた。予想する答えは「別にそんな物いらない!」という拒否反応だったのだが、驚いた事に瀬人子は素直にコクリと頷いてみせた。
使ってみたいのなら仕方無いと、克美は再び小物入れから林檎の容器を取り出して、瀬人子に手渡そうとした。ところが瀬人子はそれを受け取らず、「ん」と一言呻いて目を瞑った。使ってみたいのか、それとも拒否をしているのか、分からない。
「ん、じゃねえよ。使ってみたいんだろ?」
「そうだ」
「じゃあ使えばいいじゃん。ほら」
「お前が塗れ」
「はぁ?」
「人が使っているクリームケースに、自分の指を突っ込むなんて無粋な趣味は無い。そんな事されたら嫌だろう?」
「いや…別にオレは何も気にしないけど」
「オレは気にする。だからやらない。お前が塗ってくれ」
どんなに林檎のケースを手渡そうとしても、瀬人子は頑として首を縦に振らなかった。仕方無く克美は自分の小指の先でクリームを掬い取り、それを瀬人子の唇に持って行く。桜色の唇に小指の腹が触れた時、克美は自分の胸がドキリと大きく高鳴るのを感じていた。
(唇…超柔らかい…)
柔らかくて弾力のある下唇を、右端から左端に沿ってクリームを塗っていく。そして上唇にもそれをゆっくり塗り付けていった。辺りに先程より強く林檎の香りが満ちていく。
「良い香りだな…」
「そうだろ?」
「もういいか?」
「あ、ちょっと待って…。クリーム多かったみたいだから、何かで拭き取らないと…」
少し多めにクリームを塗り付けてしまったらしい。ぬるりとべとつく唇に、克美は慌ててテッシュを取ろうとした。枕元に置いてあるティッシュボックスからティッシュペーパーを一枚抜き取って、瀬人子の唇を拭こうとする。けれど振り返って目に入ってきたその光景に、ゴクリと生唾を飲んで固まってしまった。
瀬人子は静かに目を閉じたまま待っていた。林檎の香りのするリップクリームでてらてら光っている、桜色の綺麗な唇に目が釘付けになる。どんなに視線を外そうとしてみても、そこから離れる事が出来無かった。
「城之内…?」
瀬人子が自分を呼ぶ声にビクリと反応する。けれど、それ以上に動悸が止まらなかった。
驚かれてもいい。それをして嫌われてもいい。でも今は…その衝動を抑える事がどうしても出来無かった。
克美はそっと顔を近付けて、瀬人子の頬に掌を当てた。そしてリップクリームでべたつく唇を軽く吸った。チュッ…という軽い音が、薄暗い寝室に大きく響く。
流石に驚かれて拒否されるだろうと思っていたら、瀬人子はゆっくりと瞼を開いて…ただじっと青い綺麗な瞳で克美を見詰めているだけだった。
「海馬…?」
流石に心配になって恐る恐る声を掛けてみれば、瀬人子はパチパチと何度か大きく瞬きをして口を開いた。
「今のが…キスか?」
「あ…あぁ。うん…そうだけど…」
瀬人子の反応が読めない。次にどう来るのか、全く予想が出来無くて克美は困惑してしまう。そんな克美の動揺を他所に、瀬人子はベッドの中でズリズリと克美に擦り寄って来て、ピッタリと身体をくっ付けて来た。そしてあろう事か、信じられない一言を吐く。
「よく分からなかった。もう一度してくれ」
その一言を聞いて、克美は思わず脱力してしまった。
何というかもっと…言うべき事はあるだろうに。友達なのにキスをした…とか。女同士なのにキスをした…とか。むしろ何故自分にそんな事をしたんだ…とか、疑問は山程ある筈だろう? それなのに瀬人子はそれを全部無視をして、よりにもよってもう一度キスをしろと宣うのだ。
無視…というか、その疑問に気付いていないだけなのかもしれないが…。
「………」
克美は少し悩んだ。けれど「もう一度してくれ」と請われて、それを断わる意味も無い事に気付いた。せっかく瀬人子の方からキスを強請っているのだ。本人の許諾があるので、いわばこれは合法的(?)なキスに他ならない。
そう決心してしまえば早いもの。克美は意を決して、自分の指先で瀬人子の細い顎をそっと持ち上げた。そしてもう一度唇を合わせる。
ただ唇を押し付けるだけのキス。それでもすぐに離すのは酷く惜しくて、何度も何度も柔らかい唇を吸い上げるように啄んだ。その度にチュッチュッと軽い音が鳴り響く。
「………ふぅっ…」
ふと、瀬人子が小さく溜息を漏らす。仄かな林檎の香りと共に、暖かな瀬人子の吐息が克美の唇に触れた。その感触に心臓がドクドクと高鳴って、これ以上は危険だという信号が見える。克美は慌てて瀬人子から離れて、代わりに瀬人子の唇に付いたままだった余分なクリームを親指の腹で拭い取ってやった。
「えーと…どうだった?」
「………何が?」
「これがキス…なんだけど」
「あぁ」
「嫌じゃ無かった?」
「何がだ?」
唇を離して、お互いに見つめ合って、克美は恐る恐る瀬人子にキスの感想を訊いてみる。だが返って来た答えは、見当違いの物ばかりだった。疑問に疑問を返すんじゃねぇよ…とか思ったが、それを表に出すのは止めておく。少なくても、瀬人子が今のキスを嫌がっている訳では無いという事だけは分かったからだ。
「嫌じゃなかったんなら、別にいいよ」
克美はそう言って、今度こそ寝てしまおうと布団に深く潜り込んだ。これ以上何かを尋ねても意味は無いし、何しろボロが出そうで怖かったからだ。
瀬人子に背中を向けて、薄暗い布団の中で気付かれぬように自身の唇をそっと何度もなぞる。もう…これだけで充分だと思った。戯れとは言え、瀬人子とキスが出来ただけで心から幸せだと思った。だからこれ以上は望まない…望めないと、望んだからきっと罰が当たると思って諦めてしまっていた。
だから克美は気付けなかった。
瀬人子が本当に望んでいたキスはただのキスでは無く、『セックス特集号』の記事にあった…ディープキスだと言う事に。