克美が元彼と共にラブホテルに足を踏み入れてから数時間後。
事の終わったベッドの上で、克美は俯せのままぼんやりと小野寺の事を見ていた。
小野寺は使い終わったコンドームの口を縛り、それをポイッとゴミ箱に投げ入れる。そして汚れた陰部をティッシュで拭うと、それもクシャクシャに丸めて同じようにゴミ箱に投げ入れ、脱ぎ捨てた自分の制服に手を掛けた。下着とズボンを身に着けて、ベルトを通して金具を留める。
「それにしても」
小野寺は上半身裸のまま俯せで寝転がっている克美の側に近付き、ベッドに片足を載せて克美の耳元で囁いた。
「『久しぶりにラブホでセックスでもしない?』というオレの提案を、まさかお前が聞いてくれるとは思わなかった」
「別に…。オレも欲求不満だったし。あ、でも金は置いて行けよ。オレ今マジで金欠で、余計な金一切使えねーから」
「分かってるよ。だからホテル代は奢るって言ったんじゃん」
そう言って小野寺は再び克美の身体に手を伸ばしてきた。シーツと身体の間に手を差し込んで再び豊かな胸を揉んでくるその手を乱暴に払うと、克美は反対側にゴロリと寝返りを打つ。
セックスはもう終わっている。もうこれ以上無駄に身体を触られたくは無かった。
「なんだよ、素っ気ないなぁ。もうちょっとイチャイチャさせてくれたっていいじゃん」
「何がイチャイチャだ。もう恋人でも何でもないだろ?」
「そりゃそうだけど。相変わらず大きなおっぱいで気持ち良かったです。ごちそうさまでした」
「それは良かったですね。お粗末様」
何だか酷く疲れてしまって、克美は大きく溜息を吐いた。シーツを首元まで引き寄せながら身体を丸めて瞳を細める。
瀬人子を…裏切ってしまった…。
例えどんな理由があろうとも、瀬人子を裏切る事だけはしてはいけなかったのに。
きっと瀬人子は自分を許さないだろう。けれど克美にとっては、それはまさに好都合だった。
もうただの親友でいる事に…限界を感じていたのだ。
「ていうかさ、お前やっぱいいな!」
すっかり落ち込んでいる克美の状態に全く気付いていないのか、突然小野寺が明るい声を出してベッドの脇に座り込んだ。
「オレさー。いかにも女の子っぽくしてる子より、お前みたいなサバサバしたタイプの方が好きなんだよな。な、もう一度付合わない?」
肩を掴まれて揺さぶられる感触に不快感を示しながら、克美は肩越しに振り返って小野寺を睨み付ける。
「何がサバサバがタイプだ。オレが何も知らないとでも? 向こうの学校で滅茶苦茶可愛い子とお付合いしてるって、この間先輩んとこの学校に行った奴が教えてくれたぞ」
「げ…。知ってたのか…」
「なのにこんなとこで浮気しやがって…。オレは今付合ってる奴がいないから別にいいけど、先輩はバレたら大変なんじゃないの?」
「いやぁー、大丈夫だろ」
「何? その自信」
「何て言うかねー、そういう事に全然興味が無い子なんだわ。興味が無いっていうか、無知って言うの? このぐらいの年の男が毎日何考えて過ごしてんのか、全く理解してくれようとしないんだよねー。だから一年近く付合ってきても、まだキス止まりなんだぜ? ホントに参っちゃうっていうかさー。男の事情も分かって欲しいってもんだよな」
「何言ってんだか。文句たらたらのわりには、別れるつもりなんて全然無さそうに見えるんだけど」
「あ、バレた。やっぱ分かる?」
「バレバレなんだよ、先輩」
「うーん、まぁな。顔はすげー可愛いし、制服の上からでも胸大きいの分かるしさ。実際のところ、やっぱ好きだって思うしなー。克美とは全然タイプ違う子なんだけどさ、プロポーションはお前とタメはれるかもしれない。ホントもう、マジでいい胸してんだわ」
「別にタメはっても嬉しくも何とも無い。興味無いし」
「そう言うなって。それにサバサバがタイプなのは本当なんだぜ? そういえばさっきお前の隣にいたお友達。あの子もサバサバタイプだよなー。一人称もお前と同じ『オレ』だったし。胸は小さそうだったけど、スレンダーなのもなかなか…」
「………を…出…すな…」
「ん? 何?」
「アイツに…手を出すな…って言っているんだ…っ! もしアイツに手を出すような事があったら、オレがお前を許さないからな!!」
それまで黙って聞いていた克美が突然起き上がって、小野寺の首に手を掛けてギラギラとした視線で睨み付けて来た。普段は穏やかな琥珀色の瞳が、何故だか赤く光って見える。克美の長い爪が皮膚に突き刺さって、首に鋭い痛みを感じた。その豹変振りに小野寺は二の句が継げなくなる。自分が今、克美の地雷を踏んだのだと…否応なく理解したのだ。
この状態に入った克美がどれ程恐ろしいのか…。小野寺は少なくても中学生時代を恋人として共に過ごしていた為、嫌と言う程知っていた。慌ててその場から後ずさり、床に落ちていた残りの制服を拾って身に着け始める。
「う…うん、分かった。冗談だってば。本気で怒るなよ。じ…じゃあ…オレ帰るから…。あ、お金ここに置いておくね? オレが全額奢る約束だもんな? 余りは好きに使っていいから、何か買ったりすればいいと思うよ。それじゃまたな…。あ、お前の友達には間違っても手出したりしないから、安心してくれよな。オレはまだお前に殺されたくないしさ」
冷や汗をかきつつ笑顔でそう言った小野寺は、サイドボードの上に一万円札を一枚置くと、そのまま逃げるように部屋を出て行った。それを横目で見てとって、克美はのろのろと身体を起こしてベッドから離れる。
足元のゴミ箱に目を向けると、中には丸められたティッシュと使い終わったコンドームが捨ててあった。
いかにもセックスをしましたという痕跡。だがこの痕跡を、自分は瀬人子に対して残す事は決して出来ないのだ。
何も無い女性としての自分の身体。どんなに瀬人子に欲情しても、彼女を愛する事は出来ない。どんなに瀬人子に恋焦がれても、彼女の体内に入る事は不可能だ。瀬人子を…真に手に入れる事は永久に出来はしない。
それがどれだけの絶望を克美に与えたのか…。
「セックスなんて、するんじゃなかった」
踵を返し浴室に向かいながら、自嘲気味に克美はボソリと呟いた。
セックスさえしなければ、この事実に気付く事も無かった。いや…本当はもうとっくに気付いている。それに気付かなかったふりをしていただけ…。
浴室に行き、コックを捻って熱いシャワーを頭から浴びる。久しぶりのセックスだったというのに、ちっとも気持ち良く無かった。むしろ虚しくて仕方が無かった。この虚しさには覚えがある。自分で自分を慰める時の感覚と全く一緒だったのだ。
どうしてこんな気持ちになるのか。克美にはよく分かっていた。
「海馬…っ」
シャワーに打たれながら親友の名前を呼ぶ。
そう、瀬人子で無ければダメなのだ。どんなに自分で慰めようと、他の男に抱かれようと、瀬人子で無ければこの胸にポッカリ空いた穴は埋められないのだ。
それが分かっているからこそ…克美は辛くて仕方が無かった。
数刻後。綺麗に身支度を整えて、克美は一人でホテルを出て来た。そのまま帰る訳でも無く、本来今日行くべきだった手芸屋に向かって歩いて行く。久方ぶりの性行為でヒリヒリと痛む下半身が、酷く不快で苛々した。
ふと思い立って手元の腕時計を見る。針は夜の九時を過ぎていた。
「あぁ…。そう言えばあの手芸屋って、閉店時間九時だったっけかな…」
ポツリと呟いて角を曲がり、視線に入って来た手芸屋を見ると、案の定しっかりとシャッターが閉まっていた。
店の前に立って大きく溜息を吐く。
生地を買い損ねてしまった。明日の授業はどうしよう…。
そう克美が思いつつ辺りに視線を巡らせた時だった。店の脇の街灯の下に、見知った人影がいるのに気が付いた。力無く街灯に身体を寄りかからせ、学生鞄を両手で持って俯いている。その手に手芸屋の袋は見当たらない。
「海…馬…?」
思わず呼びかけると、俯いていた顔が上がって克美を見上げる。そしてクシャリと泣きそうに顔を歪めた。
その顔に慌てて側に駆け寄って、細い肩を掴む。
「お前…何でこんなところに…。ていうか、買い物しなかったのかよ」
克美の問い掛けに瀬人子はフルフルと首を横に振った。
「約束した…」
「え…?」
「一緒に買い物するって…。一緒に生地を選ぶって…約束した。だから…待ってた」
「待ってたって…。でもお前、もう店閉まっちゃってんじゃん。一人で買い物しろって言ったじゃないか」
「………」
「明日どうすんだよ。お前までオレと一緒に怒られちゃうじゃん…」
「それでも…約束だから…」
瀬人子が再び俯いてしまった為に、その表情は分からない。けれどその細い肩が震えているのを感じ取って、克美は無意識にその肩を引き寄せてギュッと抱き締めてしまった。瀬人子の細い身体は一瞬ビクリと反応したものの、抵抗らしい抵抗もせずに大人しく克美の腕の中に収まっている。
「ゴメン…。オレが悪かったな…」
「あぁ、そうだ」
「全肯定かよ」
「当たり前だ。全部貴様が悪い」
「う…うん…。まぁ…そうだよな…」
「貴様が約束を破ったから、オレは生地を買えなかった。貴様が勝手にどこかに行ってしまったから、オレは明日教師に怒られるんだ。反省しろ。そして責任を取れ」
「わ…分かったよ…。どうすればいい?」
「今度の連休は初日の朝から邸に来い。今日オレが一人ぽっちでいさせられた分、連休中はずっと側にいろ。ずっとだ。離れる事は許さないぞ」
「あ…う…っ」
「返事は?」
「はい…。分かりました…」
「あと」
「うん?」
「もう二度と約束は破るな。それからむやみやたらに性行為したりするのも、オレは好きじゃない。オレと親友でいたいのなら、もう他の男に抱かれたりするな…っ!!」
『オレと親友でいたいのなら』
その一言で克美の胸はまたズキリと痛みを訴える。だがもう瀬人子を悲しませる事をするのは…嫌だった。
それに克美も今回の事でよく分かったのだ。自分の欲求を解消する為だけに本意では無いセックスをしても、心は決して軽くなりはしないという事を。
「うん…分かった。約束するよ」
心から真摯にそう告げて、克美は腕の中の瀬人子の身体を強く抱き締める。
この想いは決して届かないだろう。それでももう…瀬人子にこんな辛い想いはさせたく無いのだ。
瀬人子を守る為に自分の想いは殺してしまおう。
愛しい身体を抱き締めながら、克美はそう心に強く誓っていた。