城之内26歳、瀬衣名2歳→城之内33歳、瀬衣名9歳。
前編は城之内が奥さんと死に別れた時のお話で、後編は遊園地騒動(城之内が海馬と再会した直後)のお話です。
二歳になったばかりの小さな娘を連れて、城之内は病院の廊下を歩いていた。右肩には大きな荷物をしょっている。鞄の中には入院中の妻の着替えとタオル、まだ小さな娘が外で粗相をした場合の換えのオムツと下着と洋服、それから妻の好物のプリンと娘の為の飲み物が入っている。重さでずれてきたその荷物をしょい直し、城之内は左腕に抱えていた娘を地面に降ろした。
「ほら、もうすぐママの病室だぞ。ちゃんと自分で歩きなさい」
そう言うと小さな娘はコクリと頷いて、ついこの間買って貰ったばかりの靴をコトコトと鳴らしながら廊下の突き当たりまで歩いて行った。
長い廊下の最奥の右手にあるのが、城之内の妻が入院している病室だった。入り口に置いてあるアルコール消毒液で娘の手と自分の手を消毒し、城之内は娘の手を引いて中に入っていく。廊下側に入院している人に会釈をしながら窓際まで進みカーテンを覗き込むと、そこにはすっかり窶れた自分の妻が眠っているのが見えた。
「ままー!」
母親の姿を視認して娘が声を上げる。その声に閉じていた瞼をそっと開いて、白いベッドの上から彼女は城之内を見詰め、そしてフワリと優しく微笑んだ。
「あら…、来てたのね…。ごめんなさい、私…眠っていたわ」
「いや、大丈夫だよ。今来たばかりだし」
ベッドの背を起こして楽な姿勢をとりながら、彼女は本当に嬉しそうに笑っていた。寝間着の襟元を直しつつ、少しずれたバンダナをはめ直しながら彼女は娘に向かって微笑みかける。そしてその小さな手をそっと握った。
「来てくれたのね、瀬衣名ちゃん。ありがとう」
「まま、げんきー?」
「えぇ、元気よ。瀬衣名ちゃんが来てくれたからすっかり元気になれたわ」
ベッドによじ登る娘を支えながら、彼女は娘の足に手を伸ばした。ベッドのシーツを汚さないように娘の小さな靴を脱がしてやりながら、「あら?」と驚いたように声を上げる。
「また新しい靴。どこかで無くしちゃったのかしら?」
「ハハハ。違うって。瀬衣名の足がすぐに大きくなってしまって、靴なんてあっという間に履けなくなっちゃうんだ」
右肩にしょっていた大荷物をパイプ椅子の上に置き、中身を整頓しながら取り出していた城之内は、妻の素っ頓狂な質問に笑いながらそう答えた。その答えを聞くや否や、彼女は本当に心から嬉しそうに微笑んで娘を見詰める。そして柔らかな髪を愛おしそうにそっと撫でつけた。
「そうなの…。瀬衣名ちゃんはもうそんなに大きくなっちゃったのね…。偉いわねぇ~」
城之内の妻はすっかり痩せ細って荒れてしまった指先で、大事に大事に娘の髪を撫でていた。娘の髪は固いだけの自分の髪とは違って、彼女に似てとても柔らかで触り心地が良かった。娘と全く同じ髪質だった彼女の豊かな長い髪は、今はもうどこにも見られない。抗がん剤の治療によってすっかり全て抜け落ちてしまった彼女の頭は、今はカラフルなバンダナで隠されている。それがとても痛々しいと、城之内は彼女の姿を見る度に胸を痛めた。
決して美人では無かったが、いつも明るくて優しくて、柔らかな髪をフワリと風に靡かせながら微笑んでいる人だった。その面影はもうどこにも無い。彼女の身体に巣くった病が、確実に彼女の命を削っているからだった。
城之内は三日程前に、彼女の担当医から妻の余命を聞かされていた。あと一ヶ月持てばいい方だ…と言われていた。
鞄の中から取り出した新しいパジャマや下着、タオルなどを側の戸棚に入れながら、城之内はなるべく普段と同じような飄々とした表情で親子の会話に加わっていた。彼女の前で哀しい顔をする事だけはしてはいけない。せめて親子三人でいる間だけは、なるべく楽しい記憶を残そうと…そう心に決めていた。
「ぱぱー。のどかわいた」
荷物を全て整頓し終わって漸くパイプ椅子に腰を下ろした城之内に、ベッドの上で母親と戯れていた娘が声をかける。その声に笑顔で頷いて、城之内は用意してあった小児用のストロー付き水筒を手渡した。本体に差し込んであったストローを取り出して娘の小さな口に銜えさせてやると、よっぽど喉が渇いていたのか、中に入っていた常温の麦茶が凄い勢いで減っていくのが見える。
ゴッキュゴッキュと喉を鳴らしながら麦茶を飲んでいる我が子を、城之内は妻と二人で和やかに見詰めていた。
「子供の成長って早いのね…。私が入院している間に、こんなに大きくなってしまって…」
「うん、そうだな。オレも驚いてる」
城之内の応えに、彼女は深く息を吐き出した。そして再び娘の頭に触れて、その小さな頭を優しく優しく撫でつける。
「この調子なら幼稚園に入るのなんてあっという間ね。あ…でも貴方が仕事しているのだろうから、幼稚園じゃなくて保育園かしら。保育園に入ったと思ったら次は小学校。一年生になって大きな赤いランドセルを背負った姿を見てみたいわ。どんなにか可愛いでしょうに…。それから六年後には中学校…。制服はセーラー服かしら、それともブレザーかしら。どっちにしても良く似合うでしょうね」
妻の夢物語を、城之内は側で黙って聞いている事しか出来なかった。その物語に口を挟むことなど出来はしない。
彼女は…自分の病気の事をよく知っていた。そして自分に残された時間が残り少ないことも…よく分かっていた。
「二十歳になったら成人式ね。この子の為にとっても素敵な着物を買ってあげましょう。それから結婚式…。旦那さんはどんな人かしら? 真っ白で凄く可愛いウェディングドレスを着せてあげたいわ。きっと世界で一番素敵なお姫様になるわよ」
娘はいつの間にか母親の夢物語を子守歌代わりに、白いベッドの上で眠ってしまっていた。規則正しい寝息が小さな口から漏れて、幼児特有の少し膨らんだ丸いお腹が上下している。
それを目で確認して、城之内は深く項垂れる。もう…笑顔を保つ事は出来なかった。
「あんまり…泣かすなよ…」
「え…?」
「あんまり泣かすなって言ってんだ…」
ここで泣いてはいけないと分かってはいたが、溢れてくるものを留める事も出来なかった。それならばせめて…と顔を俯けたままで身体を震わせる。声もなく震えて静かに涙を流し続ける城之内に彼女は優しく微笑むと、その頭に細くなった指先を載せて優しく荒れた髪を梳いた。
「ゴメンね、克也君」
付合っていた頃の呼び名でそう城之内を呼び、彼女は小さく謝った。
「ゴメンね…。本当にゴメンね、克也君…」
「何謝ってんだよ…。意味分かんねー…」
「それでもゴメンね…」
「謝るなよ。大体何に対して謝ってんだよ」
「全てかな」
「全て…?」
妻の予想外の返答に、そこで漸く城之内が顔を上げた。涙で濡れた城之内の頬を優しく痩せた掌で拭いながら、彼女は少し寂しそうに微笑んでみせる。
「克也君に好きな人がいるのは分かってた。例え別れていたとしても、その人の事を本気で忘れられないのも知ってた。だけど無理言って付合って結婚して貰ったのは私の方だから…。だからゴメンね」
「何でお前がそれを謝るんだよ…っ! それについて謝らなくちゃいけないのはオレの方だろ? アイツの事を忘れられない癖にお前の優しさに甘えてきってしまっていたのは…オレの方だ…っ!」
「うん…。でも克也君、苦しんでた。その人の事が忘れられなくて、その人の事を好き過ぎて、凄く苦しんでた。自分の幸せの為だけに、克也君のその苦しみを利用したのは私の方。だから私の方が謝らなくちゃいけないの。ゴメンね…」
「………ッ!」
「きっと…罰が当ったんだわ…。自分の気持ちと恋だけを優先して、克也君の気持ちを無視したから。克也君に無理させちゃったから」
「そんな…っ! そんな事は関係無い…!!」
妻の寂しげな物言いに、城之内は必死になって首を横に振った。その必死な形相に彼女はまた嬉しそうに微笑み、そして再び口を開く。
「ねぇ…克也君。二つ…お願いしたい事があるんだけど…いいかな?」
城之内の瞳から流れ出る涙を優しく拭い、そして彼女はそっと腕を回して城之内の頭をその胸の内に抱き込んだ。彼女の力に従って、城之内は痩せた胸に頭を寄せる。トクン…トクン…と聞こえて来る心音は今にも消えてしまいそうなくらいに弱々しく、頬から感じる体温はもう随分と低くなっていた。
「一つは瀬衣名の事。あの子が立派な大人になれるように、克也君が守ってあげて欲しいの…。克也君はこの子のお父さんだもの。出来るわよね?」
胸の内から響いてくる優しい声に、城之内はコクリと頷く。もうこれ以上声を出す事さえ不可能だった。声を出せば大声で泣いてしまいそうで…必死で嗚咽を飲み込む事しか出来ない。喉の奥が…酷く痛かった。
「それからもう一つは…克也君、貴方の事」
すっかり細くなってしまった腕が、ギュッと城之内の身体を抱き締めた。
「お願いよ…。どうか私に縛られないで…。これから先は自由に生きていって欲しいの…。克也君の好きなように…貴方が信じるままに…どうか…自由に…」
どうか自由に生きて欲しい。
それからというものの、彼女は会う度に城之内にそう告げた。まるで遺言だとでも言うようにしつこく何度も何度も、城之内がきちんと了承するまで何度も。
彼女ははっきりとそれが遺言だとは言わなかった。だけど城之内はそういう事なんだろうと理解している。理解しているからこそなかなか了承出来なかったが、結局彼女を安心させる為に首を縦に振らざるを得なかった。
そして半月後…、静かな雨が降り続ける夜の事。彼女は城之内と娘に見守られて、静かに旅立っていった。
あれから七年。城之内は今リビングの脇にしつらえた小さな仏壇の前に座り、飾られている写真立てをじっと見詰めていた。写真の中の彼女はいつでも明るく優しく微笑んで、城之内と娘を見守っている。
妻が旅立って行ってから七年間。城之内はずっと悔やんでいた。彼女を心から愛する事が出来なかった事を後悔し続けていた。
彼女は死の間際に、自分が病気になったのは自分が城之内を利用した罰が当ったのだと話していた。だが城之内は、彼女が死んだ事こそ自分が彼女を利用した罰だと思っている。
本当は彼女の事を心底愛していた。大好きだった。でも海馬への想いが強過ぎて、彼女を一番に愛する事が出来なかった。それを深く後悔はしているが、きっと何度やりなおしても彼女を一番に愛する事は無理なのだという事もよく分かっていた。
城之内にとって海馬は特別だった。自分がしたただ一つの恋だった。海馬の事を考える度に、あの最後の別れの夜が思い出されて胸が痛くなった。海馬と別れて、彼が取引先の会社の社長令嬢と婚約した事を知って、翌年にはその婚約者と結婚した事もニュースで見て知って…。その度に苦しくて苦しくて死にそうになった。何度彼を攫いに行こうかと思っただろう。だけどその度に自分の気持ちを押し留めて…泣いて…苦しんで…。
そしてそんな城之内の溢れ出る苦しみを救ってくれたのが…彼女だった。
海馬との間にあった絆は、彼女との間には無かったのかもしれない。だが、確かにそこには抗いきれないただ一つの強い絆があった。城之内にとってはその絆がとても心地良く、彼の心を救っていたのは紛れも無い事実である。そして彼女の心もまた…城之内との断ち切れない強い絆によって救われていたのだ。
隣の部屋では九歳になった娘がぐっすり眠っていた。家出という大冒険をした上に真夜中に帰ってきたので疲れているのだろう。ちょっとやそっとでは起きそうになかった。そっと部屋を覗いてみると何か楽しい夢でも見ているのか、口元に笑みを浮かべてムニャムニャと何か寝言を言っている。その寝顔に少し癒されて、城之内は再び仏壇の前に戻って来た。そしてその場所に座り込んで、写真の中の彼女に語りかける。
「今日な…、瀬衣名が家出したんだ。オレが海馬ランドに連れて行かないのを不満に思ってたらしくてさ…。黙って一人で行っちまいやがった」
困ったような笑顔を浮かべて城之内は喋り続けた。
「随分楽しかったらしい。気の合う男の子に出会って、ずっと一緒に遊んでたんだってさ。まったく…困った奴だよな。その間、オレがどんなに心配して探し回ってたと思ってやがるんだ」
膝の上に置いたままだった手をギュッと強く握る。
「夜になってその男の子の親が保護してくれたらしくってさ、オレに連絡が来たんだ。それで瀬衣名を迎えに行ったんだけど…驚いた…んだ…。だって…その子の親って…まさか…アイツだなんて…思わなくて…」
泣きたいのか、笑いたいのか、酷く複雑な気分だった。でもこの気持ちに嘘は吐けない。嬉しくて嬉しくて、飛び上がりたい程だった。
「ゴメン…ッ! お前に悪いと思って…何とか諦めようと頑張ってみたんだけど、どうしても忘れられなくって…!! いつまで経っても好きで…大好きで…愛してて…っ! そしたら…急に目の前に…アイツが…現れて…っ! オレ…オレ…どうしたらいいか分からなくなって…っ!!」
ボロボロと涙が零れ落ちた。ずっと愛し続けていた人物に再会出来た喜びと、亡くなった妻に対する申し訳無さと、気持ちを抑える事が出来ない自分に対する困惑と。全ての気持ちが綯い交ぜになってグチャグチャになって涙が零れ落ちる。その涙を止める事はどうしても出来なかった。
「やっぱり好きだったんだ…! こんなに胸が苦しくなる程…オレはアイツの事が好きだった…! 愛してた…!! どうしたらいい…? なぁ…オレ、どうしたらいいんだ…? 教えてくれよ…っ!!」
口元に手を当てて溢れる嗚咽を抑えつつ、城之内は泣き続けた。それで仏壇の向こうから答えが発せられる訳では無かったが、ふと…頭の中にあの時の妻の言葉が甦る。
『お願いよ…。どうか私に縛られないで…。これから先は自由に生きていって欲しいの…。克也君の好きなように…貴方が信じるままに…どうか…自由に…』
慌てて顔を上げてみても、その目に映るのはいつも通り明るくて優しい笑顔を振りまいている彼女の写真だけ。だけど城之内はスッと胸の内が晴れていく感覚を感じていた。
「あぁ…うん。分かった…よ…」
手の甲で涙を拭いながら、鼻声で城之内は写真に向かって囁いた。そして心に強く決意を固める。
もう一度…もう一度海馬を手に入れよう。そして今度こそ、二度と手放す事はしない…と。
写真の中の彼女が「きっと大丈夫よ」と言ってくれている気がして、城之内は顔を上げて微笑んだ。その目にはもう…迷いは見えなかった。