*子連れ城海シリーズ - 短編集 - ただ一つの恋、もう一つの絆(Ver.海馬)

海馬29歳。克人5歳。
時系列的には、海馬が29歳の時に奥さんと別れた時のお話です。

 




 海馬が空港の到着ロビーから外に出ると、すぐに磯野が駆け寄って来るのが見えた。

「瀬人様…っ! 奥様が…っ!!」
「分かっている。話は聞いた」

 慌てたように叫ぶ磯野になるべく冷静に声をかけると、海馬はそのまま表で待っていたリムジンに乗り込んだ。
 自分が二週間のアメリカ出張に行っている間に用意周到に行なわれた妻と部下の駆け落ち計画は、その成功を持って海馬の元に報せが届いていた。
 特に悔しさを感じた訳では無かった。妻と部下との関係については薄々気が付いていたから。妻は美しかったがいつまで経っても子供らしさが抜けず我が儘で、部下はそれなりに優秀ではあったが全く信用に足りない男だった。自分の眼を盗んで彼等がちょくちょく会っているのは知っていたが、妻を女として心から愛している訳では無かった海馬は、それに対して特に何も感じる事は無かったのである。
 その事で自分の妻が酷く寂しがっている事も、海馬にはよく分かっていた。ただでさえ仕事で忙しくて共に過ごす時間が取れない上に、戸籍上だけの夫婦でそこに愛も何も無ければ、愛を与え癒してくれる男に走るのは至極当たり前の事なのだ。更に妻は海馬より三つ程年下で肉体的にもまだまだ若いのに、身体の関係においても一年で片手で数えるくらいしか共に過ごしていない。愛想をつかされるのは当然だった。

「克人はどうしている? アレが連れていったのか?」
「それが…。奥様は克人坊ちゃまも置いていかれました」

 邸に着く直前に磯野にそう尋ねた海馬は、返ってきた答えにきつく眉根を寄せた。
 いくら愛していない男との間に出来た子供だとしても、自分の腹を痛めて産んだ子供だろうに…。それを簡単に置いていった妻に、海馬は漸く怒りを感じていた。だがそれと同時に、彼女がそういう行動を取らざるを得なかった要因が全て自分にあった事も思い出して、ふぅ…と諦めた様に小さく溜息を吐く。
 いつか彼女がこのような思い切った行動に出ることは、何となく予想は付いていた。
 一体いつの頃からだったのだろう。まるで小さな少女のように自分に懐いてくれていた彼女の瞳から、徐々に光が失われていったのは…。いや、もしかしたら最初からだったのかもしれない…と海馬は思った。
 結婚式を挙げてすぐにヨーロッパ各国を巡る新婚旅行に出掛けた。ただ海馬にとっては、それはあくまでヨーロッパの各地にある海馬コーポレーションの支社を視察する為と、ヨーロッパに存在する有力な企業と契約をするのが目的の旅だった。新婚旅行とは名ばかりで海馬は行く先々で仕事を優先し、観光は全て信頼出来る部下を伴わせた彼女一人で行かせ、夜も遅くまでホテルには帰らなかった。
 一度だけ、一体何の為に新婚旅行に来ているのかと詰め寄られた事があったが、海馬はそれに対して「このオレと結婚したからには、お前も海馬コーポレーションの社長夫人になったのだ。社長夫人なら自分の事よりも、会社のことを一番に考えるべきだ」と答え、全く相手にはしなかった。
 その途端彼女は酷く顔を歪めて振り返りどこかに行ってしまったので、その後彼女が泣いたかどうかは海馬には分からない。ただ、結局彼女と初めて身体を繋げられたのは童実野町に帰ってきてからの事だったのも、紛れも無い事実であった。


 自分と妻の間には愛は無かった…と海馬は考える。何故ならば、自分が愛している人間はこの世でただ一人だけだからである。
 世間の常識に負けて、取引先の大会社の社長令嬢と許嫁になり、城之内と別れる事になった最後の夜の事を海馬は今でもよく覚えている。
 酷いセックスだった。城之内も海馬も、お互いの身体にお互いの記憶を残そうと必死だった。痛みと苦しみだけしか残さないような最後のセックス。城之内は海馬の体内をまるで引き裂くように抉り、海馬も城之内の背中に鋭い爪痕をいくつも残した。
 そうする事しか出来なかった。お互いにまだ心から愛し合っていたのに、世の中は無情にも二人を引き離そうとする。一度は抗おうとした。だけど無駄だと分かってしまった。ならば全てを諦めて、後は自分達の新しい人生を歩む事くらいしか道は残されていなかったのである。
 城之内との恋は、海馬にとってこの世でただ一つの恋だった。
 そしてそのこの世で一番大切な宝物を捨てて、海馬は『妥協』して新しい人生を手に入れた。自分ではそれでいいと思っていた。だが、歪んだ選択は間違い無く新しい犠牲者をこの世に生み出した。
 それが…自分の妻だった…。
 彼女は完全に籠の鳥になってしまっていた。自由を奪われ、愛も与えられず、ただ黙ってそこに存在し続ける日々。愛が欲しくて何度も囀ってみても、海馬はそれに全く気付けなかった。いや、気付こうとしなかった。
 だから彼女は籠を飛び出したのだ。自分の囀りに答えてくれる相手と共に、自ら羽ばたいて飛んで行ってしまった。


「お父…さ…ん…っ!」
 邸に帰ると同時に、まだ小さな息子が飛びつくように抱きついてくる。

「克人…」
「お父さん…っ。お母さんどこ行っちゃったの…? 急にいなくなっちゃったんだ…」
「克人、大丈夫だから落ち着きなさい」
「ねぇ、お母さんもう帰って来ないの? どうしていなくなっちゃったの…!?」

 泣きじゃくる息子を抱き上げて海馬は立ち上がった。そしてそのまま妻の部屋まで歩いていき、そっと白木の扉を開いてみる。目に入ったのは乱暴に開かれた箪笥や引出し。クローゼットの中は勿論空っぽで、ドレッサーの引き出しにも何も入っていなかった。宝石類を入れていた赤いビロード張りの宝石箱にも何一つ残ってはいない。視線をぐるりと巡らせると、いつも彼女がお茶を飲んでいた小さなテーブルの上に、小さな小箱と白い封筒が置かれているのが目に見える。海馬は息子を側のソファーに座らせると、ゆっくりとそのテーブルまで近付いていった。
 ポツンと置かれた小箱には見覚えがあった。今から八年前、この小箱には結婚指輪が入っていた。結婚式を挙げた教会で、この小箱に入っていた指輪を彼女の左手の薬指に嵌めた時の事を思い出す。嵌められた指輪をじっと見詰めて、妻はまだ幼い顔を心から嬉しそうに綻ばせていた。
 そっと蓋を開けると案の定、そこにはダイヤモンドの付いた細いシルバーのリングが入っていた。その小箱を重石にして置いてあった封筒にも手を伸ばし、中から紙を一枚取り出す。それは酷く薄っぺらくて緑色の文字や欄がギッシリと記されている書類だった。よくよく見れば妻の欄にだけ名前と印鑑が押してある。まるで彼女から決死の覚悟を見せつけられたかのように感じられた。

「手紙も何も無し…。離婚届一枚だけとは…。フッ…どれだけ恨まれていたんだ、オレは…」

 何だか酷くおかしくなって笑いたくなってきてしまった。なのに何故か目頭が熱くなって目の前の景色が潤んでいく。
「お父さん…」
 手に持った離婚届をクシャリと握り潰し棒立ちになっていると、いつの間にか複雑そうな顔をした息子が自分の足に縋り付いてこちらを見上げてきていた。先程まで泣きじゃくっていた息子は今は涙をピタリと止め、逆に心配そうな顔で海馬を見詰めている。

「お父さん、泣かないで」
「克人…」
「僕がいるから大丈夫だよ。お母さんいなくても、僕がいれば寂しくないでしょ?」

 僅か五歳の自分の息子は、こんなに小さいのにも関わらず自分達の身の上に何が起こったのか正確に把握していた。大好きな母親に去られて一番哀しいのは自分だというのに、それでもショックを隠しきれない父親を必死で守ろうとしているのだ。この小さな手で、いつも仕事仕事でたまにしか顔を見せない薄情な父親を。

「克人…っ!」

 その場でしゃがみ込み、海馬は息子の身体を抱き締めた。
 子供特有の妙に高い体温が、今はとても気持ち良く感じる。この体温には覚えがあった。
 一つはモクバの体温。まだ小さかった弟を抱いた時はいつもこんな温かい体温に包まれて、その度に弟がこの世に存在する事を感謝したものだった。
 もう一つは城之内の体温。彼は自分と同い年の癖に自分よりずっと高い体温を持っていて、彼に抱かれる度にあの熱い体温に翻弄され、そして心から安心した。それは彼が海馬を想う気持ちそのものがまるで熱になったかのような、そんな温度だった。
 そして最後の一つは…、出ていった妻の体温だった。細くて小さい身体から感じるその温かな体温は、確かに彼女が自分に対して持っていた愛そのものの温度だったのだ。
 城之内を愛し過ぎて、彼女を心から愛する事が出来なかった。完全に仮面だけの夫婦だと思っていた。だが、それだけでは無かったのだ。もう一つの絆は確かにそこにあったのだ。ただ…それに気付けなかっただけで。

 この絆を壊したのは自分自身…。間違い無く自分のせいなのだ。

 海馬は息子を強く抱き締めながら、そう心に感じていた。


 後日、海馬は信頼出来る部下を使って元妻の居場所を割り出し、一通の手紙を出した。
 その手紙が彼女の目に触れるかどうかは分からない。もしかしたら差出人の名前を見ただけでゴミ箱行きになるかもしれなかった。だがそれでも、手紙を書かずにはいられなかったのだ。
 手紙には彼女に対する謝罪と、そして感謝の言葉が記されていた。
 あの手紙は今どの辺りを走っているのだろう…と、海馬は社屋の最上階にある社長室から外を眺めながらそう思う。そして指輪を外した左手の薬指を右手で擦りながら強く心に思った。
 この後悔を無駄にしないようにしよう…。せめて彼女が置いていった息子だけは、自分の手で立派に育てあげようと。
 それが新たな自由を求めて出ていった彼女に対しての、自分なりのせめてもの償いだと…そう信じて。