*ヘルクリシリーズ - 読んでみる - 草原の風に吹かれて

ヘルモス×クリティウス
精霊や竜に関して個人的見解が入っています。

 




 どこまでも広い草原に、一匹の赤い巨竜が眠っていた。
 空は青く澄んで、緑の絨毯が爽やかな風に吹かれてサワサワと音を立てる。
 その音を子守歌代わりに、赤い巨竜…ヘルモスはウトウトと気持ち良く微睡んでいた。
 ふと、草原の向こうから誰かがやってくる気配がするのを感じた。
 否、その人物が誰かなんて事は気配で分かる。それでもヘルモスはまだ瞼を閉じたまま敢えて眠りから覚めようとはしなかった。
 サクサクと青草を踏んでやってきたその人物は、青と白を基調とした長いローブを身につけ、まるで陽の光のような金髪を風に靡かせながらヘルモスの側へ来る。
「ヘルモス」
 赤い竜の肌を撫でながら、その人物…クリティウスは呼びかけた。
「お前はまたそんな竜の姿でいるのか。呪いは解かれたのだから、いい加減人の姿に戻れ」
 そう呆れたように言うと、ふー…と深く溜息をつく。
 ヘルモスにはクリティウスが何を言いたいのかよく分かっていた。

 自分達がマスターに選んだ名も無き王と、その好敵手や親友である人間達と共に邪神であるドーマの神を打ち破り、こうして精霊界に帰って来たのはつい最近の事。
 今まで封印されていた一万年という長き時を瞬時に忘れ去るくらい平和なこの場所に、ティマイオス・ヘルモス・クリティウスの三人は心安らかに過ごしていた。
 最初は三人共真の姿であるこの人に近い姿で毎日を過ごしていた。
 精霊界は至って平和であった為、三人とも鎧を脱ぎ普段着である長いローブを身に纏い、それぞれに緩やかに流れる時を楽しんでいた。
 ところが最近になって、ヘルモスだけが元の竜の姿に戻って一人遠く離れて過ごす事が多くなったのだ。
 ティマイオスはそんなヘルモスの姿に「彼は彼なりに考えている事があるのだよ」と言って全く気にしていないようだったが、クリティウスは竜の姿に戻ってしまったヘルモスにも、またそれを気にしないティマイオスに対しても不満を募らせていた。
 せっかく元の姿に戻れたというのに、仮の竜の姿で居続けるヘルモスが理解出来なかったのである。

「ヘルモス、いい加減にしろ!」
 少し苛ついたようにクリティウスが大きな竜の頭を小突く。
「もう起きているんだろう? 私に寝たふりは通用しないぞ!」
 耳元で大声で叫ばれて、漸くヘルモスはその瞳を開く。とは言っても身体を動かす事はせず、目の前に立っているクリティウスをちらりと見遣っただけだったが…。
 そのヘルモスの態度にクリティウスはまた腹を立て、ビシッと指を突きつけて大声で言い放った。
「貴様、一体どういうつもりなのだ! せっかくマスター達の協力によって呪いを解いて貰ったというのに、何故そのように何時までも竜の姿のままでいるのだ!! 地上にいるマスター達に対して申し訳ないとは思わないのか!! 大体真の姿の方が色々と利便性も高いだろうに、何故好き好んでそのような姿をしている! 私にはお前が理解出来ん!!」
 もうずっと説教したいのを我慢していたのだろう。ついにキレてしまったクリティウスは、勢いに乗ってクドクドとヘルモスに説教をし続けていた。それを上手い具合に右から左に聞き流し、ヘルモスは再び瞼を閉じてしまう。
「お…おい、ヘルモス!! 寝るな! まだ話が途中だぞ!!」
 慌てたクリティウスがガクガク揺さぶってくるのも無視をして、軽く息を付くとヘルモスはそのまま寝たふりを続行する事にする。そして「コイツは本当に何も分かってない…」と一人溜息を付くのだった。


 人と竜の姿の違いは、見た目だけでは無くてその精神にも及ぶ。
 竜とはそもそも神聖で高潔な生き物。故に欲というものに縛られない。
 食欲は無理に食べなくても生きていける為必要ない。睡眠欲もそれと同様、別に眠らなくても支障が無いので必要が無い。そして性欲。これが一番必要が無いものだ。
 そもそも竜は自然界の動物のように交尾によって生まれ出でる生き物ではない。精霊界に漂う特別清く深い空気が収縮し濃度を増して、そしてある日そこに特別神聖な生き物…竜を生み出すのだ。
 だから竜という生き物は、他の生物のような欲に捕われる事はない。
 自分達は正確には竜では無いのだが(真の姿が人間系なのがその証拠)、仮の姿が竜である為比較的竜に近い生き物だと言える。だから竜の姿になった時、その精神もまた竜同様全ての欲から解き放たれるのだ。
 それとは逆に人間の姿になった時、今まで解き放たれていた欲が突如戻って来るのも事実だった。
 人間とは全ての生物の中において、一番欲に塗れた生き物である。
 生きる為に必要な食欲や睡眠欲等の純真な欲は元より、文明が進むにつれて支配欲や独占欲等の醜い欲も増えてきた。
 さすがに高潔な存在である自分達にはそんな欲は存在しないが、人間が言う『三大欲求』とやらは別である。
それ即ち、食欲・睡眠欲・そして性欲。
 腹が減れば美味しい料理を食べたいと思う。ただ腹が膨れるだけでは満足出来ないのだ。
 そして睡眠欲。夜の帳が降りる頃、ゆっくりと静かな眠りにつく事に安堵を覚えてしまう。
 そしてヘルモスが一番恐れているのが性欲だった。
 交尾によって子孫を残す事のない自分達にとっては全く意味の無い欲の筈なのに、人間の姿でいるとどうしてもこの性欲を押さえる事が出来ない。
 ヘルモスが竜の姿に戻ってしまった理由が、この性欲の存在だった。


 気が付くと五月蠅い説教が止んでいた。
 不思議に思ったヘルモスがその身体を起こそうとした途端、腹部に何か重みを感じてその動きを止めてしまう。
 瞳を開けて見てみると、その重みの正体はクリティウスだった。
 いつの間に眠ってしまったのだろうか。ヘルモスの腹部に身体を預けて、優しい風に吹かれながら気持ち良さそうに眠ってしまっている。柔らかい金の髪がサラサラとヘルモスの肌を擽っていた。
 それを見て漸くヘルモスは安心したかのように瞳を閉じ、次の瞬間には身体の大きさを変えていた。赤と白を基調としたローブに身に纏ったその姿は、先程散々クリティウスが戻れと言っていた真の姿であった。
 燃えるような赤髪を風に吹かせて、己の胸に顔を埋めるようにして眠っているクリティウスを眺める。
 すっかり安心したように眠り込んでいる姿を見て、ヘルモスは思わず苦笑してしまった。
「そんな安心したように眠っていると、いつか襲ってやるぞ…? 俺は意外と危険なんだからな」

 精霊界に戻ってから暫くして、ヘルモスは気付いてしまった。己がクリティウスを欲している事を。
 最初は気付かないふりをした。せっかく精霊界に平和が訪れ、自分達も元の姿に戻る事が出来たのだ。もう少し三人でこの平和を楽しんでいたいと、その事実から目を逸らした。
 だが時が経つにつれて、段々と己の心が抑えきれなくなっていくを嫌でも感じてしまうのだ。
 クリティウスはそんなヘルモスに全く気付かずいつも無邪気に接して来ていて、そんなクリティウスを見る度己の性欲が爆発しそうになるのに、ヘルモスはついに耐えきれなくなった。
 人の姿で居るより、竜の姿になって精神の安定を求めたのはこの為である。
 どうらティマイオスはそんなヘルモスに何となく気付いているようで、動向を見守るだけで特に何も言っては来なかった。
 ただ少し鈍いところがあるクリティウスは、ヘルモスが何を思って竜の姿に戻ったのか、全く分かっていなかった。
 故にこうしてしつこく説教をしに来るのだが、まさか自分が性欲の対象に見られているとは夢にも思っていないだろう。
 ヘルモスにはそれが何よりも苦しかった。

「俺がこうして真の姿に戻るのは、お前が眠っている時だけ…」
 小さく呟いて、金の髪をサラリと撫でる。
「でも、いつかお前が俺のこの欲を理解してくれた時…。その時こそ俺は、本当に元に戻れる事が出来るんだけどな…」
 ふわりと微笑んで白い額に唇を押しつけるだけのキスをする。
 今はこれだけで充分とヘルモスは自分で納得し、クリティウスを抱き締めたまま草原に身体を横たえた。
 寝入ってしまったクリティウスが目覚めるまでまだ少し時間がある。それまでは自分もこの姿のままで眠っていようと、ヘルモスはゆっくりと瞼を降ろしたのだった。