*僕らシリーズ - 青春の1ページへ… - アンニュイな僕ら

城之内+海馬。
城之内の一人称。
まだ恋人未満の二人のお話です。

 




 暦が五月から六月に移って、爽やかな五月晴れの空からじめじめとした曇天が多くなり、それに呼応したかのようにオレの心も落ち込み気味になっていた。
 はっきり言って雨が多くなるこの季節は嫌いだった。
 雨が降ると普段忘れている寂しさを思い出す。
 台風とか雷雨とか、そういう激しい雨なら別にいい。
 だけど梅雨時独特のしとしとと降るあの雨の音は、幼い頃の孤独感を思い出すのだ。
 母親が妹を連れて出て行ってしまったあの日から、何の物音もしない誰の気配もない家で一人目覚めるのは辛かった。
 親父に関して言えば、朝は飲んだくれて鼾をかいて眠っているかまだ外から帰っていないかのどちらかだったので、必然的に早朝は自分だけの時間になる。
 それでも外が晴れていれば良かった。
 部屋のカーテンを開けて明るい陽光を受ければ、それだけで気分は明るくなった。
 絶望的な毎日を暮らしていても、太陽の光を浴びればまだ明日は信じられたんだ。
 だけど雨の日は違う。
 未だ布団の中で半覚醒状態でいる時から耳に届く静かな雨音。
 ゆっくりと起き上がってカーテンを開けてみてもそこに明るい陽光は無く、どんよりと暗い空から幾筋も落ちてくる涙の滴。
 普段我慢している涙を目の前で見せつけられてようで、気分が悪かった。
 そういう時、オレは強く目を瞑って百まで数える。
 閉ざされた真っ暗な世界で百数え終わるまで光を見るのを我慢すれば、次に目を開けた時、きっと世界は変わっているだろう事を期待して。
 勿論そんな事は一度たりとも叶った事はなかった。
 百数えようが二百数えようが、オレのいる場所は団地の三階の角部屋で。母親は妹を連れて出て行ったままだったし、親父は相変わらず飲んだくれてオレに暴力をふるい続ける。部屋は常に酒臭くて、床には酒の空き瓶がいくつも転がっていた。
 それでもオレはそのオマジナイを止めることは出来なかった。
 もしかしたら…、もしかしたら自分でも気付かない程度の小さな変化が起こっているのかもしれない。
 これをやったことで、やらなかった時より少しはマシになっているのかもしれない。
 ただの気休めかもしれないけど、そのオマジナイはオレの気力を回復した。
 だから今でもこの季節はそのオマジナイをする。
 馬鹿馬鹿しいとは思うけど、どうしても止める事は出来なかった。


「きゅ~じゅ~ろく。きゅう~じゅ~なな。きゅ~じゅ~はち。きゅ~じゅ~きゅう。ひゃ~く」
 百数えきって、オレはそっと瞼を開けた。
 だけどそこに見えたのは、先程までと変わらない今にも雨が降り出しそうな灰色の重い空。
 学校の屋上に吹く風は、この季節独特の湿り気を吹くんだ纏わり付くような不快な空気。
 陽光の射さない暗い教室に息が詰まって、こうして授業をサボって屋上まで来てみたけれど、梅雨時の曇天は余計にオレの心を暗くした。

「やっぱりダメか…。どうしても雨は降っちゃうのね…」
「何を当たり前の事を」

 ボソリと口に出してそう言ったら突然後方からそんな声がして、オレは慌てて振り返った。
 一体いつの間に来ていたのだろう。
 そこには給水塔の脇のコンクリートに座り込んだ海馬がいて、膝の上に載せたノート型PCを弄りながらオレを見ていた。

「え…? ちょっ…! お前いつの間に来てたんだよ!」
「貴様が五十台を数えていたくらいからだな」

 ヤッベ。数を数えるのに夢中でコイツの気配に全く気付かなかった…。
 今まで誰にも話したことの無かった秘密のオマジナイの現場を見られて、オレは少なからず動揺してしまう。
顔を真っ赤にしておろおろしてしまうけれど、海馬はそんなオレに何の興味も無いかのように再びモニターを見詰めると、パチパチと何かを打っていた。
 終業のチャイムはまだ鳴っていない。
 という事は、コイツもまた授業をサボってココに来ているという事だった。
 さっきまではオレ一人しかいなかった学校の屋上。
 だけど百数えきって目を開けてみたら、何時の間にか海馬が存在していた。

 世界が変わった…っ!

 何故だかオレはそう確信した。
 オレがオマジナイをしようがしまいが、世界がそんな簡単に変わる事なんてあり得ない。
 海馬が屋上に来たのはただの思いつきかも知れないし、屋上に通じる扉が開いた音にも海馬の足音にも、そしてその気配にすら気付かなかったのはオレの不注意だけれども。
 でももしオレがオマジナイをした事で、海馬が屋上へ行こうと思い付いたのだとしたら…?
 そんな可能性を考えずにはいられない。
 せっかく変わった世界なのだ。
 オレは普段やらないことをやってみようと思った。
「なぁ…海馬」
 振り返ってそっと近付いて、海馬の隣に腰掛ける。
 オレの気配に気がついた海馬は何か言いたげにこっちを見たけど、特に文句を言うような事は無かった。

「何でお前、こんな場所にいるんだよ。まだ授業中だろ?」
「別に。天気が悪くて教室が異様に暗かったからな。同じ暗さならまだ屋上の方がマシかと思って来ただけだ」

 オレが先程までやっていた奇行に関しては何も言及せず、オレの質問に普通に答えてくれる。
 いつもは駄犬だの凡骨だの口汚く罵られ、それに対するオレの反論にも鼻で笑うくらいしかしないコイツとこんな風に普通に会話してるなんて、何だかそれが凄く意外だった。
 意外だと思ったけど…ちょっぴり嬉しかったのも事実だ。

「オレさー。梅雨って苦手なんだよね…」

 唐突に喋り始めたオレに、海馬が視線を上げる。
 じっと見詰めてくる青い瞳に、オレに対する興味が浮かんでいた。
 珍しい。
 海馬のこんな視線を感じた事なんて、今まで一度だって無かった。

「梅雨っていうより雨が苦手。豪雨とかじゃなくて、こういうシトシトジメジメした感じの」

 オレの言葉に海馬は何も言わない。
 だけど瞳を少し細めてその先を促していたから、オレはそれに甘えて話を続ける事にする。

「特に目覚める直前に聞こえてくる、外からの雨音が嫌だ。何か寂しい感じするじゃん?」
「あぁ、それは分かるな」

 オレの言葉に初めて海馬が反応した。
 しかもオレの話に同意した。

「そういう日ってさ、カーテン開けても薄暗くってさ-。一気に気分が落ち込むんだよね」
「そうだな。言葉にするなら、希望が全て失われた感じがするな」

 驚いた。
 海馬が言った台詞は、まさにオレの心情そのものだった。
 たかが梅雨時の雨一つで、ここまで同じ感覚を持っている奴に出会えるなんて思ってもみなかったのだ。
 しかもそれがあの海馬だという事が、オレの気持ちを昂ぶらせていた。

「お前も雨…苦手なの?」
「苦手と言うより嫌いだな。あの薄暗さと静かな世界は、孤独感を倍増させる」
「あぁ、分かる分かる。何か世界に一人ぽっちになったような感じするよな」
「まぁな…」
「でも驚いたな。お前がそんな風に感じているなんて」
「何でだ? 貴様はオレをどういう風に見ているのだ」
「えー。なんつーか、怖い物なんて一つもありませんって感じするじゃん」
「オレだって普通の人間だ。怖い物の一つや二つはあるぞ。まぁ以前のオレだったらそんな事は感じもしなかったんだろうけどな。最近は…」

 そう。
 海馬は最近、凄く変わった。
 アテムに砕かれた心を一度組み直してから、少しずつ少しずつ。
 アテムが冥界に帰ってからもその成長は続いているようで、遊戯もよく「最近の海馬君はとても付き合いやすい」と言っていた。
 それはオレも感じている。
 ただ今までこういう風に普通に話す機会が無かっただけだ。
 これはいいチャンスだと思う。
 オマジナイによって変えられた世界が与えてくれた、唯一のチャンス。

「海馬がオレと同じような感覚を持ってるのって…不思議だ」

 このチャンスを活かして、もっともっとコイツと話したいと思った。

「そうか?」
「うん。だってお前いっつもオレの事を馬鹿にしてただろ。自分とは違う存在みたいにさ」
「あぁ…。まぁな」
「まぁなってお前ね…。でも、まぁ…もういいや。何かどうでも良くなってきた」

 気持ちが暖かくなる。
 何だろう…この気持ち。
 心臓がドキドキして胸の中心から熱が広がるようなこの気持ち。
 嬉しいんだけど悲しくなるようなこの気持ちの事を、オレは知っていた。
 確かに知っている筈なのに、上手くそこまで繋がらない。
 まるでこの曇天のようにはっきりしない気持ちに焦れて空を見上げる。
 雲が晴れて太陽が出てくれれば、はっきり分かりそうなのに…。

「あーあ。明日は晴れてくれるかなー? 土曜だからいい天気だといいのに」

 どんよりと曇った空を見上げてそんな事を言ったら、海馬がこちらを向いたのが分かった。
 そして徐にPCを操作すると、「城之内」とオレを呼んだ。
 ビックリした。
 だって海馬がオレの事を「城之内」って呼んだ。
 いや、今まで呼ばれた事はあったけど。
 だけど普段は「凡骨」だの「駄犬」だの「馬の骨」だのそんな呼び方ばかりだったし、しかもこうして屋上で話している間も海馬はオレの名前を一度も呼ばなかった。
 思わぬ所で意表を突かれて慌てていたら、海馬が焦れたようにもう一度「城之内!」とオレを呼んだ。
 頭をガシッと掴まれて無理矢理振り向かされる。
 ちょっ…。今なんか首がグキッっていったんですけど…。

「な、何だよ…っ! 無理矢理首を動かすなって…っ!」
「いいからコレを見ろ」

 言われた通りに海馬の差し出すノートPCのモニターを見てみると、そこには童実野町の天気予報が映し出されていた。
 予報は降水確率90%。
 無情に映し出される傘マークに、オレの気分はまた急降下だ。
 久しぶりにバイトも用事も何も無い完全な休日なのに。
 せっかくの土曜日に、またあの寂しい朝を迎えなければいけないなんて。
 心の中だけで呟いた愚痴が、口からポロリと出てしまったらしい。
 オレの言葉に海馬が反応していた。

「城之内。貴様明日はオフなのか?」
「ん? あぁ…。オフなんて偉そうな言葉を使う程忙しい身じゃないけどな」
「そうか。だったらウチに泊まりに来い」
「は?」
「オレも明日は完全オフでな。せっかくの休日の朝をあんな気分で迎えるのは御免被りたい。だが、一人で迎える朝が憂鬱でも、二人で迎えれば少しはマシになるとは思わんか?」
「え…? あ…。う、うん」

 海馬の台詞に慌てて頷く。
 どういう意味なんだろう…コレは。
 要するにオレと一緒に眠りたいってこと?
 同じベッドで二人で眠って、それで仲良く朝を迎えたいってこと?
 その途端、オレの心の中を覆っていた雲が晴れていく。
 厚い雲の間から、まるで宗教画のように陽の光が差し込んできた。
 雲の向こうに隠れていた気持ちが漸く全貌を現わす。
 あぁ…そうか。この気持ちは…。

「何? もしかして誘ってんの?」

 海馬の言葉でオレは自分の気持ちに気付いてしまった。
 だから多分、この誘いに乗って泊まりに行っても普通に眠るだけじゃ満足出来ないと思う。
 そういう意味合いも込めてわざとニヤリと笑って問いかけると、それに気付いた海馬もフッと笑みを零した。
 あれ? この笑みってどういう意味?
 頭にクエスチョンマークを浮かべているオレに対して、海馬はただニヤニヤと笑っているだけだった。
 まぁ、いいさ。答えはいずれ直ぐに分かる。
 多分…今夜にでも。
 オレは世界を変えてくれたオマジナイに感謝して、目の前の細い身体に手を伸ばして力強く抱き締めた。
 海馬は一瞬ビクッと反応したけれど、そのまま黙ってオレの腕の中で大人しくしている。
 奴の白い頬にほんの少し赤みが差したのは、果たしてオレの気のせいなんだろうか?


 窓の外から聞こえるシトシトとした雨の音に、憂鬱な気分で迎える朝はこれからも変わらないだろう。
 だけどそれも二人でいればきっと違う朝になる。
 オレはそんな事を思いながら、梅雨も悪くないな…なんて現金な事を思ってみたりした。