一週間後、無事に退院したその足で海馬は会社に向かう。
ヴァーチャル空間に捕われていた三日間の間に溜まった仕事を片付けるのは勿論の事、先日の田崎との企画をまとめなければならなかったからだ。
それでも持ち前の要領の良さでさっさと仕事は片付けてしまえたが、弱ってしまった身体で無理をする事は出来ず、近頃は定時に屋敷に帰り執務室で残った仕事を片付ける日々が続いていた。
学校にはもうずっと行っていなかった。今、城之内に会う勇気は自分には無かったから、体調不良を理由にずっと休んでしまっている。
遊戯からは時々メールや電話で連絡が来ていたが、何だかんだ言い訳をして城之内との接触をなるべく避けてしまっていた。
その日もいつものように執務室でメールチェックをしていると、突然軽快な着信音と共にメッセンジャーが立ち上がる。
『乃亜:瀬人、今ちょっといいかい?』
現れたメッセージに海馬は眉を顰めると、それでも無言で執務室のソリッドビジョンシステムのスイッチを入れた。
柔らかな光が中央に集中して、やがてそこに乃亜の姿が現れる。
「何の用だ?」
「何って、この間のウィルスの事だよ。漸くサーバーデータの修復が出来たからその報告に来たんだ。ウィルスが残したデータの洗い直しも済んだし、結果聞きたくないのかい?」
憮然とした表情で問いかける海馬に、乃亜は大して気にも止めずそう述べた。
「さっきも言ったけど、データ修復は無事完了。ウィルスデータの洗い直しも完璧にこなしておいたから、後で報告書を確認してくれ。ちなみに、例のウィルスの出所もわかったよ。報告書にも書いてあるけど、どうやら犯人はS社のようだね~。僕をサルベージした時に放っておいた父…剛三郎のデータも拾い上げてダミーとして利用してたみたいだし、侮れないな。まぁ…現実空間の方の対応は瀬人の仕事だから、後はいいよね?」
「あぁ、構わない」
そう答えた海馬は既に乃亜を見ておらず、憮然とした表情で手元の書類にサインをしていた。
それを見て乃亜はやれやれと肩を竦める。
この優秀過ぎる弟は、どうやら本当に自分に気付かれてないと思っているらしい。大体データの世界に関しては完全にこちらの管轄だというのに、それでも素知らぬふりを通すとは大胆不敵であるとはこの事だ。
はぁ~、と盛大な溜息をつき、乃亜は瀬人に近寄った。
「ところで瀬人。一つ気になる事があったんだけど、聞いていいかい?」
「何だ? くだらない事だったらまた今度にしてくれ」
「くだらない事じゃないから聞いているんだけど? ね、瀬人?」
「だから何だ。用件なら手短にしてくれ」
「あ、そう。だったら単刀直入に聞くけど」
そう言って乃亜は海馬の目の前に顔を寄せて呟いた。
「あの扉のパスワード。後から城之内の個人認識記号に書き換えたのは何でなのかな?」
「っ!?」
乃亜の言葉を聞いた途端、海馬の手元がピクリと止まってしまう。
「パスワード変えたの瀬人だろう?」
「そんなもの…、俺は知らない」
「嘘ついたってダメだよ。データにはちゃんと残ってるんだから。データは嘘つかないんだからね」
「俺は知らないと言っている…!」
「相変わらず強情だなぁ…。だったら細かく教えてあげようか? 記録にはお前が捕まって二日後、ウィルス本体とダミーの目を盗んで瀬人自身が書き換えた事になってるんだよねぇ。それってさ、僕があの扉のパスワード変換を確認した時間と合ってるんだよね」
「っ………!」
「ねぇ、どうしてわざわざ城之内の記号なんかにしたのさ。本当に助け出して欲しかったら、素直にパスワードを解除してしまうか、もしくは僕の記号にすれば良かったのに。そんなに城之内に助け出して欲しかったの?」
「………。」
「それともそうまでして城之内に自分が犯される姿を見せたかったのか?」
「だ…黙れ!」
「黙らないよ。だってそうだろう? 城之内にあの悲惨な自分の姿を見せて、今度こそ本気で呆れさせてしまおうという魂胆だったんだろう?」
「き、貴様!! 黙れと言っているだろう!!」
激高のあまり大声で叫ぶと、海馬は手元にあったペン立てを目の前の乃亜に投げつけた。
だが、ただの3D映像の彼にそれがぶつかる事は無く、ペン立てはそのまま後ろの扉にぶつかり、中身の様々なペンを床に散らばせるだけだった。
それをじっとりと横目で眺めると、乃亜は多少呆れたように息を吐き出した。
「癇癪は感心しないな。瀬人はもう少し自分の感情を我慢する事を覚えた方がいいね」
「誰が俺を怒らせていると思っている!?」
「知らないよ。僕はただ事実を述べただけだ。事実を突きつけられて勝手に怒ったのは瀬人じゃないか」
腕を組み少し怒った風に言うと、目の前の海馬は黙り込んでしまう。
いくら睨み付けても、もう一言も喋らなくなった海馬に、乃亜はまた一つ溜息をついた。
「都合が悪くなるとだんまりを決め込む癖も治した方がいいね」
厳しい口調とは裏腹に、乃亜は優しく慰めるように海馬の頭に手を置いた。とは言ってもただのコンピューターグラフィックなので実際に触れる事は出来ないが、その乃亜の行動に海馬が視線を上げる。
「ねぇ、瀬人。どうしてそんなに城之内に諦めて貰いたいの? 瀬人も城之内の事が好きなんだろう?」
「………。だからこそ…だ。俺は城之内を汚したくない。それにもう決めた事だ。アイツが…剛三郎が死んだ時に。俺はもう誰も好きにはならない、なったとしてもその相手とは絶対に関わり合いにならない…と。この先も俺はずっと一人で生きていくと…決めたのだ」
「へぇ…なるほどね。それであんなに必死になって、自分が犯される姿まで見せてたわけだ」
「あんな姿を見れば、いくら楽天家の奴とはいえいい加減呆れてしまっただろう…。これでいい…。後悔はしていない」
「ふぅん? でもさ、瀬人。本当に城之内が諦めたと思ってるの?」
「当たり前だ! あんなモノを見ておきながら未だ恋愛感情を持ち続ける奴がいるなら、この目で顔を見てやりたいわ!!」
「あっそ。んじゃ、見てみればいいんじゃない? 丁度当の本人が来たみたいだし」
「何っ!?」
海馬が慌てて立ち上がり耳を澄ますと、確かに階下の方が少し騒がしくなっているようだった。常駐しているメイドの声と共にモクバの声も聞こえる。そして今話していた城之内の声も。
数秒後、今度はズカズカと遠慮のない足音が聞こえてきたと思ったら、それは海馬の居る執務室の前でピタリと止まる。そして続いて聞こえる控えめなノック音。
焦った海馬が声を出せずにいると、それを見越して乃亜が勝手に「どうぞ~」と暢気な声で答えた。
「乃亜っ!!」
慌てて海馬が止めるのも間に合わず、重厚な扉の向こうから城之内がひょっこり顔を出してきた。
「海馬…? あれ、乃亜もいたのか。ゴメン、何か大事な話してた?」
「いや。話はもう終わったよ。僕はもうヴァーチャル空間に帰るから、後は二人でゆっくり話でもすればいいよ。明日は休日だし、良かったら泊まってってもいいんじゃないかな?」
心配そうに訪ねてくる城之内に乃亜はヒラヒラと手を振ると、「じゃ、またね。瀬人」と意味ありげなウィンクをし消えていった。
後に残されたのは気不味そうな海馬と何かを言いたげな城之内の二人だけで、広い執務室は一瞬シンと静かになってしまった。
この状況を何とか打破しようと城之内はキョロキョロと辺りを見回し、机の上に広げられたままになっている書類に気付く。
「ゴメン! 仕事中だったのか。俺、お前に大事な話があって来たんだけど、仕事終わってないんだったら表で待ってるから…」
「いや…。これは別に急ぎの用では無いから、気にしなくていい」
ふぅと息を吐くと、海馬は机の上の書類を片付け始めた。そして改めて部屋を見渡すと、執務机以外に余分な机や椅子が無いこの部屋は、話をするのに向いていない事に気付く。現にドア付近で手持ち無沙汰気味に立ったままでいる城之内を見て海馬は言った。
「話があると言ったな。ここでは何だから、俺の私室にでも来るか?」
慌ててコクコクと頷く城之内を連れて海馬は部屋を出る。
後からよく考えれば、何故専用の応接室では無くて自分の私室に城之内を招いてしまったのか分からないが、この時自分でも気付けないほど海馬は混乱していたのだった。