随分と長い間悪夢を見ていたような気がする。
ゆっくりと浮上していく意識の中、海馬はふとそんな事を思った。
どこか遠くで話し声が聞こえていた。
最初は何を話しているか理解できなかったが、意識がハッキリしていくにつれ会話の内容が聞き取れるようになっていく。
「どうして音声も画像も繋がらなかったんだよ! オレ心配したんだぞ」
「悪い悪い。どうせすぐ連れて帰るんだし、俺が乃亜に音声と画像繋ぐように言わなかったんだよ」
「乃亜がそんなミスするとは思えないんだけど…?」
「いやホントに。ホントだってばよ~、信じてくれよ」
聞こえてくる声で、その会話はモクバと城之内の二人だと分かる。
瞼が異様に重くまた意識が遠のいていきそうだったが、それでも海馬はゆっくりと目を開いていった。
目に入ったのは怒って城之内に詰め寄るモクバと、それに手を合わせて謝る城之内。
最初はボンヤリとしていた視界が、時間が経つとクリアになり焦点が合うようになる。
何度か瞬きをして身体を動かそうとすると、モクバがそれに気付いて駆け寄ってきた。
「兄サマ! 良かった、目が覚めたんだね」
心配していた表情から一遍、明るい笑顔を浮かべ海馬に縋り付いた。
「モクバ…? ここは…俺は一体…?」
「兄サマ、覚えてないの? KCのサーバーにウィルスが入り込んで、兄サマはそれを排除しにいって戻ってこれなくなって…。俺、心配したんだからな!」
心から安心したように抱きついてくる弟を片手で支えながら、もう片方の手で額に手をやり何とか記憶を取り戻そうとする。
気持ちを落ち着けると、事の全容が脳裏に甦ってきた。
乃亜からコンピューターウィルス襲撃の報を受け、自らヴァーチャル世界に降りた事。
パスワードのついた扉を抜けた瞬間、乃亜に連絡が付かなくなった事。
海馬邸を彷徨っていると突然目の前に剛三郎と幼い姿の自分が現れ、強い力で弾き飛ばされ意識を失った事。
気がついたら脱出防止用プログラムが付随した首輪を付けられ、身体の自由を奪われていた事。
思い出したくもない過去を無理矢理見せられ、精神的に追い詰められた事。
逃げる事も抗う事も出来ず、剛三郎の姿を模したウィルスのダミーにあの頃と同じように犯され続けた事。
全ての気力を削がれた頃に、城之内がこの空間に入って来たのを感じた事。
城之内を現実世界に返す為に、剛三郎と取引をした事。
「あぁ、全て…思い出した」
「兄サマ、あれからもう三日も経ってんだぜ。点滴してたけど、やっぱり身体は衰弱してるし脱水症状も起こしてる。今磯野を呼ぶから、すぐ病院行って入院しなきゃダメなんだからな」
海馬の記憶がしっかりした事でやっと安心したのか、モクバは懐から携帯電話を出すと部屋を出て磯野に連絡をしているようだった。
モクバが部屋を出て行ったのを見て、海馬はゆっくりと身体を起こそうとする。だが三日間眠り続けた身体は容易に言う事を聞いてはくれず、頭を起こした途端グラリと酷い目眩に襲われた。
再び倒れ込みそうになった時、その背を誰かが支えてくれたのを感じる。
ぶれる視界に逆らって何とか見上げると、そこに居たのは城之内だった。
「海馬…っ! 大丈夫か?」
心配そうに覗き込んでくる城之内に海馬は頷くと「あぁ…すまない」と短く返す。そしてそのまま城之内に支えられながら、何とか上半身を起こして深く息をついた。
自分の身体を支えてくれている城之内をもう一度見返すと、その身体はヴァーチャル空間と違って血で汚れてはいなかった。
それを見て漸く現実空間に戻ってきた事を実感する。
「すまないな…城之内。お前には迷惑をかけた」
「気にすんなよ。俺は当然の事をやっただけだ」
「不快なものも…見せてしまったな…」
「だから気にすんなって。俺は別に何とも思ってないぜ?」
「そんな訳無いだろう…? 悪い事は言わない。あんなの早く忘れてしまえ。俺に対する想い共々…な」
視線を合わせなるべく感情を表に出さず淡々と述べると、城之内が少し悲しそうな顔をした。
「お前…まだそんな事言ってんのかよ」
それに答えずグイッと城之内を押しやると、海馬は自分が寝ていたカプセルの縁に手をついてノロノロと身体を起こし始めた。
ぐらつく身体を叱咤し一歩一歩出口に向かって歩いていく。
「海馬…っ! まだ無理だって!」
背後からの叫びも無視して長い時間をかけ漸く出口に辿り着くと、丁度モクバに呼ばれた磯野と他の医療スタッフが到着したところだった。
「瀬人様…っ! よくご無事で…!!」
崩れ落ちる身体を磯野に抱き留められた辺りから海馬の意識は遠のいていく。医療スタッフが持ってきたストレッチャーに乗せられて運ばれて行く内に、海馬は完全に意識を失ってしまった。
気が付いた時は病院のベッドの上で、脇に控えていたモクバから一週間の入院を告げられた。
それからは特に変わった事はなく、入院中は持ち込んだノート型PCでメールのチェックをしたり新しい企画を考えたりと、それなりに有意義に過ごしていたと思う。学校には一時的な過労で倒れたと報告がなされており、それを心配した遊戯は友達を引き連れて放課後によく見舞いに来てくれた。ただそこに城之内の姿は無かったが。
入院最終日、帰り際の遊戯にそれとなく城之内について聞くと、彼は「う~ん…」と唸って困った顔をしていた。
「僕もね、城之内君に一緒に海馬君のお見舞いに行かない?って何度か聞いたんだけど、何かアルバイトの方が忙しいらしくって来れないんだって。城之内君の場合は生活がかかってるから僕も強くは言えないし…」
「ゴメンね?」と謝る遊戯に、海馬は「気にするな」と返す。
多分ヴァーチャル空間での自分の痴態を見て、漸く諦めてくれたのだろう。
一人残った静かな病室でそんな事を考える。
城之内はきっと自分に呆れてしまっている。
そうだ。それが当然だ。
あんな過去をみて、あんな姿を見て、あんな事をされて、それでも呆れない奴なんて居る筈が無い。
お前はそのまま好みの女とでも一緒になるがいい。
自分はまた一人で生きていく。
脳裏に女性と一緒に人生を歩んでいく城之内を思い描いて、少し安心した。そしてそれと同時にとても悲しくなった。
胸の奥が鷲掴みにされたように苦しくて仕方無い。
いつの間にか泣いている自分に気付いてしまう。これでいいのだと思っても、涙が溢れて止まらない。
自ら他人を引き離しておいて、こんなに辛いのは初めてだった。
「ふっ…! くっ…! ぅ…ぅっ…!」
嗚咽を無理矢理押さえ込む為に口に手を押し当てる。ベッドの中で身体を丸め、海馬は一人きりで静かに涙を流し続けた。