「いってぇ…!」
ドサリと床に投げ出され、思わず頭を抱えて起き上がり周りを見渡す。
そこは一番初めに入った海馬の私室だった。
そして目線を前に向けると、座り込んでいる城之内の目の前に立っている人物が一人。
「お前…」
それは先程嫌というほど悲しい過去を見せ付けた、あの幼い海馬だった。
「城之内…克也…?」
「あ…あぁ…」
幼い声で名前を呼ばれて、思わず素直に頷いてしまう。
「どうして諦めないの?」
「え…? 何を?」
「海馬瀬人を」
「どうして諦めなくちゃなんねーの?」
「どうして? だって海馬瀬人は諦めて欲しいと思っているのに」
感情の篭ってなさそうな、それでいてどこか悲しそうな瞳で見つめられて、城之内は直感で感じた。
コイツだ。ウィルスの本体はコイツなんだ…と。
よく考えればすぐに分かる事だった。
このヴァーチャル空間に降りてから出会った人物は四人。乃亜と海馬は別にすると、残りはこの幼い姿の海馬と先程執務室にいた剛三郎の二人だけ。
剛三郎の方がダミーだとしたら、必然的にこの幼い海馬がウィルス本体となる。
「お前…だな? お前がウィルスの本体なんだろ?」
座り込んだままそう問い詰めると、目の前の海馬はコクリと静かに頷いた。
「海馬瀬人は自分の過去に君を巻き込みたくないと思っている。だから諦めて欲しいと思っている。なのにどうして諦めない?」
不思議そうに見つめてくる幼い海馬に、後頭部をガリガリ掻きながら城之内は答えた。
「それはアイツの意思であって、俺の意思じゃない。大体なんでお前がそんな事知ってるわけ?」
城之内の疑問に幼い海馬は少し考え込んだようだったが、また無感情に喋りだした。
「僕はこの世界に入り込んだウィルスの本体だ。最初この空間に入り込んだとき、僕はただのウィルスでしかなくて、こんな感情も知らなかった。だけどターゲットの海馬瀬人が入り込んで来た時、彼の中の色々なものが一気に溢れてきた。何故かは知らないけど彼の精神のガードが凄く緩くなっていて、精神データが全部筒抜けだった」
ポツリポツリと喋り始めた海馬は、そのまま座り込んでいる城之内に視線を合わせる様に膝をつく。
「ヴァーチャル空間に肉体はない。だから精神のガードが緩んでいると、人が内に秘めているものが簡単に出てきてしまう。大体においてそれはマイナス面の強いものである場合が多い。海馬瀬人においては先程君に見せた過去であり、それに伴う自己否定の精神だ」
そっと幼い手を城之内の頬に寄せて、何故かとても愛しそうに撫でてきた。
「だからそれを見せれば君は簡単に帰ってくれると思っていた。それなのに君は諦めない。ダミーを使って二人に酷いことをしてみせても、それでも君は諦めない。ねぇ…。どうしたら君は諦めてくれるの?」
もう片方の手も頬にあてて、そのまま滑り込むように城之内の首に抱きつく。
「ダミーを使って海馬瀬人に触れた時、その感情が余りに強すぎて僕は彼に感染してしまった。僕のプログラムが変わってしまった。だから今の僕に君を消す事は出来ない。彼が君を大事に思っているから、僕も同じ気持ちになってしまう。だから諦めて帰って欲しかったのに、どうして君は諦めてくれないの?」
抱きしめてくる幼い海馬の身体を、城之内はそっと引き離す。
大きな瞳を覗くと、無感情かと思われたその瞳は苦しみと悲しみを宿しているのが解った。
「諦められるもんかよ。俺は海馬の事が本気で好きなんだ。アイツを取り戻してちゃんと現実世界でアイツを抱きしめてやりてぇって、それだけなんだ。海馬を助け出すまでは、俺は何を見ても何をされても絶対に諦めねぇ!」
強い意志を瞳に宿し目の前の幼い海馬を見つめると、彼はコクリと頷いた。
「うん…、本当は分かっていたよ。君がここに入り込んで来た時、その強い意志に僕は圧倒されたんだ。だから海馬瀬人の過去の記憶を無理矢理見せて、その精神を脆くしようと試みたんだけど、上手くいかなかったようだね…。どうやら…もう…潮時みたいだ」
幼い表情に似つかわしくない苦笑を浮かべると、目の前の海馬はそっと両手を差し出した。
「ワクチンを…。大丈夫、僕にはそのワクチンを破壊する力は無いよ。よく出来てるねコレ。流石天下の海馬コーポレーションが誇るガーディアンが作ったワクチンだ」
少し逡巡した後、素直に城之内がその幼い両手に短剣型ワクチンを乗せてやると、彼はそれをギュッと握って首元に当てる。
「ねぇ、最後に約束してくれる? 僕はただのウィルスプログラムだけど、それでも海馬瀬人のあの精神データを見たとき愕然としたんだ。彼をこの世界に閉じ込めるのが僕に嫁せられた使命だった訳だけど、何故だかとても辛かった…。彼の精神に感染していたせいもあるけれど、本当は心の奥底で何よりも君と幸せになる事を願っていたんだ」
大きな瞳からポロポロと涙が零れ落ちて、幼い顔が酷く歪んでいった。
城之内は耐え切れず、目の前の小さな身体を強く抱きしめてしまう。
頭ではウィルスプログラムだと分かっていても、そんな事はもう関係なかった。
「約束して…。彼を救い出した後は、ちゃんと現実世界で海馬瀬人を幸せにしてあげると…。僕はもう…あんなものを見るのは…嫌だ…。あんな感情は…苦しい…」
「わかった、約束する。絶対に俺が海馬を幸せにする! 守ってみせる!」
瞳を合わせそう強く告げると、目の前の幼い海馬が漸く安心したように笑った。
「よかった…。これで安心して…」
そう言って、自らの喉に短剣を突き立てた。
「っ…!!」
ゴボッ…! と嫌な音と共に、目の前に鮮血が飛び散った。
突き刺した喉と口元から大量の血液が溢れ出す。
「海馬…っ!!」
この幼い海馬は海馬では無いと分かっていたが、それでもそう叫ぶ事を止められなかった。
倒れこむ小さな身体を抱きとめる。
城之内に抱きとめられて、幼い海馬はその血に濡れた小さな手でそっと城之内の頬を撫でる。
「ぼく…は…ウィルス…なの…に、きみは…ど…して…そん…な…かおを…するの…?」
血塗れの幼い身体を抱きしめて辛そうな顔をする城之内に、腕の中の海馬は薄く微笑んだ。
「あ…ぁ…、だい…じょ…ぶ…。これ…な…ら…きっと…。せ…と…」
ヒューヒューと苦しげな呼吸の中それだけを告げると、幼い海馬は満足そうにその瞳を閉じる。
そしてそのまま力を無くすと、次の瞬間にはまるで霧のようにデータが弾けて消えていった。
「っ………!!」
城之内は暫くそのまま動く事は出来なかった。
その腕の中にはもう誰もいない。僅かな温もりだけを残して、全て消えてしまった。
足元には血に濡れた短剣が落ちていたが、再びそれを拾う気にもなれなかった。
暫く俯いたまま動けなかった城之内だったが、やがて意を決してすっくと立ち上がり、そのまま真っ直ぐに執務室まで歩いて行くとその扉を開け放ち中に入って行く。
先程まで海馬を甚振っていた傲慢な人物はもうそこには居らず、床の上には気を失っている海馬が俯せに倒れているだけだった。
「海馬…」
「…ぅっ…」
そっと壊れ物を扱うように抱き起こすと、眉を顰め僅かに呻く。
それでも気付く事の無い海馬を優しく抱きしめ、栗色の髪を何度も撫でた。
やはりあの首輪が脱出防止用プログラムだったらしく、ウィルス本体が消えた今それも綺麗に消え去っていた。首に残った首輪の跡が痛々しいが、それでも現実世界の肉体には影響する事は無いので、城之内はホッと安堵の息を吐く。
とりあえず裸の身体を何とかしてやりたくて執務室の中を見渡すと、壁にいつも海馬が着ている白いロングコートがかかっているのが見えた。
それで海馬の身体を包んでやると、突然上空から声が響いてきた。
「城之内! 聞こえるか? 僕だよ、乃亜だ!」
「おー、聞こえるぜ。何だよ、通信出来る様になったのか?」
「お陰さまで妨害プログラムが消えたからね。君がウィルス本体にとどめを刺してくれたんだろ? よくやってくれたね、城之内!」
「あぁ…まぁな…」
少し沈んだ城之内の声に乃亜は疑問に思ったようだったが、それでもこれで漸く瀬人を現実世界に戻す事が出来ると喜んでいた。
「ところで乃亜。今そっちにモクバはいるか?」
「モクバ? 今はいないけど、もうじき様子を見に来るかもしれないな。それが?」
「頼む、モクバが来ても音声や映像はそっちに繋げないでくれ」
その言葉で乃亜にも何が起こっていたか分かったのだろう。
短く「分かった」と答えると、現実世界に繋がる通信を全て切ったようだった。
そしてその直後、目の前に降り立った乃亜は海馬の惨状を見て眉を顰めた。
「やっぱりね…。こんな事になってるんじゃないかと思ったんだけど…。ていうか城之内、君も酷い格好だな」
返り血を浴びて真っ赤に汚れている城之内を見て痛々しそうに乃亜が呟くのと同時に、海馬が軽い呻き声と共にうっすらと眼を開けた。
「海馬…! 気付いたか?」
「城之…内…?」
嬉しそうに覗き込んでくる城之内に、海馬は瞬きを繰り返す。
目に映るのは埃と返り血で酷く汚れた城之内の姿。笑顔を浮かべる頬には、血で付けられた幼い指の跡が残っていた。
「もう大丈夫だ。ウィルス本体は消えたから、現実空間に戻れるぞ」
「そ…か…」
安心したように話しかけてくる城之内に、海馬はそっともたれ掛かってきた。城之内もその細い身体をそっと抱き返す。
そんな二人を見て、乃亜も安心したように笑った。
「待ってて。今、直接空間を繋げるから。あー、帰ったら即入院だろうね~。現実の身体の方も大分衰弱してるようだし。あ、出来たよほら。コレ入ったらもう現実に出られるから」
目の前に不自然なドアが現れる。
乃亜が扉を開けてくれたのを見ると、城之内はヨイショと海馬の身体を横抱きにしてそのドアに近づいていった。
「あとの事はモクバと城之内に任せるよ。僕はもう少しここに残って、残留データを洗い直さなくちゃいけないからね」
「あぁ、任せろ」と力強く頷く城之内に乃亜は微笑んだ。
「本当に有難う、城之内。お陰で助かったよ。いつかちゃんとお礼をしなくちゃいけないな」
そのまま笑顔で手を振る乃亜に見送られて、城之内は扉を潜って行った。