海馬に対する覚悟を決めた日から三日後。城之内は授業中にも関わらずチラチラと海馬の席を何度も覗き見るがその席はずっと空席で、あの日からの三日間、海馬は学校に姿を見せなかった。
どうせまた仕事が忙しくなってしまったのだろうと安易に考えていた城之内だったが、三日目の夕方、顔色を変えたモクバが突然やってきて事態は急変する事になる。
「兄サマが大変な事になってるんだ! 俺と一緒に会社まで来て!」
その日の放課後、校門を出たところにまるで待ち構えていたように現れたモクバに連れられて、城之内は乃亜のいるサーバールームまでやってきた。
「何だよこれ…。海馬どうしちゃったんだよ…!」
目の前の大きいカプセルの中には海馬が横たわっている。細い腕には水分補給と栄養剤の為の点滴の針が刺さっていた。
「海馬…? おい、海馬…!」
城之内が呼びかけても全く反応は無い。
焦る城之内をいつの間にか現れた乃亜が宥める。
「城之内、とりあえず落ち着いてくれないか」
「乃亜…! 何があったんだよ! 海馬は大丈夫なのか!?」
「瀬人は今のところは大丈夫。命に別状は無いよ。今から詳しい話をするから、とりあえず座って」
城之内は乃亜に進められ、用意された椅子に腰を降ろした。
モクバは傍についていたそうだったが、眠りから目を覚まさない海馬の代わりに業務を取り仕切らなければならないらしく、名残惜しげにサーバールームから出て行った。
直前に「兄サマの事を頼む」と城之内に言い残して。
「順を追って話すよ。まず事の始まりは三日前の深夜。突如海馬コーポレーションのサーバーにハッキングしてウィルス攻撃をしかけてきた奴がいたんだ」
二人きりになったサーバールームで乃亜が静かに話し出す。
乃亜の話によると、ウィルス攻撃は突然の事だったらしい。サーバーガーディアンである乃亜はすぐにウィルスの除去に向かったらしいが、相手が思ったより高性能であと一歩のところで逃がしてしまったそうだ。
「ダミーをいくつも巻き散らされてね。そっちに手一杯になってる間に本体には逃げられてしまった。迂闊だったよ」
悔しそうに乃亜は顔を歪ませた。
そこまで聞いて、城之内は三日前に社長室から聞こえてきた会話を思い出した。
(あん時、あのおっさんが言ってた話はこれの事だったのかよ…!)
乃亜は大きく息を吐き、続きを語りだす。
「ウィルス本体が逃げ込んだ先の空間にはパスワードがかけられてしまって、そのパスワードに該当する人物じゃないとその扉は潜れなかったんだ。ちなみに真っ先に僕が試してみたけどやっぱりダメで見事に弾かれたよ。そのパスワードってのが遺伝子情報を元にした個人認識記号だったんだけど、それに該当したのが瀬人だった」
「海馬が?」
「そう。その事を瀬人に報告したら自分の手でウィルスを除去してくるって、さっさとヴァーチャル空間に降りて行っちゃったんだよ。まぁ、そこまではよかったんだけどさ。途中まで音声や映像でコンタクトは取れたし。でも…」
言い淀んでしまった乃亜に、城之内は先を促す。
「例のパスワード付きのドアを潜った瞬間に、瀬人にアクセスが一切不能になってしまったんだ。ウィルスによる妨害プログラムが働いていて、それがどうしようも出来なくて…。それから三日間、瀬人は全く目を覚まさない。今もヴァーチャル空間に囚われたままなんだ…。おまけに昨日には件のパスワードも新しく書き換えられてしまって、打つ手が無くなってしまって…」
そこまで聞いて城之内はカプセルの中で眠り続ける海馬に目を向けた。
規則正しく呼吸はしているが、目を覚ます気配は全く無い。
「そこで、今度は城之内の話になるんだけど」
再び話し始めた乃亜に視線を向けると、彼は至極真剣な顔をしていた。
「さっき新しくパスワードが書き換えられたって話したよな? その新しい方が何故か城之内の記号だったんだ」
「…? えぇっ!? つーことは何か? 今度は俺がその扉潜れるって事か?」
「あぁ。だからこそお願いしたい。今からヴァーチャル空間に降りて瀬人を助け出してくれないか? これが出来るのは城之内だけなんだ」
乃亜の言葉を聞いて、城之内は勢い良く立ち上がった。
「そんなの聞くまでもねーよ! 俺が行かなきゃ誰が行くっつーんだ!」
それを聞いて安心したよと笑う乃亜にビッと親指を立てると、城之内はさっさと海馬の隣のカプセルに横になった。
カプセルの蓋が降りてくるのを見てゆっくりと目を瞑る。意識が遠のく瞬間軽く目眩のようなものを感じたがそれは一瞬の事で、気が付くと次に自分が居たのは美しい森の中だった。
「ここは…?」
とキョロキョロ周りを見渡していると、空から乃亜の声が聞こえてきた。
「城之内、僕の声が聞こえるかい?」
「おー、よっく聞こえるぜ。つーかココどこ?」
「ココはヴァーチャル空間の内の一つ。ここからいくつか空間を跨いで例の扉まで行くから、僕が途中までナビゲートするよ。とりあえずその小道を真っ直ぐ行ってくれるかい?」
城之内は乃亜に言われた通りに森の中の道を真っ直ぐに進み始める。
やがて目の前に突如現れた不自然なドアに「あー、なんか懐かしい感じ…」とボヤきながらもそのドアを開け次の空間に進む。
次に現れたのは夕焼けに染まる海岸で、そこも乃亜のナビゲート通りに進み次の空間に進む。
こうして次々にドアを開け別の空間に進み続けると、やがて目の前に今までとは雰囲気の違うドアが現れた。
それは真っ黒なドアだった。ドアの淵から紫色の靄が中から溢れ出して来ている。
「おーい乃亜、もしかしなくてもコレか?」
ドアを指差し嫌そうに言うと、「当たり」というそっけない返事が返ってきた。
「とりあえずここから先は僕は行けない。あとは城之内に頼るしかないんだ」
そう声が聞こえたかと思うと、突然目の前に乃亜が現れる。
「これから先は重要な作戦だからよく聞いてくれ」
城之内が黙って頷くと、乃亜はどこからか小さな短剣のようなものを取り出した。
「これは僕がウィルスを解析して作ったワクチンだ。これをウィルス本体に突き刺せば相手は砕け散って作戦は成功するんだけど、もちろんそんな簡単な事じゃ済まない」
乃亜はピッと人差し指を立てて「まず一つ!」と声高に言う。
「僕が調べたところによると、向こうの空間にはウィルス本体とダミーが一体逃げ込んだ。ちなみにこのワクチンには予備は無い。したがって間違ってダミーに騙されてこれを使ってしまうと、即作戦失敗となる」
「マ、マジでっ!?」
思わず城之内が叫ぶがそれを無視して「二つ目!」と乃亜は立てる指を二本に増やした。
「二つ目は瀬人の事。彼は何らかの手段で自ら逃げられない状況に陥ってると思われる。もし瀬人に会って彼が何か見慣れないものを装備していたら、多分それが逃亡防止用プログラムだと思う。だからと言ってそれを無理に取ろうとする事だけは絶対にやめてくれ。無理矢理外そうとすると瀬人自身のプログラムも気付けてしまう恐れがある」
「えー…と、じゃぁどうしたらいいんだよ」
「無視して」
「は?」
「だから無視して。多分そのプログラムはウィルス本体を倒したら勝手に消えると思う。だから君はウィルス本体とダミーを見分けて、本体のみを攻撃する事に集中して」
「無茶言うなよ…。ちなみに乃亜、一応聞くけどさー。その本体とダミーとの見分け方は?」
「勘」
「やっぱりね…」
キッパリと言い切ってしまわれて城之内はガックリと肩を落とし、はぁ~っと大きく溜息をつく。
だが次の瞬間には諦めたように乃亜から短剣型ワクチンを受け取りベルトに差し込むと、覚悟を決めてドアノブに手をかけた。
「わかった。んじゃ行って来る」
「くれぐれも気をつけて。君まで帰って来なくなったら本当に手詰まりになってしまう」
「任せとけって。ウィルスごときにやられる城之内様じゃないんだよ! 絶対海馬連れて帰ってくるから安心して待っとけって!」
もう一度大きく息を整えると、城之内は思い切ってドアを開け中に飛び込んだ。