*勇気の証明(完結) - 2 - *④side海馬

 その夜。海馬は取引先との会談を円滑に進める事が出来て、至極上機嫌で本社に戻って来た。
 だが車を降りて歩き出したところで呼び止められた声に、足は止まりせっかく気分も急降下してしまう。
「久し振りだね、瀬人君」
「田崎社長…」
 振り返った先にいたのは初老の男。
 酷く懐かしく、それでいて余り良い思い出の無い顔だった。


 海馬コーポレーションの先代社長、海馬剛三郎がまだ生きていた頃。
 養子に入ったばかりの海馬は、日々『教育』と言う名の虐待を受けていた。
 まるでペットのように鎖の付いた首輪を付けさせられ、寝る間も無く時には鞭や拳による暴力を受けながらも、海馬は必死に教育を受けた。
 それは自分と、そして愛する弟の将来の為。
 二度と二人で路頭に迷うことが無いように、弱音も吐かずひたすら耐えてあらゆる学問を無理矢理頭に入れていった。


 その『教育』に新たな異変が加わったのは、それからまもなくの事だった。
 丁度11歳の誕生日を迎えた翌日の夜の事、養父が新しい『教育』と称して海馬の寝室に押し入って来たのは。
 海馬を自分の後継者として公式の場に連れ出すようになって、どうやらその子供らしからぬ美貌が噂になっていることを知った剛三郎は、それを利用しない手はないと考えたのだ。
 もちろん剛三郎自身も海馬のその妖しい魅力にとり憑かれていた一人だった為その行動に迷いがあるわけが無く、その日から海馬は想像もしなかった世界へ突き落とされる事になる。
 わずか11歳の子供の抵抗など、あって無い様なもの。海馬はただその暴力じみた恐ろしい行為を受け入れるしかなかった。
 それから中学に入るまでの一年半はまさに毎日が地獄のようで、養父の重要な取引先や後援者または支持している政治家など相手はとにかく様々だったが、皆一様に共通している点は、全員がまだ幼い海馬の身体を容赦なく蹂躙していったという事だ。
 抵抗したり言うことを聞かなかったりすれば、暴力が待っていた。
 時には薬を使わされ、無理矢理犯された事も少なくなかったし、人によっては様々な醜悪な道具を使い、まるで玩具のように身体をいたぶられる事もあった。
 だが、中には海馬に対して優しくしてくれた人物が居た事も確かである。
 決して痛いことも苦しいこともせず、ただせめて幼い海馬が快感だけを感じるようにしてくれていた者達が、記憶の中に何人かいたのを海馬は思い出した。
 そして今目の前にいる田崎と言う人物も、そんな人種の一人だった事も。


「お久しぶりです、田崎社長。義父の葬儀以来でしょうか? ご無沙汰しております」
 そう言って深く頭を下げると、相手はそれを押し留めた。
「瀬人君、堅苦しい挨拶は無しにしよう。たまたまここを通りかかったら君の姿を見つけてね。久し振りに少し話をしたいと思っただけなんだ」


 この田崎という男自体に嫌な思い出は無かった。
 彼はいつも自分に優しく接してくれていたから。
 むしろ毎日のように与えられる虐待に疲れきった自分をゆっくり休ませてくれた事がよくあったので、その事に関しては感謝すらしている。
 ただどうしても当時自分に関わった者達の顔を見ると、あの頃の辛さや苦しさ何より悲しさを思い出して、気持ちが落ち込んでしまうのも事実だった。


「どうだろう? たまには一緒に食事でもしながら話でもしないかね?」
 相手の申し出を、海馬は丁寧に断わりを入れる。
「いえ、実は食事はもう済ませてきてしまっているのです。よければうちの社長室へどうぞ。お茶くらいは出しますよ」
 当時の思い出を頭の奥深くに押さえ込み何とか笑顔を作ると、海馬は後ろの男を伴い会社内入っていく。
 玄関では秘書が待っていて「社長、お客様が…」と言いかけるが、海馬は「応接室で待たせておけ。こちらのお客様の方が重要だ」と言い捨てるとさっさとエレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押した。


 社長室に共に入り、ディスク前の革張りのソファーに田崎を座らせ、海馬はポットの前に立ちお茶を煎れる。
「田崎社長は確かコーヒーや紅茶より、緑茶の方がお好きなんでしたね」
 慣れた手つきでお茶を煎れる海馬に「おぉ、よく覚えているね」と田崎は嬉しそうに笑う。
 茶菓子と一緒にテーブルに茶を出すと、海馬は田崎の向かいのソファーに深く座った。
「本当に久し振りだね、瀬人君…。最後に会ったのは一年前の先代社長の葬儀の時だったが、私の中では君はまだまだ幼い子供のままだよ。本当に…大きくなったものだ」
 海馬が淹れたお茶を美味そうに啜りながら、田崎は感慨深そうに静かに言う。
 その言葉に嫌でも当時の事を思い出して、海馬は細く息を吐いた。
「えぇ本当に。自分でもよくここまで無事に生きてこられたものだと思っていますよ」
「君は…、今でも恨んでいるんだろうね。幼い君の身体を貪ってきた我々を…」
「いえ、田崎社長はお優しかったから、社長個人は特に恨んでなどおりません。養父を始め言葉には出来ない程酷い扱いをしてきた者達に関しては、今でも殺してやりたいと思う事がありますが、だけどそれを実行するほど俺は愚かではありませんので」
 腹の前で指を組み、目を瞑って深く息を吐き出す。
「養父が…先代社長の海馬剛三郎が俺に売春の仕事をさせていたのは、11歳の誕生日から中学校に上がるまでのわずか1年半でしたが…。あの1年半の事は実は今でもよく思い出せないのです。ところどころ強烈な印象で残っている部分はありますが、正直好んで思い出したいものではありませんしね」
「本当にすまなかったね…。あの頃の私も、あの海馬剛三郎と提携を結びたくて必死でね。こんな幼い子供にこんな事を…とは思ったが、どうにも君の魅力には勝てなかったんだよ」
「言ったでしょう、田崎社長。あなたは優しかったから、その事であなたが気に病むことは無いんですよ」
 田崎は海馬の言葉を聞いて「そうかね? それならいいのだが」と乾いた笑い声を上げた。
「今だから言える事ですが、少しでも抵抗すればすぐに殴られるわ鞭で打たれるわで。鎖や縄で拘束して道具を使ってくる変態もいましたし、酷い時には薬を使われて意識が朦朧としているところを無理矢理とかもありましたから」


 昔の事を話していると、どうして脳裏に思い出として甦ってしまう。
 泣き叫んでも暴れてもどうにもならないと気付いた時から、海馬は一切の抵抗を止めてしまった。
 ただ人形のように豪華なベッドに身を横たえて、自分に覆い被さる男の動きに伴って上下に揺れる天井を見詰めながら、海馬は情事が終わるのをただ静かに待つだけだった。
 いつの間にか泣く事も忘れ、男達が施す快感にも慣れてしまい、やがて何も感じなくなっていく。
 ただ最後に、自分を犯していた男が身体の最奥で精液を放った時だけは、じわりと生暖かくなるその気色悪さに自分がまた一つ穢されてしまったのだと嫌でも感じさせられて、それだけにはどうしても耐え切れずに海馬は瞳から一筋だけ涙を零した。
 見つめていた天井が涙で歪んでいくその光景だけは、やけによく覚えていた。


「君は変わったね」
 突然田崎に呼びかけられて、海馬はハッと顔を上げた。
 いつの間にか思い出に囚われていたらしい。湯飲みを受け皿に戻しながら、田崎が感心した様に言った。
「昔、君に今のと同じような話をした時。君はまるで表情を変えずに淡々とあの頃の事を話していたものだ。それが今はどうだ…。私は君のそんな顔を知らない。そんな心から傷付いたような辛い顔は」
「申し訳ありません。ご不快にさせましたか?」
「とんでもない。安心した位だよ。今の君はちゃんと人間らしい感情を取り戻したようだね」
 心から嬉しそうにそう言われて、海馬は混乱してしまう。
 確かに周りの人間からは以前の自分とは随分変わったようだと態度で示された事はあったが、この様にはっきりと言葉で指摘された事は初めてだった。
「そうでしょうか…?」
「そうだよ。あぁそういえば君は今高校生だったか。人生の中で今が一番の青春真っ盛り。誰かに恋でもしたのかな?」
「…っ!? な、何を突然…っ!」」
 突然の言葉に海馬が慌てて反論すると、田崎は声を上げて笑い面白そうに話を続けた。
「今の君の顔はね。自分が傷付いたというよりは、他の誰かを傷付けるのを恐れている顔だよ。誰かを大事に思ってなければ出来ない顔だ。それも肉親の愛情では無いね。それとは全然違うものだ。さて、君にそんな顔をさせるのは一体どこの誰だろうね? 会社の人間か、学校の人間か、男か女か。非常に興味があるね」
「…。やはり人生の先輩には勝てませんね…」
「よければ話を聞かせてもらえないかな?」
 嬉しそうな顔を向ける相手に海馬はふぅと一つ溜息を吐くと、観念したように口を開いた。
「相手は学校の同級生で、品行も成績も最悪のまさに駄犬のような男です。髪なんか無理矢理金髪に染めてボサボサで、中学時代はかなり荒れていたらしいし、別にたいした奴ではないんですよ」
 海馬は脳裏で城之内の姿を思い描く。
「ただ感心するようなところも多くて…。家の生活費も学費も全部自分でアルバイトで稼いできて、そのくせそんな苦労は微塵も見せないで、いつも明るくて眩しくて…」


 頭の中の城之内は、いつも明るく笑って皆の輪の中心にいた。
 どんなにアル中の父親の事やアルバイトの事などで苦労をしていても、いつだって大したこと無いように笑い飛ばしていた。
 海馬はそんな城之内を見るのが嬉しかった。自分の心の中まで明るくなるような気がしたから。
 そしてそんな城之内を見るのが辛かった。汚れきった自分には、城之内の放つ光は眩し過ぎたから。


「いい顔をしているね、瀬人君。君は本当にその彼の事が好きなんだね。ところでもうその彼にはもう気持ちを伝えたりはしたのかな?」
 田崎の問いに海馬はフルフルと首を横に振る。
「言ってどうするんです? こんな身体で彼を受け入れろと? こんなどこの誰のかも分からない手垢と精液にまみれた身体で彼を求めろとでも?」
 自嘲気味に唇を歪ませて海馬は吐き出す。
 頭ではこんな愚痴を言うべきでは無いと分かっていても、気持ちがもう止まらなかった。
 海馬は震える手で顔を覆った。
「奴には自分の気持ちは絶対に伝えません。奴の気持ちも…受け入れるわけにはいかない。俺にはその資格がない」
 田崎はそんな海馬を辛そうに見つめる。
「すまなかった。辛い事を言わせてしまったようだ」
「あ…いえ、大丈夫です。こちらこそ見苦しいところをお見せしました」
 手を外して顔を上げる。そこにはもういつもの自信家な海馬の表情しかなかった。
 その顔を見て頷いた田崎は、持ってきた鞄から書類を一束取り出す。
「実は今日君に会いに来たのは、こんな湿っぽい話をする為じゃなかったんだよ。ノリとは言えついつまらない話をしてしまったね」
「これは?」
 書類を受け取った海馬がざっと目を通すと、それは田崎の会社との提携による新商品の企画書のようだった。
「本当は仕事の話をしたかったんだ。先日我が社で新しいシステムを開発したんだが、どうも自社だけでは役に立ちそうになくてね。そこで瀬人君のところならうまくこいつを使いこなせるんじゃないかと思ったんだが…どうだろうか? 主企画はそちらで構わないから提携して貰えないだろうか?」
「これは…面白い企画ですね。貴社の製品は質が良くて丁寧で信頼してますし、これなら双方にかなりの利益が期待できそうです」
 海馬は手にした企画書をパラパラと捲り、満足そうに笑った。
「君にそう言って貰えると嬉しいよ。それでは近日中に詳しい内容をメールで送るから、それでいいかね?」
「構いません。お待ちしております」
 久々に手応えのある仕事が出来そうだと海馬が思いを巡らせていると、田崎が急に表情を変え声を潜めてくる。
「そういえば。最近有力な企業に強力なウィルスが送られているのは瀬人君も知っているかな?」
「…えぇ。話だけは」
「海馬コーポレーションも気を付けた方がいい。実にやっかいなウィルスだそうだ。何でも人のトラウマにつけこんでくるとか。それにウィルスにやられた企業の話を聞いていると、私はどうもそれが只の実験的なものにしか思えないんだよ。本攻撃先は他にあるんじゃないかとね」
「本攻撃先…? …っ! ま…さか…」
「あくまでこれは私の推理だ。まだそうと決まったわけじゃないが用心に越した事はないよ」


 田崎の忠告に「気をつけます」とだけ答えた海馬は、その後帰社する田崎を玄関ホールまで送り出した。
 田崎の乗った黒塗りのリムジンが闇夜に消えたのを見届けると、早々に社長室に戻ってきて深く椅子に座り深い溜息をつく。
 短時間に様々な事があったせいか妙に疲れていた。こんな日はさっさと帰ろうと立ち上がると、秘書が慌てて部屋に入って来るのが見えた。
「社長…! お客様がずっとお待ちなのですが」
 それを聴いて漸く思い出す。そういえば会社に帰ってきた時に、この秘書はそんな事を言っていた。
「あぁ、そういえばそうだったな。で、その客はどこに? 応接室か?」
 面倒臭そうに視線を投げかけると、秘書は慌てて否定した。
「いえ、お客様というのは社長の御学友の方です。確か城之内様とかおっしゃる…」
「っ!? な…んだと…っ!?」
 余りの事につい大声を出してしまう。
 そして最悪の事を思い出した。
 自分は確かこの秘書に、学校関係の者が来たら応接室ではなく社長室、つまりこの部屋付きのプライベートルームに通せと言ってはいなかったか。
 慌てて大股でプライベートルームに続くドアの前まで近づくとノックもせずに開け放った。
「っ…! よ…よぉ…!」
 弾かれたように座っていた椅子から立ち上がる城之内に、海馬は目の前が真っ暗になるのを感じた。