*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第六夜

 ずっと待っていたのだ…。
 救いをもたらす者が来るのを…ずっと待っていたのだ。
 私の役目は彼の側にいる事。
 彼の側にいて、彼の罪を共に見続ける事。
 例え自分の存在を知って貰えなくても、決して側を離れず、千年という長い年月を彼と共に過ごして来た。
 それがどんなに辛くても…ここから逃げ出す事なんて、考えられもしない。
 何故ならそれがオレの罪だから。
 けれど…お前は違う。
 お前は救いをもたらす者。
 彼を…救う者。
 本当に必要なのは…私では無いのだ。

 




 鳥居の向こうに見える山肌に太陽が近付いて行き、そして黒く見える山の輪郭に少しずつ沈んでいく。それを眺めながら海馬はくるりと振り返り、鳥居に背を向けて本殿を睨み付けた。
 いや、海馬が見ようとしているのは本殿では無い。これから現れようとしている、贖罪の神域への門だ。

「海馬君…」

 背後では遊戯や了、それに見届けの巫女が海馬と共にその時が来るのを待っていた。
 日が暮れ始めるのと同時に冷たい風が吹いてきて、髪や着物の裾がハタハタと靡く。顔にかかる髪を鬱陶しそうに掻き上げた時、突然目の前の空間が不自然に歪み始めた。奥にある本殿が、まるで蜃気楼のように揺らめいて見える。

「日が…沈みました」

 見届けの巫女の凛とした声がその場に響く。それと同時に目の前の空間に縦に亀裂が走り、それがゆっくりと左右に開いていった。

「門…。開いちゃったね…」

 少し沈んだ了の声が耳に届く。だが海馬はその声に振り返る事無く、開かれた門に向かって歩いて行った。そして門の前まで来て、一旦歩みを止める。
 門の向こうは霞がかっていて、余り良くは見えない。だが、こちらの世界と同じような本殿が建っているのが何となく見えた。人影は見えない。ただ寂しい空間が広がっているだけだ。

「いって参ります」

 歪んだ空間を強く睨み付けながら、海馬は振り返る事無くそう言った。
 特に誰に対して…という訳ではない。この現世に残す全ての人々に対し、それだけは言っておきたかったのである。

「いっていらっしゃいませ」

 海馬の別れの言葉に対し、見届けの巫女がそう答えを返した。多分背後では先程と同じように深く頭を下げている事だろう。
 了が自分の背中を黙って見詰めているのが分かる。耐えきれなくなった遊戯の嗚咽も聞こえる。海馬家に残ったモクバも、多分今は複雑な思いで黒龍神社の方向を眺めているに違いない。
 それでも海馬は一度も振り返らなかった。振り返る必要を感じなかった。
 自分の目的は、この先にしか無かったから。

「海馬君…っ!!」

 決意を込めて一歩を踏み出す。背後で遊戯の悲鳴が聞こえたが、気にせずに歩を進めた。
 途端に全身に違和感を感じて、その気持ちの悪さに思わず顔を歪めてしまう。まるで水の中に沈められたかのような掴み所の無い耳鳴りと、ザワザワと紙やすりか何かで肌を擦られるような感触に吐き気すら覚えた。こめかみに冷や汗が流れ、身体には震えが走る。だがその感覚に耐えて数歩先に進んだ時、その気持ち悪さが一気に消えていくのが分かった。

「………?」

 不思議に思って顔を上げた時、海馬は自分が今までとは全く違う空間にいる事に気付いた。


 見た目は余り現世とは変わらない。赤と黒を基調とした黒龍神社の本殿もそのままだし、その黒龍神社を守る為の鎮守の森も、いつもと同じようにサワサワと静かに葉擦れの音を起てている。
 日はすっかり暮れたのか、空を見上げると満点の星空が見えた。一番最近の新月は丁度一週間前だった為、今から満月になろうとしている三日月が白く輝いている。
 美しい夜空だった。この空が昼間は薄闇に覆われるのかと思っても、とてもじゃないが信じられないくらいに美しかった。

「っ………!?」

 突然、本殿の周りに置かれていた篝火に火が点き、真っ暗だった辺りが火によって明るくなった。
 誰か他にいる訳でも無いのに、まるで自分が来るのを待っていたかのような演出に、流石の海馬も少し戸惑ってしまう。
 何となく落ち着かなくてキョロキョロと視線を走らせていると、辺りに軽やかな鈴の音が響き渡ったのが聞こえた。

 チリ――――――ン………。

 いつもは頭の中に響くその鈴の音は、今確かに自分の耳に直に届いて聞こえた。
 慌てて音のした方に視線を向けると、本殿の前に白い人影が立っているのが見えた。真っ白な着物を着た男性が、本殿の方を見据えて立っている。
 一瞬、この贖罪の神域に幽閉されている食人鬼かと思ったが、記憶にある克也の姿とは全く違う姿形だった。だがどこか見覚えのあるその後ろ姿に、どうしても目が離せない。

「誰だ…?」

 思わず口に出して尋ねると、立ち尽くしていた人物が振り返ってこちらを見た。
 その顔を見て、海馬は驚きを隠せなかった。何故ならその顔は一番良く知っている顔…、自分が毎朝鏡で見る顔そのものだったからだ。
 けれど、向こうの人物は決して自分自身では無い。そうなると…考えられるのは一人しかいなかった。

「せと…なのか…?」

 震える声でそう問い掛けると、その男はふっと笑みを浮かべ、本殿の奥の方に消えていった。

「待て…っ!」

 慌てて消えた背を追って、海馬も本殿へと向かっていく。見たところ作りは全く同じらしかったので、いつもと同じように勝手に本殿に上がり込んだ。そして祭壇を覗き込み、奥に掲げられているものを見て目を瞠る。

「黒炎刀…」

 そこにあったのは、本物の黒炎刀であった。柄に赤い組紐が付いた鈴があるから間違い無い。
 千年前の悲劇の折、凶器となった護神刀。この刀によって、百人もの命が無残にも奪われた。そして、それによって本当の悲劇が訪れた。

「………」

 複雑な気持ちでその刀を見据え、ふと、隣に視線をやった時だった。黒炎刀の隣に置かれていたものを見て、思わずぎょっとして後ずさる。
 海馬の目の前にあったのは、古びた一つの頭蓋骨だった。黒炎刀と同じように、大事そうに祭壇に置かれている。

 チリ――――――ン………。

 頭の中にあの鈴の音が響いた。
 十三歳のあの日、見届けの巫女から初めて詳しい話を聞いた時に見たあの映像が甦る。

『やめろ…っ!! 克也っ!!』

 今ならはっきり声が聞こえる…。
 克也にこれ以上罪を犯して欲しくなかった。妹殺しだけはさせたくなかった。だから自分が庇いにいったというのに、こんな事になるなんて思わなかったのだ…。
 克也を…鬼にしてしまった。そのせいで、こうして千年間もの孤独の苦しみを味合わせる事になってしまった。
 愛する人を…罪に陥れてしまった。

「後悔…しているのですか…?」

 いつの間にか頭蓋骨の前に現れた半透明のせとに、海馬は静かに問い掛けた。その問いに、せとは悲しげな顔でゆっくりと頷いて答える。

『もっと…良い方法があった筈…だったのに…な…。私では…彼を救えなかったのだよ…』

 せとはそれだけを海馬に伝えると、またふぅっと消えてしまった。
 本殿は余りに静かすぎて、まるで時が止まったかのようだ。外からはパチパチという篝火の薪が爆ぜる音が聞こえるが、滞った空気に息が詰まりそうだった。
 それでもそこから動く気にはならなくて、置かれた頭蓋骨にそっと手を伸ばした時だった。

「それに触るな!!」

 鋭い声が背後から響いて、思わずビクッとし手を引っ込めた。
 どうして今まで気付かずにいられたのだろうか…。背後に人ならざる者の気配を感じて、余りの恐ろしさに振り向く事すら出来ない。背筋がゾワリとし、肌が粟立つのが分かった。

「お前が新しい贄の巫女か。何だ…百代目は男なんだな。どこの家の出身だ? 漠良…は違うよな。今朝還した奴が漠良の家の巫女だったからな」

 海馬が感じている恐怖が伝わったのだろうか。最初に発していた畏れを解き、その者はまるで普通の人間のように話しかけて来る。それによってガチガチに固まっていた身体が解れていって、海馬はホッと息を吐いた。
 多分、今自分の背後にいるのが例の食人鬼…つまりあの克也なのであろう。
 話には聞いていたが、やはり人間では無い者の気配は恐ろしかった。身体の全ての筋肉が固まって、少したりとも身動き出来なくなる程の緊張を感じたのである。
 少しでも動いたら殺される…っ!
 本能がそう訴えて、身体を固めてしまったのだ。
 だが今は、その緊張は解かれている。それに少し安心して、海馬は鬼の問いに答える為に口を開いた。

「海馬…です」
「海馬か。久しぶりだな。ここんとこずっと漠良と武藤とで交互に来てたみたいだったから。ざっと五十年ぶりってとこかなぁ?」
「………」
「おい、もう怖くはないだろ? 覇気は解いたからこっち向いてくれよ」

 鬼に乞われ、海馬はゆっくりと振り返った。そして見たのは、本殿の入り口の柱に寄りかかってこちらを見ている鬼…克也だった。
 金色の髪に獣のような細い瞳孔。だがそれ以外は普通の人間のように見える。黒い着流しを着た鬼は黙ってこちらを見詰め、そして次の瞬間、その瞳が驚きに大きく見開かれた。

「せ…と…っ!? 何故…? どうして…っ!?」

 チリ――――――ン………。

 再びあの鈴の音が頭の中に響く。
 驚きの表情のまま海馬と頭蓋骨を見比べる克也を眺めながら、海馬は自らの誓いをはっきりと思い出していた。

 これから…この男を救う為の闘いを始めなければならない…と。