それは約束の証。
彼から贈られた、永遠に自分を愛するという誓いそのもの。
嬉しかった。幸せだった。だからずっと大事に持っていた。
それなのに…それはもうどこにもない。
一体どこで無くしてしまったというのだろうか…。
今は見失ってしまった、あの幸せだった頃の記憶を持った…小さな鈴は。
海馬が指定された部屋の襖を開けると、奥の上座に座っていた見届けの巫女と目が合った。少女は海馬に微笑みかけ「こちらにおいでなさい」と声をかける。その言葉に一礼して、海馬は部屋に入って少女の前に座り込んだ。
「最後の最後まで呼び出すような事になってしまって…ごめんなさいね。こんな直前になって、どうしても貴方に話しておきたい事が出て来てしまったのです。本当は話すかどうか最後まで悩んだのですけれど、どうしてもあのせと様にそっくりな貴方を見ていたら話さなければならないと思いまして…」
「いえ…大丈夫です。オレも何か他の事をしていた方が気が紛れますので」
「そうですね。では…早速これを見て頂けますか?」
そう言って見届けの巫女が背後から取り出したのは、この黒龍神社の宝であり神刀である黒炎刀であった。柄に結びつけられている鈴が、動きに合わせてチリンと鳴る。
「それは…黒炎刀ですね。本殿から持ち出しても宜しかったのですか?」
「構いません。どうせこれは模造品ですから」
「は…?」
「本物の黒炎刀は、千年前に兄が贖罪の神域に持ち去ったままなのですよ。これはその後、黒炎刀に似せて作った模造品…。つまりレプリカです」
「そうだったんですか…」
「えぇ…。でもこれは…この鈴だけは本物ですよ」
柄に付けられた鈴を手に取って、身届けの巫女はその紐を外し始めた。鮮やかな青い組紐で結ばれたそれをシュルリと外して、掌の上に載せてみせる。チリンと軽い音を起てて、それは少女の掌の上で転がった。
「その鈴が本物という事は、あの事件の時に外れてしまったという事ですか?」
少女の掌に載った小さな銀色の鈴を見詰めながら海馬はそう尋ねる。しかし見届けの巫女は、その問いに対して首を横に振って答えた。
「いいえ。本物の黒炎刀に結びつけられていた鈴は、そのまま兄の手によって贖罪の神域へと行ってしまったままです。これは対になっていたもう一つの鈴…、いつの間にか行方不明になっていた筈のもう片方の鈴なのです」
「え…? そ、それは一体どういう事ですか? 無くなっていた筈の鈴が、後から見付かったという事ですか?」
「そういう事です」
チリ――――――ン………。
見届けの巫女が海馬の問いに頷いた瞬間、久方ぶりにあの鈴の音が海馬の頭の中に響いて来た。
元々は対の鈴。黒炎刀の柄に二つの鈴が付けられていた。片方は赤い組紐、もう片方は青い組紐。その青い組紐の方の鈴を、誰かが柄から解いて自分に手渡していた。
『これを…お前に』
大きくて優しくて無骨な手が、小さな鈴を掌に載せて自分に差し出してくる。
『持っていて欲しいんだ。オレ達は男同士だから、どうせ結婚は出来ない。けれどオレが永遠にお前を愛する証として…これをお前にあげよう』
顔を上げれば男らしい顔に満面の笑みを浮かべている男が一人。太陽の下、明るい茶色の髪を風になびかせて照れ臭そうにしていた。
『もう片方はオレが持っている。これでオレ達は対の鈴だ』
克也だ…。
海馬は心の中で男の名前を呟いた。
この風景は、まだ人間であった頃の克也が自分に愛の誓いをたててくれた時のもの。まだ幸せであった頃の、温かい記憶…。
「あの悲劇の晩から一夜明けて、生き残った私達は百人の犠牲者をせめて手厚く葬る為に、遺体を本殿に集め始めました。勿論その中にはあのせと様の遺体もございました。首は兄が持ち去ってしまった為に首無しの遺体ではありましたが、私はせめてせと様のお身体を綺麗に清めて差し上げようと思ったのです」
青い組紐が付いた鈴に見惚れている海馬に、見届けの巫女は優しく微笑みかける。そして軽く嘆息しつつ、自らも鈴を愛おしそうに見詰めながら口を開いた。
「御遺体は…酷い有様でした。兄が首を跳ねてしまった為に、上半身は血と泥で塗れて…。けれどもっと酷いのは下半身でした。食人鬼に無理矢理犯された状態そのままになっていたのです。完全に裂けてしまわれて、血と精液がこびり付いてしまっていて…。本当だったら立って歩く事さえ辛かったでしょうに、せと様は御自分の身体を返り見ず、私と兄を救う為にここまで駆けつけてくれたのでした」
少女は少し泣きそうな顔をしながら、掌の上で鈴を転がしていた。チリリ…と軽やかな音を起てて、転がる度に銀色が光に綺麗に反射する。
「お湯で濡らした布で瀬人様のお身体をお拭きする為に着物を脱がした時でした。袂から小さな守り袋が転がり落ちて来たのです。何とは無しにそれを手に取ってみると、中から小さな鈴の音が響いて参りました。中を覗いたら…」
チリ――――――ン………。
鈴の音が響く。軽やかでいて清らかな鈴の音が。
そうだ…。よく覚えている。
これは克也との約束の証。守り袋に入れて、いつでも大事に持っていた。
「これを見付けて…そして私は悟りました。きっと兄が御自分でこの鈴をせと様に差し上げたのだろうと。それだけお二人は本気で愛し合っていらっしゃったのに、何故あのような悲劇が起きてしまったのか…」
もう一度だけ掌で鈴を転がし、そして少女は青い組紐を摘んで海馬に向かって差し出した。何気なく手を伸ばすと、海馬の掌の上に転がすように鈴が置かれる。チリン…と涼やかな音が今度は自らの掌の上で鳴った。
じっと思い詰めた表情で鈴を見詰める海馬に見届けの巫女は微笑んで、そして優しい声で語りかける。
「それを…差し上げましょう。お守代わりに持ってお行きなさい」
「え…? オレがこれを…? いいんですか?」
「構いません。それは貴方が持って行くべきもの。きっと貴方の為に、私は千年間この鈴を守ってきたのですね」
「見届けの巫女様…」
「私はもう何も心配しておりません。きっと貴方なら…何もかも大丈夫な気がしますから」
最後にそう言って見届けの巫女はふわりと笑い、海馬に向かって深く頭を下げていた。
日の入りまであと一時間を切った頃。海馬は本殿の別室で神官着を脱ぎ捨て、巫女としての衣装に着替えていた。
白い着物に赤い袴。先程見届けの巫女から貰った青い組紐の鈴は、白色の新しい守り袋に入れて腰紐に結びつけておく。
姿見を見ながら襟元を直していると、後ろの襖の向こう側から誰かが自分を呼ぶ声がした。
「海馬君…。入ってもいい?」
その声が幼馴染みでもあり同じ贄の巫女候補でもあった武藤家の遊戯だと分かって、海馬は「構わん」と一声かける。その声で背後の襖が開き、沈んだ表情の遊戯が顔を出した。
遊戯はそのままトボトボと部屋の中に入ってくると、海馬の側まで来てその場に立ち尽くす。そして大きな瞳一杯に涙を溜めながら、海馬の事を見上げていた。
「海馬君…、本当に行くの?」
「それがオレの役目だからな」
別に何でも無いようにそう言い捨てると、遊戯はついにボロボロと涙を零しながら海馬の背に縋り付いた。
「泣くな」
「だってぇ…っ」
「まだ小さなモクバだって、今日は泣かなかったんだぞ」
「それは海馬君がそう教えて来たからじゃないか…っ。僕はそんな事教えられて無い…っ」
「屁理屈を言うな。少なくても一年前までは同じ贄の巫女候補として育ってきたお前の事だ。これがどんなに大事な役目か、よく分かっているだろう」
「そうだけど…、確かにそれは良く分かっているけれど…っ。だけど、それとこれとは関係無いよ!」
「遊戯…?」
「だって僕は…僕は…っ。ずっと海馬君の事が好きだったんだ…っ! 子供の頃からずっと…ずっと好きで…憧れてて…。それなのに、その大好きな人が死に場所へ行こうとしている時に、君は僕に泣くなと言うの…?」
ぎゅうっ…と力を入れて抱きつかれて、流石に黙って立っている事が出来ずに少し身動いでしまう。だがその時、動きに合わせて腰に付けている守り袋からチリン…と小さな鈴の音が響いた。
遊戯の事は大好きだった。自分に向けられたこの気持ちも嬉しいと思う。
けれどやっぱり…違うと心のどこかが叫んでいた。
彼じゃない。自分が本当に求めているのは、遊戯じゃないと海馬は知っていたのだ。
救いたい…。彼を…克也を。それがどんな結果になるか分からずとも、千年に渡る彼の孤独を救いたい。
「あぁ、そうだ。泣くな遊戯」
努めて冷静な声で、海馬は背後の遊戯にそう告げた。
敢えて振り返らず…真っ直ぐ前を向いたままで。
「死に行く者に情を移すな。後で辛くなるのは自分自身だ」
「酷い…。酷いよ海馬君…っ」
「何と言われようと、オレはこの考えを改めはしない。お前に何と言われようとオレは行く。行って全てを終わらせてやる…っ!!」
ギュッ…と、海馬は強く拳を握りしめた。余りに強く手を握った為に、自らの爪が掌に刺さって痛みを感じる。
今まで見た事のない程強い決意を秘めた海馬の表情に、遊戯も驚いて呆気に取られ、ただ呆然と海馬を見上げるしかなかった。
窓の外では日が沈んでいくのが目に入ってくる。
雲一つ無い澄んだ冬空に、眩しい程の西日が輝いていた。