*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第三夜

 愛していた人が罪を犯した。
 だからこれ以上その手を汚して欲しくなかった。
 それだけだったのに、まさかこんな事になるなんて思わなかった。
 彼が闇に身を堕としたのは…間違い無く自分のせいだ…。
 悲しい…っ! 辛い…っ! 苦しい…っ!!
 いつになったら彼を救う事が出来るのだろうか…っ!!
 もう千年もの長い間、彼が苦しんでいる様をずっと見ている。
 側にいても、自分の力では何一つ出来ない。
 誰か…っ! あぁ…誰か助けてくれ…っ!!
 彼を救ってやってくれ…っ!!

 




 チリ――――――ン………。

 鈴の音と共に、また過去の光景が海馬の目の前に広がっていく。
 それは不思議な光景だった。
 足元に倒れているのは紛れも無く自分の死体。胴体は俯せに石畳の上に倒れ伏していて、首は少し離れた場所に転がっている。視線を動かすと、腰を抜かして座り込んでしまっている静香の目の前で、その兄が頭を抱えて苦しんでいた。
 妹と同じ亜麻色だった髪の毛はみるみる内に金色になり、村からの炎に照り返しで真っ赤に染まっていた。瞳はまるで獣のように瞳孔が細くなり、苦しげに息を吐く口元からは鋭く伸びた八重歯が見え隠れしている。
 慌てて近寄ってその身体を抱き締めた。けれど、その腕を彼の身体に触れさせる事は…出来なかった。

「兄は…鬼の思惑通り、食人鬼へと身を落としてしまいました。そしてその悲劇を間近で御覧になった黒龍神は、それを良しとはしませんでした。神聖な雨と共に目の前に姿を現わした黒龍神は、兄を罰すると私に告げたのです」

 真っ赤に燃えさかる村に、突如雨が降り出した。ただの雨ではない。龍神が降らせる神聖な雨。
 あれだけ激しく炎が燃え盛っていたというのに、その雨に少し触れただけで火はたちまち消えていった。
 人間にとっては恵みの雨。僅かに生き残っていた人々もその雨を身に受けて、身も心も癒されていた。
 だがその雨は、異形の存在に姿を変えた者にとっては害にしかならない。
 大量に降り続ける雨に皮膚を打たれ、まるで強い酸に焼かれたように雨に濡れた場所が煙と共に溶けていく。
 人から食人鬼へ姿を変えたばかりで未だ苦しいその身体を、神聖な雨に打たれて皮膚を焼かれ、余りの激痛にそれは石畳の上でのたうち回っていた。

『お兄様…っ!!』

 慌てて妹が近寄って、その身体の上から覆い被さって兄を雨から守ろうとする。けれども石畳の上に溜まった雨水が下からも身体を焼き、食人鬼に変わった者を苦しめていた。
 やがて…その痛みが彼を正気に戻らせたのだろうか。
 突如瞳に光を宿した鬼は、そのままズルズルと石畳の上を這っていった。そして少し先で転がっていた恋人の首に手を伸ばす。
 地面に仰向けに転がった首は、光を失った虚ろな瞳で空を見上げていた。見開いたままの瞳に雨が溜まり、それがまるで涙のように眦から流れ落ちている。
 鬼は…震える手でその首を抱き上げて、大事そうに懐に抱え込んだ。

『せと…っ。せと…っ! オレが…オレが殺した…っ!! オレが…せとを…殺した…っ!!』

 皮膚を焼く雨に全身を打たれ、愛しい恋人の首を大事に抱えて鬼は泣いていた…。

「黒龍神は…大層お怒りでした。人々を守る為に授けた力で、その守るべき人々の命を無残に散らした兄を、どうしてもお許しにはなれなかったのです。せと様の首を抱えて蹲っていた兄を、黒龍神はそのまま自らがお造りになった神域へと閉じ込めてしまわれました。そして私に、『この者は罪を犯し過ぎた。このままこの空間に閉じ込め滅ぼす…』と言われたのです」

 膝の上に置いた手を力強く握りしめ、当時の遣り切れない気持ちを何とか抑えつつ、少女はそのまま話を続けた。

「私は黒龍神に必死に訴えかけました。あんまりだと…余りに酷過ぎると。兄は確かに龍神に愛されて生まれて人ならぬ力を授かってはいましたが、あくまでも神そのものでは無く神に仕えるただの人に過ぎなかったのですから…。自らが命をかけて守っていた村人に裏切られ、そのせいで愛しい恋人を穢され、それで正気でいられる人間がおりましょうか…と」

 そこまで一気に話した見届けの巫女は、深い溜息を一つ吐いた。そして静かに空を仰ぎつつ、再び言葉を紡ぎ出した。

「黒龍神は暫くの間黙っておられて…、そして数刻後私に直接尋ねられました。それ程までに兄を救いたいかと。私は「はい」と答えました。次に、兄が神の意志に逆らう罪人だとしてもか…と問われても、私は再び「はい」と答えました。それが肉親の情だと。兄が罰を受けるのならば、妹である私も一緒に罰を受ける覚悟があると…そう訴えました」

 チリ――――――ン………。

 鈴の音と共に、現れた龍神に石畳の上で深く頭を垂れている少女の姿が見える。激しい雨に打たれ、髪も着物もグッショリ濡らしながら、それでも少女は石畳に額をこすりつけるように必死に願っていた。

「暫く黙っておられた黒龍神は、やがてこう言われました。では兄の命を取る事だけは止めておいてやろう。ただしこの空間から出す訳にはいかない。それに兄の命を繋ぎ止める為には生け贄が必要になってくる。兄はもう人間ではなく食人鬼になってしまったのだから、人間を食べねば生きていけない…と」

 見届けの巫女は再び真っ直ぐに視線を戻らせて、目の前に座っている三人をじっと見詰めてきた。
 その強い視線から、少女が本当に伝えたかったのはこの先だという事が嫌でも伝わってくる。

「黒龍神は私に教えて下さいました。龍神が降らせた雨に打たれて、兄は何とか人間であった頃の理性を取り戻す事が出来た…と。だからむやみやたらに人を食べる事はないだろうが、それでも月に一度、どうしても絶えられない飢餓に襲われる日が来ると。その時に人間を食べないでいると、やがてそのまま餓死してしまうと…そう言われました」

 本題に入ったからなのだろうか。少女の瞳は少しも揺るがず、ただ真っ直ぐに前を向いて話を続けていた。

「月の光は神聖なもの…。その光が全く届かない新月の晩が飢餓の日だそうです。そこで黒龍神は私に告げられました。月に一度、兄に食される生け贄を一人、この神域に送るが良い…と。生け贄は神域の力でどんなに食されても死ぬ事は無く、傷付いた身体も一晩経てばすっかり元通りに戻ってしまうそうなのです。ただし、その者自身の生命力を究極に高めて怪我を治すので、十年も経つ頃には生命力が尽きて、どんな丈夫な者でも死んでしまうのだそうです。だから十年ごとに新しく生け贄を寄越せ…と、そう仰りました」

 漸く辿り着いた、十年に一度の贄の巫女の話に、遊戯と了は釘付けになっている。
 ただし海馬だけはどこか呆然とした気持ちでその話を聞いていた。
 そんな事はもう知っている。誰が何人死のうと、もはや関係無い。ただ、今も贖罪の神域で苦しんでいる――の事を考えるだけで…胸が張り裂けそうだった。

「黒龍神は兄の為に色々と手を貸して下さいました。まず龍神の御力で、私に三つ子を授けて下さったのです。最初の百年は城之内の血を引く者の中から生け贄を差し出すように言われました。相手をする者が兄…つまり男性だった事から、生け贄になる者が男でも女でも『贄の巫女』と呼ぶように言われたのもこの時です。そして男性を知らないまま龍神の力によって私が産んだ三人の子をそれぞれ分家の始祖とし、名字を武藤・漠良・海馬とすべしと言われました」

 突如出て来た自分達の名字に、遊戯と了が思わず顔を見合わせた。
 今の話が本当なら、存在している三大分家の血を引く全ての人々は、皆この見届けの巫女の子孫という事になる。

「そして…次の百年からは、一族として栄えた分家の中から交互に生け贄…つまり贄の巫女を差し出すようにと告げられたのです。それから…三つ子を産む為に龍神の力をその身に受けた私は、不老不死の身体となってしまいました。黒龍神は、それこそが私に課せられた罰だと仰りました。自らの血を引いた子孫を兄の為に生け贄として送り出し、十年をかけて殺し、また次の新しい生け贄を送り出す…。そしてそれを最後まで見届ける。それが私の…見届けの巫女としての役目だと、そう言われたのです。そして人間としての理性を残したまま、月に一度人を食さねばならない事が…兄にとっての罰だとも教えて下さりました」

 自らの血を引いた子孫を、兄の為に生け贄として差し出さねばならないという事は…一体どれだけの悲しみをこの見届けの巫女に与えたのだろうか。
 考えるだけでも胸の奥が痛くなりそうな事を、この少女は約千年もの長き間に渡って実際にやってきたのだった。

「百年をかけて栄えた三大分家はやがて黒龍神のお告げの通りに、十年に一度、贄の巫女を兄のいる神域…『贖罪の神域』へと送るようになりました。その頃から本家城之内家では全く子供が生まれなくなり、やがて城之内の血を受け継いだ者は全員寿命を迎え死んでいきました…。今現在城之内の血を受け継いで生きているのは私と…あとは贖罪の神域に閉じ込められている食人鬼の兄だけです」

 それまで悲しそうな…辛そうな顔で話をしていた少女は、ここにきて漸く表情を和らげて軽く嘆息した。

「最初に黒龍神からこの話を聞いた時…、私は永劫に続くような苦しみの連鎖に泣き崩れました。けれど黒龍神はこうも言って下さったのです。『罰は永遠では無い。いつかお前の兄を苦しみから解き放つ者が現れる。今ここで預言をしよう。百代目の『贄の巫女』こそが、その役目を負っている』と…」

 そこまで言って、見届けの巫女は沈痛な顔をした三人を眺め、少し悲しそうに、けれども優しく微笑んだ。

「貴方達の中から…やがて百代目の贄の巫女は選ばれるでしょう。あぁ、でも了は違うかもしれませんね。同じ家から続けて贄の巫女が出る事はありませんから…。となれば遊戯か瀬人のどちらかでしょうね…。黒龍神は百代目の贄の巫女がどうやって兄を救うのかまでは教えてくれませんでした。だから私にも、この先どうなるかは全く分かりません。けれど黒龍神の預言が本当ならば…貴方達のどちらかが兄を救ってくれる事になる筈です」

 涙で濡れた眼をそっと伏せて、少女はその場で深くお辞儀をした。
 まるで千年前のあの日に、雨に打たれながら石畳の上で龍神に向かってしたかのように、深く深く。

「どうか…どうかお願い致します。身勝手な願いとは分かっております。けれど私は、何とかして兄を救ってやりたいと思っているのです。あれから千年…兄はもう十分に苦しみました。ですからどうか…兄を救ってやって下さいませ…っ! これだけが私の願いでございます…っ!!」
「見届けの巫女様…っ! 止めて下さい!!」
「どうか頭を上げて下さい!!」

 突然自分達に深く土下座をした少女に、遊戯と了が慌てて近寄ってその身体を支えた。
 本当だったら自分もその場に駆け寄って、その細い身体を支えてあげねばならなかったのかもしれない。けれど海馬にはそれが出来なかった。
 支えようとしなかった訳では無い。本当だったら遊戯や了と同じように駆け寄って、少女の身体を起こしてやりたかった。
 だが…身体が全く動かなかったのである。深く苦しい悲しみに支配されて、全ての筋肉が固まってしまったかのように身動きがとれない。ただ、涙だけは相変わらずボロボロと絶える事無く、澄んだ青い瞳から溢れては零れ落ちていった。

「克也…っ」

 突如、海馬の口から放たれた名前に、見届けの巫女が慌てて顔を上げた。そして「瀬人…?」と名前を呼びながら、泣き続ける海馬の側に近寄ってその顔を覗き込む。

「瀬人…どうしたのです? 今…何と言われました。一体誰を呼んだのですか」
「克也…っ! 克也…っ!!」
「どうしてその名を貴方が知っているのですか…っ!? 瀬人…っ!!」
「克也ぁ…っ!! うっ…あぁ…っ!! 克…也…っ!!」

 両耳を押さえ眼を強く瞑り、半狂乱になって蹲り泣き叫ぶ海馬に、見届けの巫女も遊戯も了もどうする事も出来なかった。



 結局その時は数分で海馬の状態は元に戻ったものの、その異様な雰囲気から見届けの巫女も、そして贄の巫女候補と呼ばれた遊戯や了もはっきりと理解してしまったのである。
 海馬瀬人こそが…百代目の贄の巫女、つまり『救いの巫女』であると…。

「何となく…そうでは無いかと思っておりました…」

 黒龍神から百代目の贄の巫女の名前が告げられてから暫くして、海馬家に直接やって来た見届けの巫女はそう言って、海馬に向かって少し悲しそうに微笑んだ。

「貴方は…お小さい頃から、あのせと様に良く似ておられました。姿形ばかりではなく、内面から感じられる雰囲気まで、本当に良く似ておいでで…。だから何となく予感はしていたのです。けれども、それと同時にそうであっては欲しくはないという気持ちも…ございました」

 海馬と共に縁側に腰掛けた少女は晴れ渡った冬の空を見上げて、冷たい風に長い亜麻色の髪を揺らしながらポツリと呟く。

「あのせと様と良く似た貴方を食べねばならないという事は…兄にとってはどれ程の苦痛となる事でしょう。もしかしたら、それが黒龍神が兄に対して下した本当の罰なのかもしれませんね…」

 その言葉に対して、海馬は何も言えなかった。
 ただ共に冬の空を見上げて、一年後の冬至へと想いを馳せる事しか出来なかったのである。