*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第二夜

 運命とは…残酷なものだ。
 この哀しい出来事は、どうしても避ける事が出来なかったのか。
 後からどんなに後悔しても、時が逆行する事だけは決して有り得ない。
 ただ分かるのは…自分のせいで彼が今も苦しんでいるという事実だけだ。
 千年もの長い間を…たった一人で…。

 




 部屋の中は緊迫した空気に包まれていた。側ではストーブが焚かれ十分に温かい筈なのに、背筋にゾクゾクとした寒気が走る。
 細い指先で滲んだ涙を拭い取った見届けの巫女は、当時を思い出しているのか…遠い目をしたままだった。綺麗な澄んだ瞳が、悲しみの色で濡れている。
 そんな見届けの巫女を見詰めながら、海馬は少女のこんな表情をどこかで見た事があると思っていた。だが同時に、そんな筈は無いと頭の中で否定する。
 幼い頃から第百代目の贄の巫女の候補として、度々黒龍神社の本殿へは連れて行かれていた。見届けの巫女とは毎回会う訳では無かったが、それでもたまに顔を合わせたりする度に彼女はゆったりと微笑み、少し会話をしては優しく頭を撫でてくれた。だが、こんな悲しみの表情を見せた事は一度も無い。
 だからこの既視感はただの勘違いの筈だった。それなのに…心のどこかがそれを否定する。
 自分は確かにこの表情を、遠い昔に見た事があると。しかも、自分も全く同じ気持ちで…。
 その時だった。

 チリ――――――ン………。

 小さな鈴の音が部屋の中に響き、海馬は思わず視線を巡らせた。どこからか鈴が落ちたのかと思ったが、だがこの部屋の床のどこにも鈴なんて落ちてはいない。それどころか、この小さな音に気付いたのはどうやら自分だけであるらしい。隣で見届けの巫女の話に耳を傾けている遊戯と了は、全く意に関していないようだった。

「異変が起こった時…、私は神社の本殿の奥で黒龍神にせと様と兄の無事をお祈りしていて、それに全く気付いていませんでした…」

 再び開かれた少女の言葉に、海馬は慌てて正面に向き直った。

「無心で祈っていると、突然誰かが本殿にやって来ました…。誰かと思って扉を開くと、そこにいたのは傷付いた身体を必死に引き摺ってここまで逃げてきた、兄の恋人のせと様だったのです。せと様は私の顔を見るなり叫びました」

『巫女様…っ!! 静香様…っ!! どうか今すぐお逃げ下さい…っ!!』

「え………っ?」

 突然脳裏に響く叫び声に、海馬はビクリと身体を揺らした。
 今のは一体誰の声なのか。どこかで聞き覚えがあるような…。そう、例えるならば自分の声がもっと低くなればこんな声になるだろうというような声だった。

「せと様の御言葉で、私は慌てて外に飛び出しました。そしてそこで見たのは…、鳥居の向こうの村が真っ赤に燃えている風景だったのです。家という家が全て炎に包まれ、激しい黒炎が辺りを包み空へと昇っていっておりました。そして人々の血や人体が焼け焦げる匂いが、まるでここまで臭ってくるような…そんな気さえ致しました…」

 見届けの巫女は悲痛な表情に顔を歪めながらも、淡々と言葉を紡いでいく。

「せと様は仰りました。自分が食人鬼に犯されている姿と村人の裏切りを目の当たりにした兄が、その余りに酷い衝撃に正気を保っている事が出来なくなって、狂気に取り憑かれ暴走してしまっていると…。食人鬼はその場で兄によって首を飛ばされ、倒れ伏したせと様を気にかける事も無く兄は村へと向かって行ったのだそうです。せと様は…気付いておられました。これが鬼の呪いだと。鬼の本当の目的は兄の恋人を穢す事では無く、せめて自分が死ぬ前に兄を自分と同じ闇の深みに堕とす事だったのだと…」

 チリ――――――ン………。

『今の――は、完全に理性を失っております…っ! 例え私や静香様を目の前にしたとしても、それが誰かは分からないでしょう…っ!!』

 再び脳裏に声が響いた。それと同時にまた…鈴の音も響く。

『ここに来るまでに、何人もの村人の死体を見ました…。全員黒炎刀で切られ、その身体に黒炎が纏わり付き焼け焦げておりました。こんな殺し方が出来るのは、この世でたった一人しか…、残念ながら――しかおりません…っ。男も女も子供もありませんでした。目に付く人間は全て殺して回っているようです。死体から飛び火した炎が家々も燃やし始めて、村は酷い惨状です…っ!!』

 脳裏に声が響くのと同時に激しい耳鳴りに襲われ、海馬は堪らず自分の両耳を押さえた。
 現実の音はグワングワンと歪んで良く聞こえない。その代わり、頭の中の声は酷く鮮明だった。

『ですから静香様。どうか早く逃げて下さいませ…っ! ――は私が責任を持って何とか致します。――が暴走してしまったのは…私の責任でもありますから…っ!!』

 そうだ…。自分は確かにこの話をよく知っている。
 そう…、まるで自分自身で体験したかのように。
 知らず知らずの内に涙が零れて、止まらなくなっていた。ホロホロと涙を零す度に耳鳴りも少しずつ治まっていく。
 目の前で話を続ける見届けの巫女の声が漸くはっきり聞こえてきたが、海馬はもうそれ以上聞きたくはないという気持ちに苛まれていた。
 何故だかは知らない。だけれども、その物語が目を覆い耳を塞ぎたくなるような悲劇で終わる事を…よく知っていた。

 チリ――――――ン………。

 あぁ…まただ。また、鈴の音が聞こえる。

「私がせと様の御言葉に戸惑っている内に、小さな鈴の音が鳥居の向こう…参道の階段から段々と近付いて来るのが分かりました。その鈴は黒炎刀の柄に結びつけられていたもので、元々は二つ対で付けられていたものでした。いつの頃からか鈴は一つだけになってしまいましたが、その残った鈴がチリチリと鳴りながら近付いて来たのです。やがて鳥居の向こうから姿を現わしたのは…兄でした」

 未だ海馬の涙は止まらなかった。ぼやけた視界に別の風景が混ざって見える。
 黒炎に覆われた真っ黒な空。それと対照的に真っ赤な炎を吹き上げて燃えている村。
 赤と黒を背景として現れたその男は、真っ白だった神官着を真っ赤に染め上げていた…。

『お兄様…っ!? どうして…? あぁ…どうしてこんな事に…っ!!』

 せっかく治まっていた耳鳴りが再び強く鳴りだし、同時に脳裏に少女の叫び声が響いた。まるですぐ隣で聞いて居るかのように、強く大きく…。

「兄は…私達の事が全く分かっていないようでした…。虚ろな目で黒炎刀を引き摺りながら近付いて来て、やがて私の目の前でピタリと足を止めました。振り上がる黒炎刀に、私は逃げる事が出来ませんでした…。恐れと悲しみで足が震えて…身体が固まって身動きする事が出来なかったのです。高く掲げられた黒炎刀の先がピクリと動いて…、そして私に向かって振り下ろされました」

 そこまで話して、少女は留めていた涙を再び零し始めた。
 隣で黙って話を聞いている遊戯と了は、ゴクリと喉を鳴らして真剣な表情で見届けの巫女の次の言葉を待っている。
 だが海馬には、その後の展開がもう分かっていた。
 いや、分かっていたというよりは…今まさにこの瞬間、涙で歪んだ視界に当時の映像が流れていたのである。

『やめろ…っ!! ――っ!!』

 妹殺しをさせる訳にはいかなかった。
 それに静香は黒龍神に愛されて生まれてきた巫女。黒龍神の言葉を直に聞ける、ただ一人の巫女。兄の暴走によって滅びてしまった村を立て直すには、彼女の力が必要不可欠だった。
 そうだ…。この村を愛していた。静かで平和で、慎み深く思いやりがある優しい人々が暮らすこの村が…。そしてただ一人、心から愛しいと思う人が全力で守っているこの村の事を本当に大事だと思っていた。
 だからこそ、このままここで終わらせる訳にはいかなかった。実の妹をその手で殺させる訳にはいかなかった。

「黒炎刀の刃が私に届く寸前…、必死の形相で駆け寄ってきたせと様が私と兄の間に立ち塞がりました。そして…黒炎刀はそのまませと様の首を跳ねてしまったのです…」

 もはや見届けの巫女は、流れる涙を拭おうともしなかった。ポタリポタリと顎の先から涙を落としながら、ただ淡々と事実を述べていく。

「兄の神官着は…襟元に少しだけ白い部分が残っていました。けれどもせと様の返り血でその部分までが真っ赤に染まってしまって…。そして次の瞬間、兄の身体は変化し始めてしまいました。奇しくも…自分の恋人のせと様が、その晩の百人目の犠牲者だったのです」

 頭の奥のどこか遠い場所で、悲痛な叫び声が聞こえたような気がする。
 海馬は過去と現代の間で意識を揺らめかせながら、そんなことを思っていた。