*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第十六夜

 克也が…病んでいく。
 そしてそんな克也を見て…救いの巫女が泣いている。自信を無くしている。
 辛い気持ちは痛い程分かる。
 思念体のこの身にも…克也が弱っていく有様は堪えるくらいなのだから。
 けれどどうか諦めないで欲しい。
 お前がここで諦めたら、本当に全てが終わりなのだ。
 救いの巫女よ…。生きている人間には死んだ人間には決して出来ない事が出来るのだよ。
 それは奇跡を起こす力。
 奇跡を起こして…愛する者を救う力なのだ。

 




 季節は移り変わる。暖かい春が来て、暑い夏が来て、涼しい秋が来て、そしてまた寒い冬がやって来る。そんな移り変わりを繰り返して、三年目の冬が遣って来た。
 裏山では現世から迷い込んできたヒヨドリ達が騒がしく鳴き交わしている。遠くの空まで響くかのようなその鳴き声を聞きながら、海馬はマヨイガの庭に出ていた。座敷に飾る為の冬の花を捜し、目に付いた白椿の前で足を止める。美しく咲き誇っている花では無く、半分開きかけの花とまだ綻んでいない蕾が付いている枝を選び、その根元に剪刀を入れた。
 パチン…という音と共に枝が落ちる。その枝を受け取って、海馬は白く清らかな花を暫し見詰めていた。

 チリ――――――ン………。

 ふと…冷たい冬の風と共に、いつもの鈴の音が辺りに響き渡った。振り返ると白い着物を着たせとが、黙って立って此方を見ている。椿を手にその場に立ち尽くしていると、ふわりと笑ったせとが海馬に近付いてくる。そして白い手をそっと海馬の頬に這わせた。
 思念体である彼の手が海馬の身体に直接触れる事は出来ないが、それでも微かな熱を感じたような気がした。

『具合はどうだ?』
「悪く無いな」
『そうだろうな。新月明けだというのに、顔色もいい…。貧血は? 大丈夫か?』
「貧血…? そんなもの…なる訳無いだろう」
『………』
「大して食われてもいないのに…。最近では再生もあっという間に終わってしまって、以前のように生命力を使い果たして寝込む事も無くなっている」
『………』
「なぁ…せと。お前はもう気付いているのだろう? アイツが…城之内が…」
『お前を食わなくなっている事か…?』

 せとの静かな応えに、海馬はコクリと頷いた。
 いつの頃からだったろうか…。城之内は海馬を食さなくなっていた。
 初めの一年は普通に食べられていたような気がする。ところが二年目くらいから、新月明けの朝の辛さが軽減していっている事に気付き始めた。食されている最中は痛みと苦しさと辛さの為、城之内の食事の量が減っている事に全く気付かなかったのである。
 最初は気のせいかと思っていた。だがそれから注意深く観察していると、やがて城之内の食事の量が減っている事が明らかとなった。三年目に入ってからはその傾向は顕著になり、ついには内臓には全く触れられなくなってしまった。いつも軽く血を啜り、人体の柔らかい部分の肉を少し食すだけで終わってしまう。

「昨夜だって…。首筋を噛まれて血を啜られて、腕の内側と…腿の内側の肉を少し食われただけだった。再生もすぐに終わってしまって、夜が明ける前には身体の調子も元通りに戻ってしまっている。これでは…」
『そうだな…。これではいつ力尽きるか分からない』

 俯いた海馬に同調するかのように、せとも渋い声を出して眉を寄せた。
 城之内が海馬を食さなくなった事。その理由については、二人とも心当たりがあった。多分それは、海馬とせとの同一視に関係があるのだろう。
 海馬が城之内に食されている間は、如何に快感に気が紛れようとも、痛みや苦しみが完全に消え去る訳では無い。血を啜られ肉を食われ骨を囓られる辛さは、絶えず海馬を襲うのだ。その度に泣いて叫んで身を捩る。必死に痛みに耐えている海馬を、城之内が辛そうな目で見ている事は…もうとっくに気付いていた。

「城之内は…どうしている?」

 海馬の質問に、せとはますます辛そうな顔をしながらフルフルと首を横に振った。

『今日も本殿だ。相変わらず…』
「お前の頭蓋骨を抱いて床に転がっているのか」
『………。あぁ…』

 せとが溜息と共に海馬の問いかけを肯定した。自分も同じように大きく嘆息しながら縁側に腰掛ける。新月明けだという事で流石にずっと立ち続けているだけの余力は無い。軽い目眩を覚えながら、海馬は手に持った白椿を悲しそうな目で見詰めていた。
 いつからこんな事になってしまったのか…。そしていつまでこんな事が続くのだろう…。
 城之内が衰弱していっているのは、海馬の目にも明らかになっている。三年前に初めて会った時のあの恐ろしさや威圧感はもうどこにもなく、海馬に良く見せていたあの明るい笑顔も暗い影の中に潜んでしまって、まるで太陽のように明るかった金の髪もくすんだ色になってしまっていた。
 今や歩き回る体力も無いらしく、せとの頭蓋骨を抱えたまま一日中黒龍神社の本殿の床に寝っ転がっている日々。痩せこけた頬、細くなった手足、虚ろな瞳。
 身も心も…病んでしまった城之内。

「アイツは…このまま死んでしまうのだろうか…」

 冷たい冬の風に拭かれながら、海馬は不安そうにそうポツリと零した。
 見届けの巫女から城之内の話を聞いたとき、本気で心からこの鬼を救ってやりたいと思った。その思いは実際に贖罪の神域に来てからも変わっていない。それどころか…その鬼に対して恋愛感情まで持ってしまったというのに…。

「オレでは…ダメなのかもしれない…」

 何とか城之内を救ってやりたいと思い、この三年間、必死で彼の為に尽くしてきた。だがそれでも…城之内がせとの呪縛から解き放たれる事は無かった。それどころかいっそう強く罪に捕われて、ついには全く海馬を食す事が出来なくなってしまったのである。
 海馬の肉体に爪や牙を起てる度に、過去の幻想に捕われる城之内。海馬の痛みを…苦しみを…、過去のせとと繋ぎ合わせてしまってそれ以上食べ進める事が出来ないのだ。その想いは食人鬼の耐え難い食欲さえも超えて、今や城之内の全てを支配している。海馬はどうしても、その支配を打ち破る事が出来ないでいた。

「救いたいと…思ったのだ…。けれど…もう…どうしたらいいのか分からない…っ。オレが城之内を救い出す前に…奴は死んでいこうとしている。自ら…地獄に堕ちようとしている…っ」
『少し落ち着け、救いの巫女よ』

 不安で不安で仕方が無くて、ボロボロと零れる涙を両手で覆っていたら、頭上から優しげな声が響いてきた。涙を拭いながら顔を上げると、至極穏やかな笑みを浮かべたせとが青い眼を細めて海馬を見詰めている。
 その顔には…不安など全く浮かんでいなかった。

『自信を持て。お前は予言された救いの巫女なのだ。それは間違い無いのだから』
「だが…」
『以前…お前がまだここに来たばかりの頃、私は言った筈だ。私はあくまで死んだ人間で…お前は生きているのだと。生きているお前にしか出来ない事がきっとある筈だ。それが克也の呪縛を解くと…私はそう信じている』
「せと………」

 せとの空気に溶ける手が、海馬の持つ白椿にそっと触れた…。実際に触れた訳でも無いのに、半開きだった花がゆっくりと開いていく。爽やかな香りが辺りに広がって海馬の鼻孔をくすぐった。

「お前…っ! こんな力を持っていたのか…!?」

 目の前で起きた奇跡に海馬が目を瞠ると、せとは穏やかな顔のままゆっくりと首を振った。

『これは私の力では無い。この贖罪の神域では強く願った望みが、ほんの少しだけ…現実で形になるのだ。と言ってもそんなにしょっちゅう出来る事でも無いし、これを知っているのは私だけだからな…』
「お前…だけ…?」
『そう、私だけ。たまに…こうして戯れに花を咲かせているだけだ。花に余り興味の無い克也はそんな事には気付かないし、それ故、外にこの事が伝えられる事も無い。代々の贄の巫女も私の姿は全く見えなかったから、こんな事は知らなかった筈だ』
「………」
『だからこそ私は思うのだ。千年もの長い間私がここにいたのは、やはりお前に会う為だったとな…。お前に会ってこの事を伝える為だと…』
「この事…?」
『奇跡を起こせる力だ、救いの巫女よ。私はこうして花を咲かせる事くらいしか出来ないが、お前にはもっと…違う事が出来る筈だろう? 克也を救う為の…奇跡の力だ』
「奇跡の…力…」

 綺麗に咲き誇った白椿の枝を胸に抱え、海馬はせとの言葉を繰り返す。そして今自分に何が出来るのか…何を求められているのかを考える。頭に浮かんだ光景に、慌てたようにせとの顔を見上げたが、彼はただ穏やかに微笑んでいるだけだった。

『救いの巫女よ…己が信じる事をせよ』
「だ…だが…っ!」
『何度も言うが、私は死んだ人間。そしてお前は生きている人間だ。死んだ人間に遠慮する事など…何も無いのだよ』

 せとはニッコリと優しく微笑んで、海馬に大きく頷いてみせた。そんなせとを見て、海馬は強く決心をする。城之内を救う為の覚悟を…胸に刻んだ。
 そして海馬はその場ですっくと立ち上がった。途端にクラリと軽い目眩がしたが、額に手を置いて目眩が落ち着くのを待つ。暫くして視界がクリアになったのを確認して、白椿の枝の根本を側の手水鉢の水に浸すと、そのまま踵を返して本殿の方へと歩いて行った。


 海馬はもう…何も恐れていなかった。
 城之内を救う為に、彼に嫌われる事も…そして疎まれる事も。もう何も怖くは無かったのである。
 ただ彼をもう一度明るい陽の光の下へ…と。
 この地獄の縁から城之内を救い出す事だけが、海馬の望みになっていたのだ。