*無限の黄昏 幽玄の月(完結) - 黄昏の入り口 - 第零夜

 一晩で百人の人間を自らの手で殺し、その返り血を浴びた者は、人を食らう鬼へと変化するという。
 太古の人々はその鬼を『食人鬼』と呼んで恐れた。
 だけれども、現代に生きる者にとっては、それはただの伝説上のお話。ただの御伽話に過ぎない。
 そう…一般の人々にとっては。
 まさか今も十年に一人、食人鬼に食われる人間がいるだなんて…考えもしない事だろう。
 考えもしないだけで、確実にそれはそこにあるのだ。
 確実に…。

 




 冬至。
 一年で最も日中の時間が短いこの特別な日の太陽が、漸く中天に差し掛かる頃。
 どこまでも澄み切った冬の青空の下、白い着物に青い袴姿の男性が一人、自宅の中庭に立ち尽くしていた。
 その格好は神社に仕える神官としての格好で、晴れ渡った冬の空をそれと同じくらい澄んだ青い瞳で見上げるその人物の名は、海馬瀬人と言った。
 薄衣の着物だけでは冬の風は冷たいだろうに、海馬はまるで何も感じぬようにただ青空を見上げて黙って突っ立っている。
  まるで冬の空に溶け込んでしまいそうな海馬の希薄な気配に気付いたのだろうか。近くの空を飛んでいた雀の群れが突如方向転換をし、すぐ近くの椿の木に舞い 降りた。チュンチュンと騒がしく鳴く雀に気が付き、海馬は美しい紅色の花を咲かせている椿の木に向かって腕を伸ばす。すると、まるでそれを待っていたかの ように雀達が一斉に飛び上がり、しなやかに伸びた腕や指先、そしてなだらかな肩などに舞い降りて翼を休めた。
 普段、人間を警戒して近付いて来ようともしない雀がこうも簡単に自分に懐く事に苦笑しつつ、海馬はもう片方の指先で雀の小さな頭をそっと撫でた。


 海馬が住んでいるのは黒龍町という人口二百人程度の小さな山間の町だった。
 町になったのはほんの二~三十年前の出来事で、それまでは黒龍村という村であった。町の中心から少し南側に行った処に黒龍神社という大きな神社があり、町の住民は皆その神社に祀られている『真紅眼の黒龍』という龍神を信仰し、日々慎ましやかに暮らしている。
 この黒龍神社は、神官や巫女の家系である四つの家によって守られていた。
 一つはこの黒龍神社の敷地内に住み、神事祭事一切を取り仕切る本家…城之内家。そして神社自体と南を守る城之内家を支える為に、他の三つの分家が各方向を守っていた。
 一つ、北を守る『闇』の武藤家。一つ、西を守る『冥』の漠良家。そして最後の一つが、東を守る『光』の海馬家である。
 それぞれの分家は自らの担当する方角の町の端に家を持ち、海馬家も町の東側の端に立派な純和風の邸を持っていた。海馬が今いるのは、その邸の中庭である。
 辺りには他に人家も道路も無く、この邸の周りだけは静かな空気に包まれていた。町では数日後に控えたクリスマスの陽気に沸き立っているというのに、まるでここだけ別世界のようだった。
 聞こえるのは冬の風の音と、鳥達の鳴き声だけ。
 そんな静かな空間を、海馬は心から好んでいた。


 そんな風に海馬が気に入っている静かな中庭は、先程よりずっと賑やかな様子に変貌していた。
  雀と戯れている内にいつの間にかヒヨドリや烏、果てはそこらに住み着く野良猫まで集まって来てしまい、海馬を中心として一風変わった光景が繰り広げられて いる。本来だったら異種族間の生き物が同じ場に揃えば、一方が逃げたり果ては喧嘩なりと起こるものだが、何故か海馬がその場にいる限りそんな事は起きな い。
 これは海馬の持つ不思議な力の内の一つだった。
 幼い頃より、余り人には好かれる事は無かった。特に理由も無いのだが、何故か 「取っつきにくい」「あの子の側には近寄りたくない」という曖昧な理由で、彼は常に独りぼっちだった。例外として、五つ年下の自分の弟や、同じ分家の神官 である武藤家の遊戯や漠良家の了は海馬に対してそんな気になったりはしない。ただどうしてか、他の人間は彼に近寄る事を「気持ち悪い」と感じてしまうよう だった。
 その代わりと言っては何なのだが…海馬は鳥や動物にはよく好かれた。別に海馬が動物を意図的に慣らした訳では無い。自分が特に何もしていなくても、向こうの方から勝手に近寄って懐いてくるのだ。
 他の神官も同じだと思って遊戯や了に聞いてみても、彼等にはそのような能力は全く無いらしい。
 初めは何故自分にこのような能力があるのか全く意味が分からなかった海馬であったが、本家と分家の秘密と役割を知った今は、自らの身に何が起こっているのか完全に把握出来ていた。


 肩に留まった雀がまるで遊びに誘うように海馬の栗色の髪の毛を啄むのを優しく諫めて、その温かな身体にそっと指を触れさせた時だった。

「兄サマ」

 突如背後からかけられた声に海馬はゆっくりと振り返り、縁側に正座している人物に優しげに眼を細める。
 そこにいたのは海馬の弟のモクバであった。いつも明るく優しく自分に懐いてくれる賢い弟は、何故か今は哀しそうな目で真剣に自分を見詰めている。
 だが海馬には、弟がそんな目をしている理由が分かっていた。

「どうした、モクバ」

 なるべく優しく尋ねると、モクバは哀しげな表情をさらに深くして、膝の上に置いた手をギュッと強く丸め俯いてしまう。そして震える声で「先程…本家から連絡がありました…」と海馬に告げた。

「そうか…。それで?」
「今朝『見届けの巫女』様に、黒龍神様からお告げがあったそうです。第百代目の『贄の巫女』…、預言されていた『救いの巫女』には兄サマの名前が挙がったそうです…」
「………。やはりそうか…。では一年後に向けて早速準備せねばいけないな」
「兄サマ…?」
「今日からオレは一年の潔斎に入る。オレの食事には、肉や魚を一切入れないように。夏至を迎えた日からは五穀も抜かなくてはならないから、食事係にそう伝えておいてくれ」
「それだけ…? それだけですか…!? 兄サマ!!」

 思いがけないモクバの大声に、海馬の身体に留まっていた鳥や足元に寝転がっていた野良猫が一斉に四方に散っていく。空中に舞い散る様々な鳥の羽毛を溜息混じりに眺めながら、海馬は弟を諫めるように少しきつい声を出した。

「余り大声を出すな。皆が驚いていただろう」
「今は鳥とか猫とかはどうでもいいでしょう!? 『贄の巫女』に選ばれたという事は、兄サマは…兄サマは…っ。死ななきゃならないんだから…っ!!」

 弟の大きな瞳から涙がボロボロと零れ落ちていく。
 止めどなく流れる涙に流石の海馬も心を痛め、ジャリ…と庭の玉石を踏んで縁側に座っているモクバの側まで歩いていった。そしてそのまま縁側に腰掛け、小さな頼りない身体を抱き寄せる。
 小さな…温かくて愛しい、たった一人の弟の身体。
 一年後にはこの熱とも永久に離れなければならないという事実は、確かに海馬の心を打ちのめした。
 だが…海馬はもう覚悟していたのだ。『約束の刻』が近付くに従い神官として様々な事実を知った今、その覚悟は揺るがない物となっている。代々の『贄の巫女』が自分と同じような能力を持っていた事を知ってからは、きっと自分が選ばれるであろうと確信していたのだ。

「どうして…っ。どうして兄サマなんだよ…っ! 漠良でも武藤でもいいじゃんか…っ!!」
「漠良家は無理だな。先代の『贄の巫女』…、つまり今『贖罪の神域』にいる方は漠良の叔母にあたる方だ。同じ家から二度続けて『贄の巫女』が出る事は無い」
「じゃあ武藤家はどうなんだよ…!」
「武藤も無理だろう。武藤家が有する力は『闇』だ。もし千年前の預言が本当なら、百代目の『贄の巫女』は『救いの巫女』となる筈。闇に落ちた食人鬼を救い出す巫女が、同じ闇属性の筈は無いだろうな。となれば、残るは『光』の海馬。オレしかいない訳だ」
「兄サマ…っ。ねぇ…どうして? どうして兄サマはそんなに冷静なの?」
「もう既に知っていたからな」
「知って…?」
「モクバ、オレが余り人には好かれず、その代わり鳥や動物に異常に好かれる事は知っているだろう?」
「う…うん…」
「色々調べた結果、どうやら代々『贄の巫女』に選ばれる者は同じような能力を持っていたらしい。漠良の父親に聞いたら、先代も小さい頃から同じような力を持っていたと教えて貰った」
「そんな…っ」
「そういう訳で、オレはもう知っていたのだ。自分が第百代目の『贄の巫女』…曰く預言された『救いの巫女』になる事を。だから特に驚いてはいない。それが必然だと理解しているからな…」

 ボロボロと涙を流し続けるモクバの頭を優しく撫でながら、海馬は愛しい弟の身体を強く抱き締める。そして慈愛に満ちた声でこう伝えた。

「モ クバ…、今だけは泣いてもいい。だが明日からはもう泣くな。いつかこんな日が来るだろうと、オレはお前に当主としての心づもりを教え込んで来たのだから な。オレが『贖罪の神域』に去った後は、今度はお前が当主としてこの海馬家を支えていかなければならない。いいな、モクバ。それがお前に課せられた役目だ と、しっかり心得てくれ」

 覚悟を決めた兄の言葉にモクバはひたすら何度も頷きつつも、今は目の前の身体に力一杯しがみついて泣く事しか出来なかった。


 この時、海馬瀬人十六歳。
 十七歳になった来年の冬、彼は自ら死地へと赴かなくてはならなくなったのだった。