捲ったカレンダーに表示されているのは8月という大きな数字。
世間の学生達は夏休みの真っ最中だった。
とは言っても、夏休み中は全く学校に行かなくて良いという訳ではない。オレが通っている童実野高校の学生には、曰く『登校日』という至極面倒臭い行事が待っているのだ。
8月に入ってすぐの平日。予定通りに『登校日』は行なわれ、午前中だけの意味もない行事を終了させ、昼前には下校の許可が出て真夏の炎天下に放り出された。
この時間が一番暑いのにも関わらず…だ。
教師達は車で帰るから別に何とも思わないのだろうな。何が「寄り道せずに真っ直ぐ帰れ」だ。小学生でも無しに、そんなものは初めから無理な話というものだ。
それにしても今日は本当に暑い。
真夏の太陽がジリジリと地面を焼き、蝉の大合唱が耳に痛い程だ。
リムジンを呼び出せるオレは別に構わないが、徒歩で帰らなければならない一般生徒は大変だろうなと思う。
何故こんな暑い思いをしてわざわざ午前中だけの登校日に参加しなければならないのかと我ながら理不尽に思うが、まぁ無事に終わったので良しとしよう。
そう思って迎えの車を寄越す為に携帯を取り出した時だった。
「海馬、一緒に帰ろうぜ!」
オレと同じく真面目に登校日に来ていた城之内から、決して抗えぬ魅惑的な一言が投げかけられたのは…。
結局オレはリムジンで帰る事を諦めて、この炎天下の中、城之内と徒歩で帰っていた。
一瞬城之内と一緒にリムジンで帰ればいいのでは無いか…とも思ったが、それだと何故か物足りないような気がしたのだ。
真っ青な空、白い入道雲、灼熱の太陽、ぬるい微風、蝉の大合唱。それらを全身で感じながら、たわいもない会話をしながら日陰を選んで歩く。
暑くて仕方が無くて首筋や背中にビッショリと汗を掻きながら、それでもこの時間が楽しいと感じるのは何故なのだろうか。
それは今までのオレが知り得なかった、まったりと流れる時間を楽しむ行為だった。
ましてやその時間を好きな人間と一緒に楽しめるという事が、何より幸せだと感じる。暑いのは…少々辛かったが。
こめかみから流れてくる汗を手の甲で押さえながら「ふぅ…」と溜息をつくと、横にいた城之内が心配そうにして覗き込んでくる。
「辛そうだな、大丈夫か?」
「あぁ…大丈夫だ。少し暑いだけで」
「少し休憩すっか。すぐそこに小さな神社があって、裏の木陰にベンチがあるんだ。そこでアイス食おうぜ」
そう言って城之内はオレの手を掴み、主要道路から住宅地へ続く細い脇道へと入って行く。
少し歩くと小さな個人商店が見えてきて、城之内はそこの前で立ち止まった。そしてそのまま店の中に入って行き、冷凍ケースの前まで進むとその中を覗き込む。
ケースの蓋を開けて中からソーダアイスを取り出すと、後ろに立っていたオレを振り返る。
「奢ってやるよ。何がいい?」
何がいいと言われても…。アイスはクリーム系が好きなので、目に入った白いソフトクリーム型のアイスを指差した。
城之内は「オッケー!」と軽く答え、二つのアイスを持って奥に座っていた中年の女性に金を払い、再びオレを連れて店の外へ出た。
その個人商店の脇に伸びていた小道に入り更に進むと、奥に小さな裏山があるのが見えた。入り口に赤い鳥居があるのが見えるから、あれが城之内の言っていた神社なのだろう。
鳥居を潜り、二十段ほどの階段を上がって神社まで行く。周りにうっそうとした木々が生えている為、蝉の声が格段に大きくなった。
目の前に現れたのは、小さな無人の社だった。日陰に入った為にぬるい風も涼しく感じられ、他に人影もいないので落ち着いて過ごせそうだと安心する。
「海馬。こっちこっち」
手招きする城之内に着いていくと、確かに社の裏に小さなベンチが置いてあるのが見えた。
ベンチに座ってはぁ~っと大きく息を吐き出すと、城之内が持っていたビニール袋からガサガサ音を立ててオレのソフトクリームを取り出して「ほい」と手渡してきた。それをありがたく受け取って、透明なプラスチックカバーを外し口を付ける。
その途端、口の中に安いアイス独特の甘さが広がる。だけど少なからず疲労を覚えていたオレにとっては、その甘さが今は一番美味しかった。
シャクシャク音がするので横を見ると、城之内も既にソーダアイスを豪快に囓りながら食べていた。
「アイス、美味いな」
「そうだな」
「ここ、涼しいだろ」
「まぁな」
「オレのお気に入りの場所なんだ」
「そうか」
涼しい風に吹かれつつ、アイスを食べながら短い会話を繰り返す。他に聞こえて来るのは風が木々を揺らす葉擦れの音と蝉の唄だけだ。
「静かだな…」と思わず零すと「そうだな」と笑って城之内が返した。
城之内は既にソーダアイスを食べきってしまい、ベンチに背を預け手でパタパタと己の顔を仰いでいる。オレはそれを見ながら少しずつソフトクリームを食べていたのだが、やがて外の暑さに耐えきれなくなったのか、その形状が少しずつ崩れてきてしまった。
クリームの白い滴が流れ出し、持ち手のコーンの上を辿り、それを握っているオレの手に辿り着いて、まるで汗のようにツツーッと肘まで一気に流れていく。
それに気が付いて慌てて舌で舐めとると、斜めになったソフトクリームから滴がポタポタと零れ落ちた。
「あーあー、お前何やってんだよ」
それを見ていた城之内が呆れたようにそう言って、溶けかかったソフトクリームの上半分を一気に頬張った。「ほら、早く食っちまえ」という城之内に頷いて、オレは慌てて半分になったソフトクリームを食べ始める。
夢中でソフトクリームを頬張っていると、城之内がそれをじっと見詰めてくるのが目に入ってきた。
何だ? もう零してはいないぞ?
そう問いかけるつもりでこちらも視線を合わすと、目の前の城之内がゴクリと生唾を飲んだのが目に入ってくる。
「何だ?」
「何だって何が?」
「今じっと見ていただろう?」
「まぁな」
「ソフトクリーム、欲しいのか?」
「いや別に…。ていうか…クリーム付いてるぞ」
「ん? どこにだ?」
「下唇のとこだけど。あー、いいや。オレが取ってやる」
そう言うや否や、城之内はオレの顔を両手で包み込んだ。汗ばんだ手から体温がじんわりと伝わってきて、それが妙にドキドキする。
高鳴る心臓に全く対応出来ずにいたら、どんどん顔が近付いて来て下唇をベロリと舐められた。そしてそのまま深く唇を合せられる。
「んっ…! んぅ…ん…っ! ぅふ…っ!」
ソーダとクリームが混じったような甘い舌が入り込んできて、アイスのお陰で冷たくなった口の中を好き勝手にまさぐられた。
思わず手先から力が抜けて、殆どコーンだけになったそれをボトリと地面に落としてしまう。それを好都合とばかりに、オレはそのまま目の前の身体にしがみついた。
汗でしっとりと濡れた白いシャツを強く握りしめ、もっと欲しいとばかりに自分から城之内の唇に自らのそれを押し付ける。
一瞬強く風が吹いて、周りの木々がザワザワと音を立てるのが聞こえて来る。蝉の声もどこか遠くなったように感じた。
静かな神社の境内で、舌が絡み合う濡れた音と荒い息遣いだけが耳に入ってくる。
どれ位時間が経ったのだろうか…。城之内の顔がゆっくりと離れていった。全速力で走った直後のようにハァハァと荒く息をし、黙ってお互いを見つめ合う。
まるで口の中に残った味を確かめるように城之内がもう一度生唾を飲み込み、そして口を開いた。
「ソフトクリーム…落としちゃったな…」
「そう…だ…な…」
「勿体無かったな」
「いや…。別に構わない。殆ど食べたし…」
「また今度、買ってやるよ」
「あぁ…」
何だか妙に恥ずかしくて、城之内の顔をまともに見られない。口元に手を当ててベンチの下を見遣れば、落ちたソフトクリームには既に蟻が群がっていた。
地面に広がる白い液体があらぬ何かを想像させて、顔が一気に熱くなる。
今まではこれでいいと思っていた。
好きな人の側に恋人として寄り添って、抱き合って体温を確認して、そして深いキスをして愛を確かめ合える。それで十分だと思っていたのだ。
だがオレは、自分が本当に欲しいものが何かという事に唐突に気付いてしまった。
城之内が欲しかった。彼の全てが欲しかった。身体に纏わり付く全てのものを脱ぎ捨てて、彼と一つになりたかった。
そうか…。オレは城之内に…抱いて欲しかったのか…。
まるで夏の空気のような城之内の熱い掌に肩を抱かれながら、そんな事を考えている自分が恥ずかしくて堪らなくなった。
社の林を涼しい風が吹き抜ける。
だがその風は、上昇したオレの体温を下げる事は一向に出来はしなかった。