本当は今日は学校に行くつもりなど無かった。
午前中から重要な会議があったし、午後は得意先の重役と会う約束があったからだ。
だが昼頃になって先方から、会談予定だった相手が急に体調を崩したと連絡があり、午後の時間が突如空いてしまったのだ。
今の時期は特に業務に追われているという訳でも無かったので、オレは午後から学校に行くことに決めた。
リムジンに乗り込み学校までの道を走らせる。
城之内には今日は学校を休むとはっきり伝えてあったので、オレの顔を見たらどれだけ驚いてくれるのだろうと少しわくわくしながら車を降りると、ウチのクラスが丁度校庭で体育の授業をやっているのが目に入った。
今日の男子の体育はサッカーらしい。
校庭で人一倍元気よく走り回る金髪を発見して、知らず顔に笑みが浮かんだ。
今は外野で試合を見学しているらしい遊戯が「城之内君、頑張ってー!」と大声で叫んでいる。
何人もの生徒が入り交じって試合している中、城之内の姿は良く目立った。
試合自体がもう後半戦なのだろう。
既にバテ始めている生徒が多い中、持久力のある城之内だけが一人元気に動き回っている。
うむ。やはり城之内は他の人間とは一味違うのだ。
それにあの中ではダントツに格好良い!!
太陽の下で汗を流してスポーツをしている城之内の姿に見惚れていたら、向こうもこちらに気付いたらしい。
突然校庭のど真ん中で立ち止まり、オレに向かって手を振り始めた。
いや…。そんな大衆の面前で堂々と手を振られると…少々照れるのだが…。
というか貴様、試合中ではないのか?
ボールに集中しなくてよいのか!?
そんな心配をしていると、案の定どこかの誰かが蹴飛ばしたボールが城之内に向かって一直線に飛んできて…。
オレを含めた全員が「あっ!」という顔をしたその瞬間、ボールは見事に城之内の顔に命中した。
遠く離れたこの位置にまでバンッ! という音が聞こえて来たのだが…大丈夫だろうか?
そわそわしながら動向を見守ると、ボールはゆっくりと城之内の顔から地面に向かって落ちていく。
そして…それと同時に城之内も仰向けの状態で校庭に倒れていった。
そういう訳でオレは今保健室にいる。
倒れた城之内の側に他の生徒や教師と共に駆けつけると、そこには完全に目を回して意識を失っている城之内の姿があった。
担架で保健室に運んでいく最中に教師がオレの存在に気付き「海馬、来てたのか。どうせ途中から体育の授業なんて出ないんだろ? 丁度良いから城之内に着いててやってくれ」と言われたので、こうして堂々と城之内の側に控えているという訳なのだ。
養護教諭は所用があるらしく、城之内に簡単な手当をすると「海馬君が着いててくれるなら安心ね」と笑って言って、その後どこかへ行ってしまった。
怪我した生徒を放ったらかしにして平気で保健室を空けるとは…。
相変わらずこの学校の教師は暢気な者ばかりだ。
まぁ…そこが気に入った…というか、オレにとって都合が良いからこの学校に決めたようなもんだけどな。
開け放たれた窓からは、初夏の気持ちの良い風が入り込んでいた。
靡くカーテンを横目に見ながら、簡易ベッドの上で眠っている城之内の顔を覗き込む。
額に冷却シートを貼って、今は静かに寝息をたてている。
養護教諭は軽い脳震盪だと言っていたが、確かに顔色も悪くないし特に問題は無いだろう。
ふと、城之内が何やら理解出来ない事をムニャムニャと呟いて、それまで閉じていた唇が少し半開きになった。
それを間近で見ていたオレは、唐突にその唇が気になり始めた。
頭の中にあの唇でされたキスの数々を思い出してしまったのだ。
屋上で倒れてしまったあの日から、城之内とオレは何度かキスをしてきた。
流石にもう二度と倒れる事は無かったが、それでも恥ずかしいと思う気持ちは変わらない。
キスをされる度に心臓が早鐘のように鳴り響き、身体の奥がカーッと熱くなって顔が真っ赤になってしまうのだ。
だけどそんなオレを見る度に城之内は笑って「少しでも慣れていこうな」と優しく言ってくれるのだ。
今こうしてその事を思い返すだけでも、顔が熱くて仕方が無い。
だがしかし、オレだって城之内と同じ男なのだ。
いつまでも受け身のままではいられないし、自分からキスをしたいと思う事だって勿論あるのだ。
ただ…あまりに恥ずかしくてそれを実行出来ないだけであって…。
静かな寝息を立てて眠っている城之内の顔を、もう一度見詰めてみた。
試しに肩を掴んで軽く揺すってみるが、城之内が起きる気配は無い。
完全に熟睡している…。
今なら…、今なら自分からキス出来る!!
そう思ったオレは、思い切って自分の顔を城之内の顔に近付けた。
少しずつ少しずつ近付くにつれ、城之内が吐き出す温かな寝息がオレの顔にかかる。
カーッと頭に血が昇るのを感じながら、それでもオレは城之内の唇に触れるだけのキスをした。
柔らかな唇の感触に、頭に血が昇ってくらくらと目眩がしてくる。
恥ずかしいと思いながらも、オレはキスを止める事が出来なかった。
何度かキスを繰り返している内に、ふと…半開きになっている口の中が気になった。
あの口の中って…やはり温かいのだろうか…?
舌とかは…柔らかいのだろうか?
直接自分の舌で城之内の舌に触れられたら、どれだけ気持ちいいのだろうか…?
そこまで考えて、慌てて身体をガバッと起こした。
待て…! 待て! いいから待てオレ!!
今…一体何を考えていた!?
キスだけでも精一杯なのに、オレは今…とんでも無い事を考えてはいなかっただろうか!!
今考えていたのは…、曰くディープキスというヤツだ。
ディープキスといったらアレだ。
自分の舌と相手の舌を絡ませて、直接口の中でこう…○※△■☆●(想像力の限界)するアレだ!!
分かりやすく日本語で言うならば…何だ?
そうだ! ベロチューだ!!
ベ…ベベベベベベロチューッ!?
ベロ…ベロって…お前…っ!
いやお前じゃない、オレか!!
オレは一体何を考えているんだーーーーっ!!
よりにもよってベロチューなど…ベロチューなどぉーーーー!!
「うぉぉーーーっ!! ベロチューーーッ!!」
「ベロチューがなんだって?」
思わず頭を抱えて仰け反って叫んでいたら、オレの叫びに予想外の返答が返ってきて、オレは途端に固まってしまった。
恐る恐るベッドの上に視線を移すと、そこにはすっかり目を覚ました城之内がオレを見詰めていた。
「うわぁっ! 城之内!!」
「何だ海馬? 一人で百面相して面白いな、お前は」
「いや…その…。だ…だだだ大丈夫か?」
「何が?」
「何がって…。お前はその…、校庭でサッカーボールを顔面に受けて脳震盪を起こしてだな…」
「あぁ、思い出した! だからオレ保健室で寝てたのかー。うん、もう平気そうだぜ」
「そ…そうか。良かったな…」
先程のベロチュー発言を何とか誤魔化そうとして、城之内の意識を反らそうとする。
だが城之内はそんなオレに誤魔化されるような男では無く、額の冷却シートを剥がしながら一拍置いて「で、ベロチューッて?」と早々に話題を元に戻してしまった。
「い…いや…、別に何でも…無い…」
「ベロチューしたいの?」
「な、何故それを!!」
「相変わらず分かりやすいなー、海馬」
ベッドの上で半身を起こしつつクックッと可笑しそうに笑って、城之内はオレに手招きをする。
「海馬、おいで」
「な…何だ…?」
「いいからこっちにおいで。ベロチューしよう」
「なっ…!!」
「オレも時期的にそろそろいいかなーなんて思ってたしな。丁度いいだろ。ほら、はやく」
「で…も…」
「大丈夫。何も怖い事はしないから」
ニコニコ笑っている城之内の側に恐る恐る近付くと、腕を掴まれてベッドに押し倒されてしまった。
白い天井を背景に城之内の明るい笑顔が見えて、恥ずかしくなって目をギュッと瞑ってしまう。
城之内の熱い手がオレの額の前髪を掻き上げて、そこにまずチュッと軽くキスをされた。
それだけで心臓がドクンッと跳ね上がる。
次いでこめかみや頬にもキスをされ、やがて唇に柔らかい感触が降って来る。
先程自分からキスした時と同じ感触。だけど全く違う感触。
自分からするのと相手からされるのでは、同じキスでも全然違うのだと思い知らされた。
ふと、自分の唇に温かい濡れた感触を感じて、オレは身体を硬くしてしまう。
城之内に唇を舐められているんだと知って、もうガチガチに緊張してしまいベロチューどころの騒ぎでは無かった。
オレの異変に城之内も気付いたのだろう。
少し身体を離すと、プッと吹き出して笑ってしまっていた。
強く瞑っていた目を開いて城之内の顔を見上げると、彼は少し困ったような笑顔でオレを見ていた。
「海馬…。お前そんなに唇ぎゅうぎゅうに力入れてたら、舌入れられねーよ。少しは力を抜けって」
「む…無理だ…っ!」
「何でよ。ホンット面白いなお前。大丈夫だって言ってるだろ?」
「だって…。は…恥ずかしくて…っ」
「そんな事言ってたら一生何も出来ないで終わっちまうぜ? オレを信じろって。な?」
「う…っ」
「ほら、少し口開けてみな? 大丈夫だから…。ビックリしても噛むなよ?」
言われたとおりに少し口を開けたら、また城之内の顔が近付いて来た。
唇と唇が合わさって、開いた口の隙間からぬるりと熱い舌が滑り込んできた。
それがオレの舌先に触れた瞬間、ビリッとまるで電気が流れるような刺激が背筋に走って、思わず目の前の身体を押し返してしまう。
手を口元に当てて目を丸くしていると、無理矢理引き剥がされた城之内が少し不満そうな顔で頬を膨らませていた。
「ちょっ…! 海馬ぁー頼むよー…」
「な…な…何だ…今のは…?」
「何だって…。ベロチュー?」
「違う…っ! な…何か…今…ビリッとしたぞ」
「あぁ、それかー。オレもしたー」
「今のは…一体…」
「快感でしょ? 気持ち良かったって事だよ」
城之内が起き上がりかけていたオレの身体をもう一度ベッドに縫い付けて、再び顔を近付けてくる。
「じ…城之内…」
急に不安になって小さく呟くと、城之内が安心させるような顔で優しく微笑んだ。
「大丈夫だってば。怖くないよ。気持ち良かったでしょ?」
「だ…だが…」
「もう一度、ちゃんとしようよベロチュー。オレはしたいなぁー」
「うぅ…」
「海馬もしたいだろ? な?」
軽く首を傾げてそんな事を尋ねて来る城之内に、オレが反論など出来る筈も無く。
ゆっくり頷くと満足そうな笑みを浮かべ、城之内が再びオレに口付けてきた。
少し開いた口の隙間から入り込んできた熱い舌に、オレはビクリと身体を震わせてしまう。
だけど城之内はキスを止めようという素振りを見せず、それどころかオレの抵抗を封じる為に両腕をシーツの上に押さえ込んでいた。
オレの口の中で城之内の舌が暴れている。
歯列をなぞり口蓋を舐められて、奥に逃げていた舌を引き摺り出されヌルリと絡め取られてしまう。
「んっ…。んんっ…! んふっ…ぅ…っ」
ビリビリとした電気は背筋を中心に脳天から爪先までを行ったり来たりして、その度にオレの身体はシーツの上で小さく跳ねていた。
気持ち良くて、でも上手く呼吸が出来なくて苦しくて。
酸素が足りないのか、はたまた手首を強く城之内に握られているせいか、手の指先がだんだんと痺れてきていた。
溢れる唾液を飲み込む事が出来なくて、自分のか城之内のか分からないソレが口の端からトロリと零れ落ちる。
視界が唐突に歪んできて、泣きたくも無いのに涙がポロポロと流れて止まらなかった。
やがてどれくらい時間が経ったのだろう。
城之内が漸くオレの身体から離れて行った。
感覚では一時間以上そうしていた様な気もするし、ほんの十数秒程度の出来事だったような気もする。
オレの口から零れた唾液を親指で拭いながら、城之内は少し心配そうにしながら「大丈夫?」と聞いてきた。
それにコクリと頷く事で答えを返すと、心底嬉しそうに微笑まれた。
「良かった。で、どう? 気持ち良かった?」
「気持ち…良かった…。でも…苦しかった…」
「あはは! そりゃーお前、ちゃんと鼻で息しないからだよ。キスしてる最中でも、鼻で息していいんだからな?」
未だ痺れている手をベッドについて何とか上半身を起こす。
滲んでいる涙を手で拭っていると、城之内にそっと優しく抱き締められた。
「ごめんなー。泣かしちゃったなぁ」
「いや…。別に嫌では無かったからいい。これは勝手に出てきた」
「ホントに? 大丈夫?」
「あぁ」
はっきりと強く頷くと、城之内が漸く安心したように溜息をついた。
「それじゃ、これからもこういうキスしてもいい?」
「あぁ、勿論だ」
こういう事は曖昧な返事をしてはいけない。
オレ自身もまたして欲しいと思ったので、ここはきっぱりと返答した。
それに…凄く気持ちが良かったしな。
死にそうな程恥ずかしかったけれど。
その後すっかり回復した城之内と本日最後の授業に出て、放課後は一緒に帰った。
今日は夜にバイトがあるんだと言って邸近くの交差点で別れた城之内を見送ってから、オレは「しまった!」と心の中で小さく呟く。
先程の保健室で『これからもこういうキスしてもいい?』と尋ねてきた城之内に、「してもいいがお手柔らかに頼む」と言うのを忘れていたのだ…。
次にあのキスをされる時も、あんな全力で来られたらオレはきっと耐えられない…。
今日は何とか耐えられたが、一回経験したものを二度目にするとなると異様に緊張してしまうのは、この間屋上で倒れた時に学習済みだ。
「参ったな…」
初夏の夕暮れの交差点で一人棒立ちになりながら、オレはすっかり先行き不安になってしまっていた。
まぁ…幸せだから…いいけどな。