その日の朝は、今までに感じた事が無い位幸せな気分で目覚めた。
昨日の放課後、オレは城之内に抱き締められて人生で初めてのキスをした。
奴と恋人として付き合う事になって一ヶ月以上経って漸く進めた一歩だったが、その一歩がどれだけ嬉しかったか分からない。
目が覚めてもオレは暫くベッドから起き上がる事が出来なかった。
掛布の中にくるまって、暗闇の中でそっと自分の唇を指で撫でる。
この唇に…昨日…城之内の唇が直接触れた…。
ギュッと強く抱き締められて…城之内の匂いを感じて…キスをされた…。
今日は午前中にどうしても抜けられない会議があるから、早めに起きて会社に行かなければならない。
サイドボードに備え付けられているデジタル時計の数字は、もう起床しなければいけない時間をオーバーしていた。
だけどオレはベッドから出る事が出来なかった。
ずっとこの余韻に浸っていたかったのだ。
結局いつまでも起きてこないオレを心配したモクバが直接部屋に訪れるまで、オレはそうしてベッドの中で幸せな気分に酔いしれていたのだ。
もしかしたら体調が悪いのでは無いかと心配するモクバに、オレは「いや、大丈夫」と笑って答え会社に行く事にする。
海馬コーポレーションの社長として、私情で仕事を疎かにする訳にはいかないのだ。
それに社長が仕事そっちのけで恋愛にのめり込んでみろ。それこそ社員に示しが付かない。
そう心に強く思ったオレは、何とか会社にいる間は頭の中から城之内の幻影を追い出そうと躍起になった。
元々が仕事人間だから会議の間はそちらに集中出来たし、新しい企画も興味があったので暫くは城之内の事は思い出さずに済んだ。
だが会議が終わり一人で社長室に戻った時、唐突にあの明るい笑顔を思い出してしまったのだ。
城之内の顔を思い出すだけで、心臓が痛い程に激しく鳴り響く。
あの熱っぽい腕がオレの身体を抱き込んだ事と、その時感じた彼の体臭と、そしてその後のキスの事と…。
思い出すだけで顔がカーッと熱くなる。
今日は午後から学校に顔を出す予定だった。
だがこんな状態で城之内に会えるのだろうか…?
むしろ何の進展も無い事に落胆しながらも平気で城之内に会えていたあの一ヶ月が、懐かしく思える程だった。
とりあえず熱くなった顔を何とかしようと、オレは社長室に隣接している化粧室に顔を洗いに行く事にする。
洗面台の冷たい水で顔を洗うと、それで少しはサッパリしたような気がした。
持って来たハンドタオルで顔を拭こうと鏡を見上げた時、そこに知らない自分の顔が写っているのに気がついた。
前髪が水で濡れて額に張り付いている。
冷たい水で顔を洗ったのにも関わらず、頬はピンク色に紅潮していた。
自分の青い瞳がぼんやりと潤んでいて、唇が妙に紅く腫れぼったくなっている。
そっと濡れた指先で紅い唇をなぞった。
この唇に…城之内が…キスをした…。
キスをされた時の感触を思い出すように、そっと指先で唇を押す。
その途端自分の顔がより赤くなった。
潤んだ目がトロンと下がり、顔全体が蕩けるような表情になる。
だが、その顔を見てオレは一瞬で思考が平常時に戻った。
おい…ちょっと待て。
オレは…オレは…っ。
もしかしてオレは、昨日こんな顔を城之内に見せていたのか…っ!?
慌てて持っていたハンドタオルで顔を強く拭いて、今までの顔を消し去ろうとした。
有り得ない…、有り得ないぞ…っ!
この海馬瀬人とあろう者が、よりによってあんな顔をするなんて…っ!!
水気を拭った顔を左右にブンブンと振る。
いくら城之内が好きだからと言って、あの顔はダメだ…っ!
あんなみっともない顔をしていたら、いつか城之内に愛想をつかれてしまう!
もっとクールに!! クールにいかねば!!
そうでなければ海馬瀬人というイメージが即壊れてしまう…っ!!
オレは意識して普段通りの硬い表情を作ると、鏡の中の自分に頷いた。
よし。これでいい。
これで城之内との付き合いも円滑に行なっていける。
そう強く心に念じた。
…と、数時間前に会社で強く念じた顔は、今にも崩れ落ちそうになっていた。
午後から学校に顔を出したオレは、今屋上で城之内と二人で昼食を取っている。
オレはシェフが作ってくれた栄養満点の弁当、城之内は購買で買ってきたパンを食べていた。
既に成長期が終わっているオレと違って、城之内はまだ背が伸びる可能性が残っている。
しかも体力勝負のバイトをしているせいで筋肉がしっかりとついて、ひょろひょろと背が高いだけのオレとは違って随分と男らしい逞しい身体付きをしていた。
そんな身体を持っているくせに、そんな炭水化物ばかり食べて…。
コイツにはもっと栄養を取らせないとダメだと思ったオレは、自分の弁当の中からいくつかおかずを分け与えていた。
「このハンバーグもやる。食べろ」
「え? いいの? さっき唐揚げも貰っちゃったんだけど」
「構わない。野菜も食え。このニンジンのグラッセとほうれん草のソテーは逸品だぞ」
「お! 美味そうだな。じゃありがたく頂きます」
弁当の蓋に載せて渡してやったおかずを、オレから借りた箸で美味そうに食べている。
購買のパンを食べていたコイツは勿論箸なんて持っている筈もなく、最初に上げた唐揚げは指先で摘んで食べていたのだ。
だがそれじゃ余りにもみっともないと思ったオレは、自分の持っていた箸を貸してやる事にしたのだ。
他人から借りた箸だからてっきり箸をひっくり返して後ろ側を使うのかと思っていたのに、城之内はそのままの状態で箸を持ち、そしておかずを摘んで口に放り始めた。
ていうか…、あ…ちょ…ちょっと待ってくれ…っ。
その箸はオレが今まで使っていた箸であって…。
その箸の先は先程までオレが自分の口の中に入れていたものであって…。
あぁっ! 箸をそんな口の奥の方まで入れないでくれ…っ!!
間接キスになってしまうだろぉー!!
そんな事を考えてしまって一人でわたわたしていたら、あげたおかずを全部食べた城之内がずいっと箸と蓋をオレに返してきた。
「美味かったぜ! ごちそーさん!」
「あ…あぁ…」
手渡された箸を狼狽えながらも受け取り、自分の食事をする為に御飯を一口分すくって持ち上げた。
こ…この箸の先端が…、今の今まで…城之内の口の中に…っ。
震える手で何とか御飯を口まで運ぶ。
こんなに緊張しながら物を食べるのは初めてだった。
先程までの光景をなるべく考えないように無心に弁当を食べていたら、ふと横にいた城之内がオレの顔を凝視しているのに気付いた。
「なんだ…?」
「あぁ…うん。お前でもそんな事すんだなぁーって思ったら、何か可愛くなっちゃって」
「は?」
「いいから。ちょっと顔貸して」
何を言われているのか分からなくてそのままじっとしていたら、すっと城之内の手がオレの口元に伸びてきて何かを摘み取った。
「ほら、御飯粒。付いてたぜ」
そのままニッコリと笑うと、摘んでいた御飯粒をそのまま自分の口に持って行ってパクリと食べてしまった。
な…っ!
ななな…っ!!
なななななな何て事を…っ!!
余りの事にパニック状態になり真っ赤になって口をパクパクしていたら、そんなオレを見て城之内が笑う。
「あ、赤くなってら。お前…本当に可愛いなぁ…。キスしちゃお」
すっかり固まってしまったオレに、城之内がゆっくりと近付いてきた。
城之内の精悍な顔が少しずつ大きくなっていき、やがてその顔が視界一杯に広がった辺りでオレは耐えきれなくなって目を瞑ってしまう。
そして暗闇に閉ざされたその世界の中で、熱を持った手がオレの頬に添えられるのを感じた。
………。
……。
…。
ふにゅ。
…。
……。
………暗転。
唇に柔らかい感触を感じた瞬間、頭の中がスパークしてしまったオレは耐えきれなくなって昏倒してしまった…。
気がついたらそこはまだ屋上で、城之内の膝に頭を載せる形で横になっていた。
視線を上に上げると、心配そうな顔をして覗き込んでいる城之内と目が合う。
「あ、起きた。大丈夫か?」
小さく呟かれたその声に、オレは慌てて起き上がって周りを見渡した。
仰向けで寝ていたオレが眩しくないようにしてくれたのだろう。
いつの間にか給水塔の影に移動していて、傍らには布巾に包まれた弁当箱が置かれていた。
学校全体が余りに静かなので腕時計で時間を確認すると、もう既に午後の授業が始まってしまっている時間だった…。
「す…すまない…」
自分の失態に目の前が真っ暗になって思わずそう謝ると、目の前の城之内は優しそうに微笑んで首を横に振った。
「いや、別に全然構わないよ」
「だが、もう授業が…。オレのせいで出られなくなってしまって…」
「別にー。授業サボるなんてオレにとっちゃいつもの事だし。それより何より、授業に出るなんて事よりもっと貴重なものが見られたしな」
「………?」
「お前、凄かったぜー。倒れる直前なんて顔真っ赤っ赤でさ。これが漫画だったら絶対顔から湯気出てたぜ」
「なっ…! なななっ…!」
「ホンット可愛いなぁ…。キスなら昨日一度したじゃん。何でそんなに緊張しちゃったのよ」
パニックに陥りかけた頭を深呼吸をする事で何とか落ち着かせたオレは、城之内の質問に答えるべく口を開いた。
「それは…その…。意識する前とした後では…違うというか…。一度経験してしまったら…余計に緊張するというか…」
「あぁ、なるほど! それなら分かるぜ。オレもさっきお前にキスする時、昨日より緊張してたかもしれない」
城之内の言葉を聞きながら、オレは内心で「嘘付け」と思っていた。
何が緊張していただ。
あんなに自然にキスしてきおってからに。
想いの強さはオレの方が強い筈なのに、どうしてコイツはこんなにオレを翻弄するのが上手いんだ…と思わずにはいられなかった。
頭の中でだけで呟いていたと思っていた台詞が、どうやら口からも出てしまっていたらしい。
オレの方を暫く凝視していた城之内が、やがて少し困ったように笑って言った。
「ゴメンな。まだオレの方はお前の気持ちに追いつけて無いって思うけど…。でも、お前の事が好きだっていう気持ちは本当なんだ。好きだよ、海馬。大好き」
両耳から入って脳内に届いたその台詞に身体全体が熱くなる。
それによってまた意識が遠くなってグラリと傾く身体を、城之内が慌てて支えて何か叫んでいたが、それに応えることも出来ずにオレは再び意識を閉ざした。
意識を失う寸前に、オレはいつか城之内に殺されるんじゃないかと何となく思ってしまった。
ったく…。これじゃ命がいくつあっても足りやしない…。