その後も杏子と海馬の中はすこぶる良好だった。
何だかもう旧来の親友のように過ごす二人の姿に、オレ達もようやくその状況に慣れてくる。
海馬の方も少しずつ変化が見られてきた。
まず最初に気付くのは声の高さ。遊戯の質問に答えていた時「徐々に高くなる」と言っていたが、その言葉通り海馬の声はテノールからアルトになった。
それから身体の丸み。前は男らしい鋭敏な印象のある身体付きをしていたが、今はどんどんと女性らしい丸みを帯びたものになっていく。
今や海馬が女である事に、誰も疑問を持たなかった。ピンクのブレザーも短いスカートもすっかり見慣れてしまい、学ランを着ていた頃の奴を思い出すのに苦労する位だった。
ある日の朝、何時ものように登校すると、杏子が海馬の手をとって何かやっていた。
気になって手元を覗き込むと、杏子が顔を上げて微笑んだ。
「なぁに城之内。気になる?」
杏子の言葉に漸くオレに気付いたのだろう。海馬も首を捻って後ろに立っているオレを見つめてきた。
「爪を磨いてあげてるのよ。海馬君ったらせっかく綺麗な指先してるのに無頓着なんだもん。女の子なのに勿体ないわ」
そう言うと「ほら」と言って海馬の手を持ち上げて見せた。
オレはその手を掴んで顔の前に持ってきてマジマジと見つめる。杏子が磨いた海馬の爪は、まるで光るマニキュアを塗ったかのようにピカピカに光っていた。
「へー、綺麗だなコレ」
「でしょう? 海馬君の爪って細長くていい形してるから、磨きがいがあったわ~」
偉そうに胸を反らしている杏子を余所に、オレは親指から小指までじっくりと眺める。
バイトバイトで荒れまくってささくれ有りまくりのオレの指とは違って、コイツの指は本当に綺麗だ。
爪だけじゃ無くて手の甲も綺麗だった。真っ白で血管が青く透けて骨が筋張ってて、「手のモデルってこんな感じ?」とか思いながらひっくり返す。
柔らかい掌は染み一つ無くて、ほんのり温かかった。
そういやコイツ人より体温低いんだなーとか思いながらすべすべの手の甲や指を撫でていると、「城之内、城之内」と杏子に呼びかけられる。
「何だよ、今いいところなんだから」
「いいところなのは構わないけど、そろそろ手を離してあげて? 海馬君困ってる」
「んぁ?」
一瞬何を言われたか分からなくて顔を上げると、まず苦笑している杏子の顔が飛び込んできた。次に真下に視線を向けると、真っ赤な顔をして眉根を寄せいかにも「困っています」という顔をした海馬と目が合った。
うわ、可愛い…そんな表情もいいな…。とそこまで思って、オレは漸く自分が今まで何をしてきたのか思い当たった。
「うわっ! ゴ、ゴメン!」
慌てて手を離すと、海馬は真っ赤な顔のまま無言で手を引き戻した。
その途端オレは自分の目に入ってきたものに過敏に反応する。引き戻された手をもう一度掴んで、袖を引き上げよく見てみた。
白い透けるような海馬の手首にある、そこに不似合いなどす黒い…痣…。
「海馬…? コレどうした?」
「な、何でもないっ」
慌てて俺の手から自分の手を引きはがすが、オレは更に目聡く見つけてしまった。膝小僧や腿にも青痣がある事を。
オレの目線に気付いた海馬はスカートの裾を引っ張って必死で隠そうとする。
「こ、これは…転んだんだ。女物の靴に慣れてなくて…」
言い訳としては充分だけど、海馬の目がそれを否定している。
そういえばコイツって、前々から嘘の吐けない奴だったっけか。
「城之内…?」
「杏子、悪いけどコイツちょっと借りるぜ。何もしないから大丈夫。ちょっと話しするだけだよ」
心配そうにしている杏子に安心させるように笑いかけると、オレは海馬の手を取って奴を立たせた。
オレの目を見て信じてくれたんだろう、杏子が静かに頷いた。
「一時限目始まるまでには戻ってくるから」と言い残し、オレは海馬を連れて屋上に向かった。
屋上は朝日で満ち溢れ、少し冷たいが爽やかな風が流れていた。
「な…何なのだ…突然…っ!」
少し急ぎ足で引っ張ってきたせいだろう。息を切らした海馬がオレの事を睨む。
残念だけどそんな目をして睨んでも怖くも何ともないんだよなぁ…と思いながら、オレはなるべく真面目な声を出した。
そうしないとコイツも真面目に答えてくれないだろうと思ったから。
「海馬、正直に答えろ。その痣、ただ転んだだけじゃそんなに酷くはならないぜ」
「…っ。こ…これは…」
「海馬!」
言い訳は許さないという思いを込めて見つめると、海馬は漸く観念したかのよう項垂れた。
「これ…は…突き飛ばされたんだ…。この間の海馬ランドの視察の時に、中央広場の大階段の上から…」
何度か海馬ランドに皆で遊びに行った事もあるから、中央広場の大階段ならオレも知っている。結構大きめの階段で、段差もあるから高さもそれなりにあるヤツだ。
「あんなとこから突き飛ばされたのか…っ!? お前よく無事だったな」
「伊達に身体を鍛えてはいない。何とか受け身を取れたから骨折は避けられたが…」
そこまで言って黙ってしまう。そして徐に長いソックスを下げ始めた。
そこに現れた酷い痣にオレは息を飲んだ。
ブレザーを脱いで袖を捲ると、腕にも痣がいくつもあった。
「この間だけじゃない。このところよく突き飛ばされたり、引き摺られたりして転んでいる。それだけならまだしも、最近は道をあるけばよくゴロツキに絡まれたり、車に轢かれそうになったりと忙しない」
ふぅと軽い溜息をつきながら何でもなさそうに言うが、オレはとんでも無い事態に陥っている事を感じていた。
「お前…それって狙われてるんじゃね?」
「どうやらそのようだな」
袖を元に戻し、下げてた靴下も上げながら海馬が答える。
「どうやら女に戻った事で周りに舐められ始めたらしい。直接命を狙ってくる事は無いが、それでも大けがでもさせて表舞台から引き吊り降ろしたいんだろう。魂胆が見え見えなのだ」
ブレザーを着込んで「フン」と面白くなさそうに鼻を鳴らす。そこでオレはまた気付いてしまった。
「そういや海馬、お前最近リムジンで通学してねーじゃん」
「あぁ…。せっかく女に戻ったのだから、普通の学生生活ってヤツを送ってみたくてな」
いかにも「悪いか?」という顔で見つめられる。
いや悪くは無いが、お前のネームバリュー考えたらすっげー危険なんだと思うんだけど。
悪い事言わねーからリムジンで移動しろって言ったオレに、海馬は首を振って否定した。
「こればっかりは譲れない」と頑固に言うもんだから、オレもちょっとイラッて来てしまう。
コイツ…、自分の身がどれほど危険に晒されているか全然分かって無いだろう…。
かと言ってコイツを甘やかしていても海馬が狙われ続けるのは変わらない訳だから、ここでオレは一つ提案をする事にした。
「わかった。もう車通学はいいから、誰かボディーガードに付き添って貰えよ」
驚いた事にその提案についても、海馬は異を唱えた。
「嫌だ。何故普通の女子高生が黒服のボディーガードと並んで歩かなくてはいけないのだ!」
「お前は普通の女子高生じゃないだろ!? 自分の身が狙われてるってホントに分かってんのかよ!!」
「嫌と言うほど分かっている! 心配せずとも自分の身ぐらい自分で守るわ!!」
「守れてねーからそんなんなってんじゃねーのか!!」
久しぶりに大声で喧嘩したオレ達は、ハァハァと肩で息をする。
たくっ! コイツ本当にとんでもねーヤツだ…! だからと言ってこのままにするつもりもないオレは、海馬が嫌がるあの指差しポーズでビシッと言ってやった。
「よーし分かった! ならオレがお前のボディーガードになってやる!! 朝と夕方の通学はオレを連れて歩け!! 言っとくがこれ以上は譲る気ないぞ!!」
絶対反論が返ってくる。そう思って身構えたが、反論は一向に来る気配が無かった。
それどころか今オレの前にいるのは、顔を赤くして棒立ちになっている海馬の姿。
「貴様…それは…本気か…?」
指差しポーズを言及するどころか、少し戸惑った風に訪ねてくる海馬に、オレは思いっきり首を縦に振ってやった。
「男に二言はねーぜ!」
「朝と…夕方も?」
「おうよ! 朝は新聞配達終わったらその足で海馬邸行ってやる。帰りもちゃんと送り届けてやるよ」
その答えに海馬は少し考えて、コクリと頷く。
「わかった。ではそれでいい。お礼に朝食くらいはご馳走してやろう」
海馬が何時も通りの高飛車な物言いで言った時、オレ等の耳に予鈴が鳴り響いたのが聞こえてきた。
慌てて二人して屋上から階段を駆け下りるが、その時オレは確かに見てしまったのだ。
妙に嬉しそうな…いや幸せそうな顔をしている海馬の顔を。