真っ暗な風呂場で、それでも何とか手探りでシャワーのコックを見つけ出して温かなお湯を浴びた。この所何回かこの風呂を使わせて貰っているから、どこに何があるのか大体分かっていたのでそんなに苦労はしない。冷えた身体が芯から温まっていくのを感じて、ホッと息を吐き出す。粗方身体が温かくなったのを確認して、湯を止めて風呂場を出た。
備え付けられていたバスタオルで身体を拭きながら居間の方の様子を探るが、どうやら城之内はそこにはいないらしい。外はまだ酷い雷雨で窓には時折閃光が走り、それに続いて轟音が鳴り響く。
電気はまだ…復旧していないらしかった。
身体の水気を拭い取り城之内に押し付けられた幅広のバスタオルを羽織って居間に戻る。懐中電灯を照らしてみても、城之内はそこにはいなかった。
(どこに…行ったのだ…?)
キョロキョロと辺りを見回していると、ふと懐中電灯の明かりの先にあの小さな城之内の姿が照らし出された。
(かいば。こっち…。こっちだよ)
小さな城之内が指差すのは、居間から続く襖の向こうだった。
その襖の先にあるのがどんな部屋なのか、オレはよく知っている。そこは城之内の私室だ。四畳半の狭い畳の部屋に古めかしい箪笥と本棚と机が置いてあって、いつ干したのか分からない煎餅布団がいつでも敷かれている。その布団の上でオレは何度も城之内に犯されていたから、部屋の構造はもうしっかりと目に焼き付いていた。
小さい城之内はオレと目が合うとにっこりと笑い、そして襖の向こうにスッと消えていった。オレもその後を追って襖に手を掛け、それをゆっくりと横に開く。
真っ暗な部屋の中に懐中電灯の明かりを当てると、煎餅布団の上で足を抱えて丸くなっている城之内の姿が見えた。オレが来た事に気付いているくせに、膝に埋めた顔を上げようとはしない。仕方無く「何しているんだ」と声をかけると、漸くピクリと反応した。
「お前こそ…何してるんだよ」
「何とは?」
「帰れって言ったじゃんか。何でわざわざオレの事待ってたりしたんだよ。ここに来れば何されるか分かっているんだろ」
「あぁ、分かっている」
「何で逃げないんだよ。何でわざわざ近寄って来るんだよ。そんなんだからオレに好き勝手にされるんだよ」
「…そうだな」
「でも…。もういいから」
「…ん? もういいとは…?」
「もういいんだよ。オレさ、お前の身体弄ぶのも飽きちゃったんだよね。だからもうオレに構う事ないぜ。明日になったら迎えを呼んでさっさと帰りな」
そう言って城之内は何かを投げて寄越した。足元に転がったそれを懐中電灯で照らして確かめてみると、それが城之内の携帯電話である事に気付く。拾い上げて開いてみると、そこに映し出されていたのは、あの体育館の用具室で撮られたオレの画像だった。
「これは…?」
「それ、もう必要無いからさ。お前の手で消しといてくれよ」
「城之内…」
「良かったな。これでもうオレに脅される事も無いぜ。あとは煮るなり焼くなり勝手にしな。お前の気が済むようにすればいいさ」
「オレはそれでいいとして…、お前はそれでいいのか? 城之内」
「別に? オレはあんだけの事してんだから、何の文句も言えないしな。お前の好きにすればいいんだよ」
城之内は相変わらず膝に顔を埋めたまま、ただ淡々とそうオレに告げる。だけどオレは気付いていた。
声が…震えている…。
携帯を持ったまま城之内に近付いて行くと「近寄るな!」と鋭い牽制の声があがった。そんな事を言われても、オレはそれに従う道理は無い。そのまま城之内の側まで近寄ってしゃがみ込んだ。そして膝を抱えている城之内の手を取って、持っていた携帯電話を無理矢理押し付ける。それに驚いたように、城之内が漸く顔を上げた。戸惑うように揺れる琥珀の瞳を見詰めながら、オレも視線の高さを合わせる。
「なんだよ…っ!」
「お前はオレに勝手にしろと言った。だから勝手にさせて貰う。携帯の画像を消せと言ったな?」
「あぁ。だから消せばいいだろ」
「嫌だ、断わる。これはお前の携帯だ。消したければお前が勝手に消せばいい。オレは知らん」
「な…何で…っ。何考えてんだよお前!!」
「朝日が見たい」
「は………?」
「お前はもう朝は来ないと言った。オレとお前の関係に夜明けが来る事は絶対にない…と。だけどオレは知っている。朝が来ない夜なんて無い。夜明けは必ず来るのだ。だからオレは朝日が見たい。お前と一緒に…朝日が見たい」
「海馬…。お前、何言って…」
城之内の質問には答えずに、手をあげてその頬にそっと触れた。城之内がビクリと震えて少し後ずさったのが分かったが、それでもオレは手を引っ込める事はしない。そのままもう片方の手も頬に当てて顔を覗き込んだ。
城之内の目は怯えていた。
あんなに今まで好き勝手放題にオレを嬲っていたというのに、間違い無く今の城之内はオレに怯えていたのだ。
いや…、正しくはオレに怯えている訳じゃ無い。城之内が怯えているのは、今まで自分が犯してきた罪に対してだ。
罪に怯え、後悔に震え、その対象であるオレを怖がっている。
その震えを何とか止めてやりたくて、オレは羽織っていたバスタオルをその場に落とし一糸纏わぬ姿になると、緩やかに城之内を抱き締めた。
「なっ…! な…に…っ!?」
「黙っていろ」
怯えて抵抗する城之内をギュッと抱き締める。そして着ていたTシャツを裾から捲って無理矢理脱がせた。次いでハーフパンツに手を伸ばし、前部のボタンを外しファスナーを降ろす。下着毎掴んでずり下ろし、足から引き抜いた。
「ははっ…。何だよ…。オレをヤルつもりか…?」
城之内が自嘲気味に笑って震える声でそう言ったが、オレはそれに応えずに裸にした城之内をそのまま布団の上に押し倒した。そしてそっとその頭を胸の内に抱え込んだ。一瞬逃げだそうとするのを許さずに、自分の胸にギュッと城之内の頭を押し付ける。心臓の音を聴かせる為に、左胸を城之内の耳に押し当てた。
途端に、城之内が大人しくなった。逃げる事を諦めたかのように、そのままズルリと力を無くしてオレに凭れ掛かる。その身体を支えて、オレも布団の上に横になる。安いシャンプーの香りがする髪に口付け、そっと掌を城之内の首筋に這わせた。
安心させるように何度も首筋を撫でる。もう片方の手もその広い背に回し、背筋にそって優しく撫で回した。
「はぁ………っ」
城之内が熱い吐息を吐き出して身動ぎをする。それに合わせてオレも身体を動かして、更に深く城之内を抱き込んだ。二人が動く度に布団のシーツが乾いた衣擦れの音をたてる。
周りは驚くほど静寂に満ちていた。
外界は真夏の大嵐で大粒の雨は激しく窓を打ち、時折空に閃光が走っては轟音が鳴り響く。
だけど…部屋の中は異常な程に静かだった。聞こえるのは二人の人間がたてる衣擦れの音と、吐き出される熱い息遣いだけ。
「何で…こんな事するんだよ…」
窓を叩き付ける激しい雨の音に紛れて、城之内がボソリと呟いた。
オレはそれにクスリと笑って答えを返す。
「始めに言っただろう…? オレはお前が好きだ。だからお前の為に何かしたいと思っただけだ」
「本当に大馬鹿野郎だな…お前は。オレはその想いを裏切ったんだぜ」
「裏切られたなんて思っていないぞ」
「裏切っただろ…っ!」
「別にお前は裏切っていないし、オレも裏切られたなんて思っていない。あの時のお前は、オレにああいう事をする以外に道は無かったんだ」
「っ………!」
「だからそんなに怯えるな…。震えるな…。オレはちゃんとここにいる。どこにも行かないから…」
荒れた金髪を優しく撫でると、窓の外に閃光が走る。その一瞬の光で、オレの胸に顔を埋めている城之内の表情が泣きそうに歪んでいるのを見てしまった。涙は相変わらず流れてはいない。城之内が本当に泣けるには、どうやらまだ何かが足りないようだ。
だけど今は…これでいい…。
明日から泣ければ…それでいい。
涙を流さず笑みさえ浮かべて心の中だけで泣く夜は、今日で最後にしよう…。
城之内の震えは止まらなかった。自分が犯した罪と、それに対する後悔と恐怖でガタガタと震えている。だけどその震えている手がそっと動いて、オレの背に回ってしがみついた。指先も震えている。だけどその手はそこから離れる事は無かった。
だからオレもその震える身体を力強く抱き締めた。
城之内の耳元に何度も「好きだ」と囁く。
「好きだ…城之内」
「………」
「愛している」
「………」
「この気持ちは本当だ。だからオレを疑うな」
「………」
「オレはどこにも行かない。ずっとお前の側にいる」
「………」
「だからそんなに怯えるな…。オレを…怖がらないでくれ…」
「………」
「もう…安心していいんだ」
金色の前髪をかきあげて、現れた額にそっとキスを落とした。
一つ…二つとキスをして、そのまま唇を下げていく。閉じられた瞼に唇を押し当て、震えるこめかみにもキスをし、掌で包み込んだ頬にも口付けた。
城之内が少しでも安心出来るように顔中にキスの雨を降らし、そして引き結んだままの唇にゆっくりと自分の唇を押し付ける。震える唇を覆うように何度も何度もキスを続けた。
嵐は一向に収まる気配を見せない。
相変わらず激しい雨が窓を叩き、暗闇の中に閃光が走り次いで轟音が鳴り響き窓を揺らす。
チラリと確認した壁の時計は夜の十二時を指している。
電気は未だに復旧せず、停電の続いているこの部屋は漆黒の世界だった。
この異常な程の静かなこの世界の中で、オレは確かに城之内を抱いていた。
性的な接触は一切無い。あるとすれば何度も落としているキスだけだろう。あとは首筋や背を優しく掌で撫でているだけだ。
それでもオレは城之内を抱いていた。そして城之内は黙ってオレに抱かれている。
彼の体温を、彼の息遣いを、彼の鼓動を、全てをこの身に受け止めて、そして彼自身を愛した。
「好きだ、城之内。愛している…」
この気持ちを知って欲しかった。信じて欲しかった。
震え続ける身体を抱き締めながら、オレは強く誓った。
「城之内、愛している。永遠に…お前だけを愛している」
これがオレの本当の気持ちなんだと、そう知って貰う為に。
窓の外に一瞬白い閃光が走り、次いで空を引き裂くような雷鳴が鳴った。
大粒の雨は激しく窓を打ち、今の轟音で窓ガラスがビリビリと震える。
それでも静かなこの部屋で、オレ達はただ抱き締め合っていた。
互いの体温を感じながら、ただ…静かに。