激しい雨に打たれながら、全身ずぶ濡れの城之内が呆然とオレを見ていた。
多分「来なくていい」と伝えたオレがこの場にいるのが信じられなかったのだろう。
だけどオレはこのまま帰る事なんて出来なかった。あの空き教室から出る寸前の城之内の顔が脳裏にこびり付いている。何かを言い出したくて、でも何も言えなかったその顔が、オレには助けを求めたくても求められないように映ったのだ。
あんな状態の城之内をそのまま放っておく事なんて出来はしない。
そう決めたオレは、学校を出てそのままここまで来てずっと待っていたのだ。
濃い雨雲のせいでまるで真夜中のように真っ暗になった世界で、街灯に照らされた城之内がギリッとオレを睨んだ。そしてそのままこちらまで近寄って来る。そして目の前まで来ると、今まで聞いたことも無いような低い声で「海馬」とオレの名前を呼んだ。
「何でこんな所にいるんだよ。来るなって言っただろ」
「来てはいけなかったのか?」
「いけないとかいけなくないとか、そういう問題じゃない! お前、オレのところに来れば何されるか分かっているんだろう!?」
「分かっている。だがそれは、オレがここに来てはいけない理由にはならない」
「っ………! 何言ってんだよ…っ! ホント大馬鹿野郎だな、お前は…っ」
「放っておけなかったんだ」
「………。何が…」
「お前が…だ。今夜は一人にさせたくなかった」
「何でだよ。親父の事でお前まで心配してるのか?」
「それもあるが、オレが心配してるのはお前の事だ。城之内」
「………っ!」
「全てにおいて…今のお前は放っておけないのだ。一人にさせたくない」
「………。お前には…関係ねーよ…。いいから帰れ」
「嫌だ」
「帰れよ…っ」
「嫌だ」
「帰れって言ってんだろ…っ!!」
城之内が大きく叫んで、びしょ濡れの冷たい手でオレの腕を掴んだ。そしてそのまま外に引き摺られ、地面の上に投げ出される。アスファルトの窪みに出来た水溜まりの上に倒れ込み、泥水で白いカッターシャツが茶色く染まっていった。
雨は激しく、全身を打ち付ける雨の粒が痛い程だった。耳元で聞こえるザーザーという雨音が酷く煩い。
水溜まりに半分浸かったまま上半身を起こし、目の前に立っている城之内を見上げる。降ってくる雨粒に邪魔されてその顔は良く見えない。それに城之内も既にずぶ濡れになっていて、顔に落ちる長い前髪が完全にその表情を覆い隠してしまっていた。
「城之内…」
それでも雨の音に負けないように声を張り上げて名前を呼ぶと、城之内がピクリと反応した。緩やかに片足が上がってオレの胸元を蹴ってくる。本気で蹴られている訳では無いので痛くは無かったが、反動で再びアスファルトの上に転がった。
「帰れよ…」
雨の音に紛れた小さな声。
ただその震える声は、確実にオレに届いていた。
「いいから帰れよ! そのまま帰れ!!」
最後は泣き叫ぶように大声でそう言い、城之内は踵を返すとそのまま自分の家へと入っていった。残されたのは地面に大の字になっているオレだけ。
ふぅ…と溜息を吐き、そのまま空を見上げた。
空は真っ暗だった。激しい雨が全身を打ち続ける。暗い空に度々閃光が走り、次いで大きな雷鳴が鳴り響いた。
やはり…もうダメなのだろうか…。
こんなに心から城之内を救いたいと思っているのに、この想いは一向に届きそうには無い。
ただ少し違和感を感じた。
先程の城之内の態度は、今までの自分勝手なだけの城之内とは少し違ったのだ。
その違和感の正体が分からずに少なからず苛ついていると、視界の端に小さな足が見えた。視線を動かして見上げると、そこにいたのは先程学校で見かけたあの小さな城之内だった。相変わらずグスグスと泣きながら手の甲で涙を拭っている。
(城之内…?)
思わず呼びかけると、真っ赤に腫れた目でオレを見返す。この暗い世界で明るい琥珀色の瞳が印象的だった。
(かいば…。ごめん…こんなことして…)
(いや…。それは構わないが…どうして…?)
(とにかくこっちへ…。そこじゃあぶないよ)
小さな城之内は団地の軒下まで駆けていくと、そこで手招きをする。その動きにオレも身体を起こし、雨で重くなった身体を引き摺ってそこまで歩いていった。オレがその場に到着すると、小さい城之内は更に階段を上がっていく。それに着いて行くと、三階の城之内の家の前で足を止めた。そのまま脇の階段に座り込んだので、オレもそれに習って隣に腰を下ろす。
オレが座ったのを確認すると、小さい城之内は至極申し訳無さそうにオレを見上げてきた。
(ほんとに…ごめんな…。どろだらけになっちゃったな…)
(別に平気だ。今は夏だしな)
小さい城之内を安心させようと笑ってそう言ったが、突然の雷雨で周囲の温度は極端に下がっており、雨に濡れた身体は寒さでカタカタと震えていた。腕を身体に巻き付けて暖を取っていると、小さな城之内が泣きそうな目で心配そうに見詰めてくる。
(いくらなつでも、このままじゃかぜひいちゃうぜ。はやくあったかいふろにでもはいって、きがえないと…)
(あぁ…。分かってはいるんだが…。もう少し…アイツを待ちたい)
(いつまでオレをまつつもりなの? もしかしたらこないかもしれないよ?)
(いや、オレは来ると信じている)
(どうしてそんなにしんじられるの? あんなにひどいこといっぱいされたのに…)
(確かに少々乱暴ではあったけどな。オレは酷い事をされたなんて一度も思った事はないぞ)
(うそだ…! ころされかけたくせに…!)
(あぁ、そう言えばそんな事もあったな)
城之内に首を絞められた時の事を思い出した。
確かに酷く苦しくて辛かったが、この小さな城之内が言う程酷い事されたとも思っていない。
あれは城之内の必死の叫びだった。言葉で助けを求める事が出来ないから、行動に移しただけなのだ。ただそれだけの事。
その事が良く分かっているから、別に何とも思わない。
それに…と、オレは胸ポケットを探ってタオルハンカチを取り出した。
先程、学校で城之内に貸して貰ったタオルハンカチ。精液で汚れた顔を拭く為にわざわざ城之内が寄越したハンカチだったが、勿体無くてそれを使う事は出来ず、結局オレは自分のハンカチを使って汚れを拭き取った。
嬉しかったのだ。あの極限状態で、城之内が垣間見せた小さな優しさがとても嬉しかった。
あのたった一つの何気ない行動が、オレの諦めかけていた希望を取り戻したのだ。
だからオレは信じられる。
これからも…城之内の事を信じられると強く思った。
(本当に…何とも思っていないんだ。城之内を信じているから平気なのだ)
(かいばは…つよいね…)
(別に強くは無い。ただアイツが好きなだけだ)
(ほんとうに…? オレがすき…なの?)
(あぁ。本当に好きだ)
(うそじゃない?)
(嘘なんて言う必要が無い)
(ありがとう…。でも…ほんとうにごめんなさい。こんなにすきだっていってくれるのに…。なんでオレはこんなことしか…できないんだろう…)
小さい城之内が膝を抱えて丸くなる。俯いているせいで表情は見えないが、身体が細かく震えているので多分泣いているのだろう。
半透明の彼に触れる事が出来ないのは既に学習済みだったが、それでもその小さな背を撫でてやりたくて己の手を伸ばした時だった。
突然目の前が真っ白に光って、次いで耳を劈くほどの轟音が鳴り響いた。
近くに落ちた…っ! そう思った次の瞬間、突如目の前が真っ暗になる。慌てて立ち上がって回りを見渡すと、街灯の明かりも消えている事から、この辺り一帯が停電になったんだと理解した。
(おい…っ! 大丈夫か…っ!?)
あの小さい城之内の事が心配になって足元を見るが、そこには暗闇が広がるばかりで何も見えない。急に不安になって立ち竦んでいると、ドアを隔てた部屋の中から足音が聞こえてきた。そしてキィ…という音を立ててドアが開かれる。
目線を向けるとそこには懐中電灯を持った城之内が覗き込んでいた。既に風呂に入ったのか、Tシャツとハーフパンツ姿で、首からタオルをかけている。
「何だお前…まだいたのか」
「城之内…」
「早く帰らないからこんな事になるんだぞ」
「城之内…っ。オレは…っ」
「話はいいから早く入れ。オレん家の風呂ガスだから、温かいシャワーくらいなら浴びられる」
そう言ってグイッと腕を掴まれて引き込まれた。
風呂に入った城之内の身体は既に温められていて、掴まれたその掌は心地良い程温かかった。同時に先程地面に投げ出された時に掴まれた掌の温度を思い出す。雨でびしょ濡れになった城之内の掌は酷く冷たかった。きっと身体全体も冷え切っていたのだろう。だが今の城之内は温かかった。それに凄く安心した。
先程とは逆にびしょ濡れになった自分の腕を、温かい城之内の掌が握っている。それが本来の彼の温度であるかのように感じられる。いつまでも握っていて欲しかった。だが幸せに感じたその時間はあっという間に終わってしまう。
風呂場の前まで連れて来られると、城之内は掌を離してしまった。仕方無いとは思いつつも、少し残念に思う。
そのまま呆然と立ち竦んでいると、目の前に幅広の大きなバスタオルを突きつけられた。
「これは…?」
「風呂入っても着替えが無いだろ? 出たらこれでも羽織っておけ」
何も言えずに立っていると、そのバスタオルと持っていた懐中電灯を一緒に押し付けられる。そして城之内は手探りで真っ暗な部屋の奥へと去っていった。
洗面所に残されたオレはふいに泣きたくなって、渡されたバスタオルに顔を埋めた。そうでもしないと本当に泣き出してしまいそうだった。たったこれだけの気遣いに心からの幸せを感じて仕方が無い。
だがまだ泣く訳にはいかなかった。
オレが泣けるのは城之内を本当に救う事が出来た…その瞬間だけ。
じわりと熱くなる目元に力を入れて涙を堰き止め、オレは冷えた身体を温める為に風呂場へと入っていった。