*Rising sun(完結) - Sunrise - Act.7(Ver.城之内)

『お父さんが階段から足を滑らせて…、今も意識が戻りません。腕も骨折していて…』

 病院から掛かってきた電話を取ったら、相手は親父の担当の看護師だった。「いつもお世話になっています」とオレが答えるのを待たない内に矢継ぎ早に伝えられた事実に、オレは身体中から一気に血が引いていく。
 とにかく早く病院に来て下さいと伝える看護師に「分かりました」と答えを返して、オレは携帯の通話ボタンを切った。それをズボンのポケットにしまいながら振り返ると、海馬が呆然とした表情でオレを見ているのに気付く。どうやらオレの会話を聞いていたらしいが、どうしてそれで海馬がそんな顔をしているのかが理解出来ない。
 オレの親父がどうなろうが、お前には何の関係も無いのにな…。
「話、聞いてただろ?」
 そう問いかけると、海馬はコクリと頷いた。

「悪いけどそういう事だから、今日は来なくていいからな。オレもいつ帰って来られるか分かんねーし…」
「………」
「何て顔して見てんだよ。お前には関係ねーだろ!」
「じょ…の…うち…」
「っ…! くそっ!」

 海馬が真っ直ぐオレを見詰めてくる。オレはその視線が苦手だった。
 どうしてそんなに真摯な瞳でオレを見詰められるんだ。こんなに酷い事をしているというのに、どうして…っ。
 端正な顔にオレの精液をつけたまま黙ってオレを見続ける海馬に耐えきれずに顔を背ける。ついでにズボンの尻ポケットからタオルハンカチを出して、海馬に投げ付けてやった。

「そのままじゃマズイだろ。それで拭いとけよ。じゃオレは行くからな。後は勝手にしろ」

 立ち上がって身なりを整えて、廊下に続く扉に手をかけた。一度だけ振り返ると海馬は未だ呆然と座り込んだまま、オレが投げ付けたハンカチを握って何かを考え込んでいるようだった。
 一瞬…何か声をかけてやろうかと思った。だけど何と声をかければいいというんだ。オレはただ海馬の身体をストレス解消に利用しているだけなのに。
 少し考えたけど結局かけるべき言葉は浮かんでは来なかったので、そのまま扉を閉めて歩き出した。
 最近、海馬を犯すのが少し怖いと感じるようになっていた。本当に今更なんだけど、罪悪感を感じているらしい。少しでもアイツが抵抗したり復讐しようとしたりする素振りを見せ付ければそれでいいのに、海馬は決してそんな事をしようとはしなかった。ただいつも黙って…オレに従うだけ。
 どうしてなんだ…っ! どうしてそんなにオレの為に犠牲になろうとするんだよ…っ!!
 頭の隅で別のオレが小さく囁きかける。お前は本当はもう、その理由に気付いているんじゃないかって…。
 だけどオレはそれに首を振り続けた。
 知らない。分からない。そんな事考えたくも無いと。
 靴を履き替えて昇降口から表に出ると、途端にむっとした空気に全身が包まれる。空を見上げると西の方から黒い分厚い雲が近付いているのが見えた。
 そう言えば今日は夜から天候が崩れるって天気予報で言ってたっけ…とぼんやり考える。病院に向かって歩いていると、すれ違う人は皆急ぎ足だった。何となく巻き上がった埃の匂いも感じられる。雨が近いな…とは思ったけど、オレの足は重かった。そのままノロノロと歩いて行く。
 親父が階段から落ちて怪我をして意識が無いと言われても、焦ったのは一瞬だけだった。その後は自分でも不思議なくらいに冷静で、今も別に急いで行こうという意思は無い。
 何となく…親父がこのまま死んでも全然構わないような気がした。
 あんな親父でもオレのたった一人の父親だ。死なれてしまったらやっぱり悲しいとは思う。だけど…それ以上に安心してしまうのはどうしてだろう。
 親父が死んだらオレは自由になれる。そうしたらもうこんなに苛々する事も無く、誰も傷つける事も無い。
 そう…海馬だって漸くオレから解放されるんだ。
 そうなったら海馬はオレに復讐を始めるだろう。今まで苦しめられた分を倍にして。
 もしかしたらオレは本当に殺されてしまうかもしれない。だけどオレはそれを待っていた。
 海馬の手でこの苦しみから解き放たれるのを…いつの間にか一番に望んでいたんだ。


 病院に着いてエレベーターに乗り、親父が入院している階まで上がる。チーンと軽い音がして開いた扉から表に出ると、聞き覚えのある怒鳴り声が廊下まで響き渡っていた。どう聞いても親父の声であるそれに首を捻りながら病室を覗くと、左腕を三角巾で吊された親父が側にいる看護師さんに大声で何か言っているのが見える。
 なんだ…生きてんじゃねーか。
 何だかんだ言ってもやっぱり心配していたらしいオレは少しホッとして、そのまま親父のベッドまで歩いていった。

「よぉ。意識不明だっていうからいよいよくたばったかと思ったら、生きてんじゃねーか」
「克也…っ! 巫山戯るな、この馬鹿息子が!! 大体コイツ等が…っ!!」

 オレの顔を見た途端に大声で喚き散らされて、オレは思わず耳を塞いだ。ていうか、何言ってるか分かんねーよ…。
 隣の看護師さんに腕を引かれて、オレ達は一回廊下に出る事にした。廊下に出たところで、担当の看護師さんが申し訳無さそうに頭を下げる。
「入院中にこんな事になってしまって…っ。大変申し訳ありませんでした…っ!」
 あんまり本気で反省している顔をしているので、オレは慌てて手を横に振った。

「いや、別に構いませんよ。どうせウチの親父が何か無茶な事したんでしょ?」
「はい…。実は城之内さんが…その…。勝手に外にお酒を買いに行かれてしまって…」
「………は?」
「それで…それに気付いた私が思わず声を掛けてしまったんです。何しているんですかって。そうしたら城之内さんが逃げ出してしまって、追いかけたら廊下の奥の階段を凄い勢いで下り始めてしまって…。危ないから止まって下さいって何度も呼びかけたんですけど、そのまま逃げ続けてしまって…」
「ア…アイツ…。何馬鹿な事を…っ」
「そうしたら途中で階段を上がってきた別の患者さんに驚かれてしまって、そのまま足を滑らせて一気に下まで転げ落ちてしまったんです。呼びかけても返事が無かったので急いで先生を呼んで処置をして貰ったんですけど、左腕が骨折してしまっていて…。意識の方は軽い脳震盪ですぐに目を覚まされたのですが、本当に申し訳無い事を致しました…。全ては私の浅はかな行動故の…」
「いえいえ…っ! 別に看護師さんが悪い訳じゃないです!! あの親父が馬鹿な事をしたのがいけないんです」
「でも…」
「大丈夫ですよ。親父にとってもいい薬になったんじゃないですか?」

 恐縮しっぱなしの看護師さんを安心させる為にニッコリ笑ってそう言うと、青い顔をしていた彼女は漸く安心したのか薄く微笑んでもう一度深く頭を下げた。
 その看護師さんに後は任せてくれと伝えて、オレはもう一度病室に戻る。ベッドの前まで行くと、親父はブスッとした表情のままオレを睨み付けていた。それに呆れた様に溜息を吐きながら口を開く。

「何ふて腐れてんだよ…。自分が悪いんだろ? 入院中に酒とかありえないから」
「煩い! お前等が勝手にこんな場所に閉じ込めたんじゃないか!? 酒くらい自由に飲ませやがれ!!」
「その酒のせいで肝臓悪くしてブッ倒れたんじゃねーか。親父こそ自分の事ちゃんと分かってんのかよ!」

 いつもの様にギャアギャアと騒がしく喧嘩していると、入り口から大きな薬缶をワゴンに載せたおばちゃんが入って来るのが見えた。
 この病院はある一定の時間に、患者さんに無料でお茶を配るサービスがある。患者さんは自分が持って来た湯飲みやカップにそのおばちゃんから熱いほうじ茶を注いで貰うのだ。
 おばちゃんは端から順々にお茶を配って歩き、やがて親父のベッドの前まで来た。オレはサイドテーブルに置いてあったマグカップを手に取っておばちゃんに差し出しすと、おばちゃんはにこやかな笑顔で「親子喧嘩も程々になさいね」と言いながらマグカップを受け取りほうじ茶を注いでくれた。
 辺りにほうじ茶の香ばしい香りが漂って心が落ち着いていく。
 オレはそれに「スミマセン。いつも迷惑をかけて」と言いながらカップを受け取ると、おばちゃんは「いいのよ」と笑いながら去っていった。
 ほんの二言三言の短い会話。それでも今まで感じていた苛々がスッと治まって、オレは深く息を吐き出した。
親父の事はどうしようも無いとは思うけど、オレまでカリカリしてたら話にならない。ここはオレが一歩引いて落ち着いて言い聞かせないと…。そう思って笑顔を浮かべて振り返った。そして「ほら、これでも飲んで落ち着けよ」とほうじ茶の入ったマグカップを差し出す。
 親父の右手が伸びてきて、オレの手からマグカップを受け取った。
 そうだ…。親父がこれを飲んだらもう一度ちゃんと二人で会話しよう。骨折した事によって入院期間は伸びちまったが、落ち着いて話し合いをするには丁度良い。二人でちゃんと将来の事について話し合えば、きっと親父も分かってくれる。酒も止めてくれるし、仕事だってしてくれるだろう。そうしたら…今度こそ二人で仲良く暮らせるんだ…。
 そう思って、親父がマグカップに口を付けるのを黙って見ていた。なのに突然…。

「………え?」

 バシャリと突然熱い液体が顔に浴びせられた。一瞬何が起こったのか理解出来なくて呆然としてしまう。それが先程までマグカップに入っていたほうじ茶だと分かったのは、少し時間が経ってからの事だった。
「きゃぁっ! 克也君!!」
 丁度様子を見に来ていたあの看護師さんがその現場を目撃して、慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫っ!? 火傷してない!?」
 看護師さんの叫びにそろりと自分の顔に手を当ててみる。一瞬熱く感じたけど、マグカップが冷たかった為にお茶は大分冷めていたようで、幸い火傷はしていないみたいだった。
「大丈夫です」と答えながら顔を拭く為にズボンの尻ポケットを探る。だけどそこに入っている筈のタオルハンカチが見付からなくて首を傾げた。
 代わりに看護師さんが貸してくれたハンカチで顔や髪の毛を拭きながら、再び暴れ出した親父を呆然と見ていた。看護師さんの呼びかけで他の看護師さんや、丁度診察に来ていた先生まで集まって来て皆で必死に親父を押さえつけていた。暴れて大声で喚く親父は、相変わらず何を言っているかサッパリ分からない。ただ時々「この馬鹿息子!」とか「役立たずが!」とか「恩知らず!」とか、そう言う言葉だけははっきりと聞こえてくる。
 怒りはもう…沸いて来なかった。悲しくも…無かった。ただ、酷くむなしかった。
 せっかく歩み寄って話し合いをしようと思ったのに…、それすら親父には届いていなかったんだ。

「克也君…? どこ行くの?」

 看護師さんの心配そうな声が聞こえたけど、それに応える気力はもう残されてはいなかった。そのままフラフラと病室を出てエレベーターに乗り込む。一階に着いて出口へ向かい病院の外に出た。ポツッ…と額に何かが落ちてきて、何かと思って空を見上げた。
 空はもう…真っ暗だった。
 西の方角では既に稲光が発生してピカピカと何度も光り、それに続くようにゴロゴロゴロ…と遠くから雷鳴も聞こえる。未だ遠くにある雷雲も、もうすぐここまでやってくるだろう。通りを歩いている人も足早だった。
 西から東に吹く生温い強風に押されるように歩いて帰る。この風の強さじゃ雷雲が運ばれてくるのも時間の問題だ。現に先に降り始めた雨は、既に傘が必要なくらいにまでなっている。だけどオレの足は未だに重く、走って帰ろうという気さえ起こらない。
 今までのオレは親父の酒癖の悪さに呆れながらも、それでも何とか良好な親子関係を取り戻したくて頑張っていた。どんな酷い暴言や理不尽な暴力にも耐えて、本気で突き放したくなる一歩手前で何とか持ちこたえていたんだ。オレが耐える事で、いつかきっと親父の態度も改まるだろうと…そう信じて。
 だけどそれも、先程の一件で全て崩れ落ちて消えてしまった。
 親父の事はもう何も信じられなかった。いつかこの想いが親父に届くなんて…そんな甘い幻想はもう信じる事が出来なかった。
 ふと…脳裏に一人の人物が浮かび上がる。
 オレが親父に受けた以上に酷い暴言や理不尽な暴力にも耐えて、ただ黙ってオレを見詰めて従っている…アイツが。

「海馬…」

 脳裏に描いた人物の名前をポツリと呟いた。
 海馬は…オレ以上に酷い目に合っている。だけどどうして黙っていつまでもオレの言う通りに身体を差し出しているのか、理解出来なかった。
 前にも思ったけど、アイツが逆にオレを黙らせる事なんて簡単なんだ。撮られた携帯の画像だって、KCの技術があれば即座に消す事が出来るだろう。
 だけど海馬は何もしない。文句一つ言わず、オレに従うだけ。
 それは一体何の為だ? 誰の為だ?
 オレにはもう…答えが分かっていた。導き出された答えを無視する事は…もう出来なかった。

 オレの為じゃないか!!
 海馬はオレの為に、ずっと側にいてくれたんじゃないか!!

「っ…! 海馬ぁ…っ!」

 今、無性に海馬に会いたかった。
 だけど会ったとして一体どうすると言うのだろう。何も出来やしないじゃないか。何も言えないじゃないか。
 目の前にいたらきっとまた手を出してしまう。だったら…オレに出来る事は一つだけだ。
 海馬を…もう…解放しよう。
 アイツが伸ばしてくる手を振り切って、もう二度と関わり合いにならない事。
 それが海馬を自由にする唯一の方法だと、そう思った。


 遠目に自分家がある団地が見えて来る頃には、もう雨は本降りになっていた。
 発達した低気圧がもたらす雨は一粒一粒が重く大きく、ゆっくり歩いているオレの身体をあっという間にびしょ濡れにする。髪からも服からもボタボタと水滴が流れ落ち、余計に身体を重くした。
 今だったら…泣いてもいいのかな…なんて事を思う。
 雨にびしょ濡れの今だったら、きっと誰にも気付かれずに泣く事が出来るんじゃないかって。
 だけどそんな考えは甘いんだと、すぐに思い知らされる事になった。

「なん…で…。海…馬…?」

 やっとの思いで辿り着いた団地の軒下。
 そこに見知った影が立ち尽くしているのが見えて思わず足を止めた。
 そいつは青い透き通った瞳で、ただ黙ってオレを見詰めている。
 泣く事は…出来なかった。
 泣ける筈無いじゃんか。
 オレが海馬の前で泣く事だけは、絶対に許されていない。
 それがオレの身勝手で海馬を傷付け続けている…オレへの罰だから。