何だか酷く心地よい体温に、オレはゆっくりと意識を覚醒させていった。睡眠時間は足りて無い筈なのに、妙に頭がスッキリしている。そして自分を包み込むその体温の持ち主に気付いた瞬間、脳裏に昨夜の出来事が甦ってきた。
今オレを抱き締めているのは…海馬だった。
あの真っ暗な部屋の中でオレを優しく抱いて、耳元にずっと「好きだ」と、そして「愛している」と囁いてくれていた。その声を思い出すだけで、胸の内が深く満たされていく。
こんな感情は…初めてだった。
今まで感じた事の無い感情に戸惑っていると、ふと、オレを抱き締めていた身体が動いて布団から半身を起こす。そしてオレの頭に優しく触れて「城之内」と名前を呼んだ。
「起きろ、城之内」
海馬の声に重い瞼をそろりと開けて、枕元にある目覚まし時計に視線を移した。そこに表示されている数字はまだ早朝の時間帯で、まだ起きる時間じゃない。「なんだよ…」とぼやきつつ部屋の様子を覗き見る。部屋はまだ真っ暗なままだった。
「何だ…。まだ停電中なのか」
「いや、夜半過ぎに復旧した。明かりはオレが消しておいただけだ」
「そう…」
昨日の今日でどうしてそんなに普通にオレに話しかける事が出来るのか。至って普通の態度の海馬にオレは何となくそちらを見る事が出来なかった。掛布代わりのタオルケットの中に再び潜り込もうとすると、それをバサリと剥ぎ取られてしまう。
「なんだってんだよ…っ!」
思わず荒げた声を上げて見上げると、そこにいた海馬はまだ全裸だった。その姿が何だか酷く気恥ずかしくて、それ以上は何も言えなくなってしまう。
視線を反らせたオレに海馬はクスリと笑って、窓際まで歩いて行った。そしてカーテンを掴んでこちらに振り返る。
何をするんだと訝しげに見ていると、オレの視線に気付いた海馬は満面の笑みを浮かべた。そして…。
「朝だ」
そう言い放って、シャッという音と共にカーテンを開け放った。
東向きのその窓からは昨夜の嵐が嘘のような静かな朝の空気と冷気、そして昇ったばかりの眩しいばかりの朝日が差し込んできた。白く輝くその眩しい朝日に照らされて、窓際に居る海馬の裸体がシルエットになる。細身の身体の背後から澄んだ光が後光のように差し込んでいた。
「あ………」
その光景を見てオレは何も言えなくなる。
一言で言えば…感動したのだ。
この世に生まれ落ちて生きてきた十七年間、オレはこんなに美しいものを今まで一度だって見た事は無い。余りの美しさに目が離せなかった。離す事が出来なかった。
ふと頭の片隅に、美術の授業で習った宗教画が浮かんでくる。
そうだ…。今見ている光景はあの宗教画に近い。今、オレの目の前にいるのは一体誰だ? 海馬だという事は分かっている。だけど今までのオレが知っていた海馬では無い。まるで罪人を救う天使のようだと思った。
いや、本当はオレはもう知っていたんだ。その天使はずっとそこにいた。地に堕ちて真っ黒に汚れたオレを救う為に、ずっとオレの側にいたんだ。
ただ、オレがそれに…気付かなかっただけだ。
やっと気付いた。漸く海馬の本意に気付く事が出来た。
だけど今更…どうしろというのだろう? もう遅いんじゃないか?
オレはこの天使を自分と同じ場所に引き摺り落として汚してしまった。いや、汚そうとしてしまった。天使はオレになんか汚される事は無かったが、オレのした罪は消える事は無い。
今更この天使に許しを請えと? それは余りにも自分勝手過ぎる。
震える手をギュッと強く握って黙って海馬を見詰めていると、光の中で海馬が微笑んだ気配がした。シルエットになっていて細かい表情は分からないが、何となくそれだけは分かる。
海馬は柔らかく微笑んだまま…スッとオレに向かって手を差し出してきた。
「な…に…?」
「手を」
「………?」
「オレの手を掴め、城之内」
言われたままに震える手を差し出すと、その手をギュッと掴まれて窓際に引っ張られる。その途端、オレの顔を朝日が照らした。眩しい眩しい…清浄な光だった。
「ほら、オレの言った通りだろう? 朝はちゃんと来るのだ」
至極満足そうにそう言い放つ顔を覗き見る。澄んだ青い瞳が真っ直ぐに朝日を見ていた。そしてオレの視線に気付いてこちらを向き、優しく微笑んだ。
その顔にはオレに対する蔑みや憎しみなど一片も見当たらない。ただ…オレに対する真摯な気持ちだけが溢れていた。
「っ………!」
胸の奥がズキリと痛む。そして目の奥が急激に熱くなってきた。
泣きたくない…っ! そう思って目に力を入れる。だけど、いつもだったら簡単に治まる筈のその衝動がいつまで経っても治まる気配が無い。
オレは海馬の前では泣けないんだ。海馬を陵辱し続けてきたオレにとって、海馬の前で弱みを見せたり泣いたりする事だけは絶対に許されていない。それがオレがしでかしてきた罪であり、罰だから。
なのに…何故…、この衝動は止まらないんだろう…。
泣くのを必死に我慢していると、海馬がフッと少し困った顔で笑った。そしてオレの頭を優しく撫でる。
「馬鹿だな。泣きたい時は素直に泣けばいいのだ」
「だけど…オレは…っ」
「泣くのに理由がいるのか? 泣きたいのを我慢しているから色んなものを溜め込んでしまうのだろう? 泣きたければ泣けばいいのだ。一人で泣くのが嫌なら、オレがいつでも受け止めてやる」
「海馬…、何で…」
「何でと言われてもな。昨夜約束しただろう? オレはずっとお前の側にいると。どこにも行かないと…そう約束したじゃないか」
そう言って海馬はオレの身体を抱き込んだ。そして耳元で「好きだ…城之内…」と囁かれる。
再びあの温かい体温に包まれて、オレは自分でも不思議なくらいに安心してしまう。そしてそれを切っ掛けにして、一気に涙腺が崩壊してしまった。
白くて細い裸体を強く抱き締め返して、オレは仄かにいい匂いのする海馬の肩口に顔を埋める。そしてその骨張った肩に、自分の額を押し付けた。
「っ…うっ…! うぁ…っ!」
涙が溢れて止まらない。声をあげて泣きたくなんかないのに、声は勝手にオレの口から漏れだしてしまう。
ガタガタ震える身体を海馬の腕がギュッと強く抱き締めてくれた。途端に感じる海馬の鼓動。昨夜あんなにも安心しながらずっと聴いていた、海馬の生きる証。
それが大事で愛しくて堪らなくて…。
溢れた気持ちを抑える事が出来ずに、オレは子供みたいに声を上げてワンワン泣き出してしまった。
「うわぁぁぁぁーっ! うぁっ…ひっく…ぁ…わ…あぁぁーっ!!」
「城之内…」
そんなオレに海馬はただ優しく名前を呼ぶだけで、他に何も言わなかった。
温かな体温、確かな鼓動、優しい吐息。
それら全てから感じる、オレを愛しているという海馬の心。
海馬に縋る事だけはしてはいけないと思っていた。それだけの事をコイツにしたんだから…と。
でもよく考えれば、オレは既に海馬に縋っていたんだ。最初にコイツに手を出した時からずっと…オレは海馬に縋り付いていた。縋って縋って縋り付いて、ずっと助けを求めていた。海馬の優しさに甘えていたんだ。
それなのに…海馬は黙ってそんなオレを受け止めてくれた。
ただオレを好きだと…そして地に堕ちたオレを救いたいという、その一心だけで。
溢れ出した想いはもう止められなかった。
目の前の熱が愛しかった。抱き締めてくれる腕が嬉しかった。何より海馬に…助けて貰いたかった。
「かい…ば…っ! かいばぁ…っ!! っ…うっ…あぁ…っ! わぁぁ…っ!!」
助けてくれ助けてくれ助けてくれ、オレを…助けてくれ!!
そう心で叫びながら海馬の身体にしがみつく。まるでその叫びが聞こえたかのように、海馬は再びオレを優しく抱き締めて、そして背中を撫でてくれた。
優しい優しい海馬の掌。
その熱に心から安心しながら、オレは大声で泣き叫び続けた。
気が済むまでずっと…、愛しい海馬の熱に包まれながら。