教室のドアを開けると、いつもの席に珍しく海馬が座っているのが目に入ってきた。最近仕事が忙しかったから、学校に来る事自体久しぶりだ。真っ直ぐに背筋を伸ばして、オレには理解出来ない外国語の難しい本を読んでいる。そんな海馬の姿を、オレは身動きする事すら出来ずにじっと見詰めていた。
海馬が本に夢中になっている姿自体は別に物珍しい物では無い。オレが目を離せなかったのは、そんな海馬の周りを覆っている明るい光のオーラの方だった。
つい最近まで全く気付く事の無かった、海馬を取り巻く明るいオーラ。確かに同じ超能力者として、強い力を持っている人のオーラが見えたりする事はあるが、流石のオレもこんなにハッキリ見えた事は今まで一度も無かった。
キラキラと煌めくように海馬から湧き上がっているオーラに気付いているのは、どうやらオレだけのようだった。この学校にはもう一人、オレと同じように強い力を持ち『機関』に属している奴がいるんだけど、そいつも海馬のオーラには全く気付いていないらしい。現に直接聞いてみたら目を細めて海馬を眺めた後、「そう? 僕には全く見えないけどなぁ…」と残念そうに呟くだけだった。
始めてそのオーラに気付いた時、オレはただの気の所為だと思った。何故なら今まで海馬にはそんな力の欠片すら見えなかったし、本人も自分は一般人だと認識していたからだ。オレも海馬は一般人だと信じていた。だけどある日…そう恋人として初めて身体を繋げたあの日から、少しずつ海馬を包み込む光のオーラが見え始めるようになっていったんだ。そしてそれは、海馬とセックスをする度に強くなっていって…。
「っ………!」
そこまで考えて、オレはある事に思い当たって急に照れてしまった。カーッと急激に顔が熱くなっていくのを感じて、自らの顔を掌で覆う。
要するにオレだけに海馬のオーラが見える原因は、オレと海馬が身体の繋がりを持ち、心と身体の両方がシンクロしてしまっているからなのだ。どうやら自分達が思っていた以上に相性が良かった事が判明して、オレは内心とても嬉しくなってしまう。だけど同時に、かなり困った事になってしまっている事にも気付いてしまった。
「参ったな…。アイツ、絶対気付いて無いだろ…」
海馬の周りが一際明るく見える程のオーラを放ちながら、海馬自身はその事に全く気付いていないのだ。どうやらこの年になってもまだ、海馬の能力は隠されたままだったらしい。多分元々強い力の持ち主だったのだろうが、能力が発露する特別な切っ掛けというものが無かったんだと思う。
とは言っても、海馬が普通の人と同じような平穏無事な生活を送って来たという訳では無い。幼い頃から辛い虐待を受けていたという事に関しては、オレと同等か…もしくはそれ以上だろう。それでも海馬の能力が開花しなかったのは、オレと海馬の性格の違いにあるんだろう。
オレは自分を取り巻く辛い環境から、一刻でも早く逃げ出したいと思っていた。対して海馬は、その環境を真っ向から受け止めた。…というより、自らの意志でそうなるように選んだのだ。逆境に巻き込まれたオレと、逆境を自ら選んだ海馬…。それがオレ達の大きな違いだった。
辛い生活も酷い虐待も、海馬は自分が選んだ物の結果として黙って受け入れてしまっている。その潔い諦めと強い覚悟が、海馬の能力の開花を阻害した。
超能力の開花には、今ある現状を変えたいという強い意志が必要だ。だから能力者の多くは、そういう意志を強く持ち始める思春期に目覚める事が出来る。オレはまぁ…もっとずっと前に能力が発露しているけれど、思春期前の幼い時期に能力が開花した珍しい例として学会に報告されたくらいだから、ちょっとした例外って奴だ。
海馬も本当は思春期に目覚める筈だったのだろう。でもその時には海馬は既に厳しい環境に身を置き、全てを諦めて…そして覚悟を決めて毎日を暮らしていた。その余りにも強い意志の所為で、海馬の能力は眠ったままになってしまったんだ。
「………どうしよ…。これってやっぱり…オレの所為だよなぁ…」
で、そんな海馬に何故突然変化が見られ始めたかと言うと…それはオレと身体的に接触してしまったからだと推測せざるを得ない。
高校生で既にAAA+レベルを持っているオレ。数ヶ月後にはSクラスへの昇格も決まっている。そんな強い力を持ったオレと心も身体も結ばれてしまい、海馬の奥深くで内包されていた能力が外から刺激されて、突然目覚め始めてしまったんだろうな…。それ程までに海馬の能力の開花スピードは速かった。
幸い未だ力が暴発するような事柄には出会っていないらしく、海馬は自分の変化に気付かないまま普段通りの生活を続けている。だけど、このまま無視し続けていてもいつかは能力が溢れ出てしまうだろうし、その時にパニック状態になる危険性も無くは無いのだ。第一『機関』が放って置かないだろう。そうなるとやっぱり…早い内にオレが自分で伝えた方がいいと思ったのだ。
「なぁ、海馬。ちょっと…いいか?」
海馬の机の前まで歩いて行き、意を決して問い掛けてみる。夢中で本の文字を追っていた海馬はオレの声に反応し、チラリと視線を移動させてオレの顔を見上げて来た。青く澄んだ瞳がじっとオレを見詰めている。
「何だ?」
「うん、ちょっと…ね。大事な話があるんだ」
「大事な話?」
「うん」
「それは今話さなければいけない事か?」
「今じゃなくてもいいけど、なるべく早い方がいいと思う」
「………」
「これからのお前にとって…無視出来無いとても大事な事だ」
「オレにとって…?」
「そう。お前にとって」
じっと真面目に海馬の事を見詰めながらそう言ったら、海馬は少し俯いて何かを考えているようだった。でもオレの雰囲気がいつにも増して真剣だった事に気付いたんだろう。スッと上げた表情は、何かの覚悟を決めたように引き締まっていた。
「…分かった。話を聞こう」
ハッキリと聞こえて来たその一言にオレはコクリと頷いて、海馬の手を引いて誰も居ない屋上へと向かって行く。
二人で黙って歩いている廊下に予鈴が鳴り響いた。一時限目の授業はサボり決定だろうな。でもそんな授業よりも、もっとずっと大事な話をオレ達はこれからしなければならないのだった。
ピピピピピ…ッと耳元で煩く鳴り響く目覚まし時計の音にオレは飛び起きて、慌てて枕元に置いてあった時計を引っ掴みスイッチを切った。あんまりビックリしたもんだから、心臓がバックンバックンと激しく鳴っている。胸を押さえ付けながら眺めた目覚まし時計の針は、休日だからと少し遅めにセットした午前八時を指し示していた。
目覚まし時計を枕元に戻しながら、オレは自分の布団の隣をじっと眺めた。狭い部屋に並べて敷いた滅多に出さない客用布団には、違う世界から来たという少し大人の海馬がぐっすり眠っているのが目に入ってくる。暑がりのオレに合わせた温度になっている冷房が少し寒かったんだろう。タオルケットを身体に巻き付けるようにして、スゥスゥと寝息を立てていた。あれだけ大きな目覚まし時計の音にもピクリとも反応しない海馬を見て、オレは昨晩、この海馬が寝る前に言っていた一言を思い出す。
「今日は少し能力を使い過ぎた…。力の回復の為に明日は遅くまで起きて来ないと思うが、心配しないでくれ」
物凄く眠そうな顔で海馬はそう言って、オレが敷いてやった布団にパッタリと倒れ込んだ。そしてそのまま安らかな寝息を立て始めてしまったのだった。
本当にグッスリ眠っているなぁ…と思いながら、自分の隣に横たわる海馬の姿を観察する。オレが貸してやったTシャツは海馬には少し大きかったらしく、大きく開いた首回りから白い胸が覗いていた。少し伸び上がって覗き込めば、多分胸に付いているアレとかも見えちゃうんじゃないかと考えて、オレはちょっとドキドキする。うん、まぁ…見ないけどね。コイツは『オレ』の海馬じゃないし。
とりあえず風呂に入ってサッパリしようと思い、オレはそのまま風呂場に直行した。温度設定をぬるめにしたシャワーを浴びながら、さっきまで見ていた夢を思い出す。妙にクリアな夢だった。まるで自分が実際体験した過去であるかのように。
多分昨日あの海馬に変な話聞いた所為だとは思うけど、もし自分があの世界の『オレ』だったら、きっとあんな風に海馬と付き合っていたんだろうな…なんて思ってしまった。『こっち』のオレ達とは全く違う、お互いを信頼しきった雰囲気。夢の中のオレも現実と同じように海馬の事を心から愛していたし、海馬もオレに絶対の信頼を寄せていたように思う。
あの二人の姿こそ、オレが本当に追い求めている物なんだ。それなのに…。
「現実って…残酷だな…」
今はもうアメリカにいるだろうオレの海馬の事を思って、オレは風呂場で盛大な溜息を吐いた。
オレが風呂から上がって二時間近く経ってから、海馬が少しスッキリした顔をして部屋から出て来た。シャワーを浴びる度に海馬が風呂に行っている間に、オレは遅い朝食の準備をする。昨夜は簡単にインスタントラーメンで済ませてしまったから、今回はきちんとした物を作ろうと張り切っていた。
ご飯を炊いて、豆腐と長ネギと油揚げで味噌汁を作る。小松菜を茹でてお浸しにし、作り置きの切り干し大根の煮物も小皿に盛りつけた。冷蔵庫から漬け物の盛り合わせの皿も出して、最後は魚でも焼こうと冷蔵庫を覗き込んだ。ところがそこには塩鮭が一枚しか残って無くて、仕方が無いので少し考えてベーコンエッグにする事にする。これだけ洋食っぽいけど、ご飯と合わなくは無いから大丈夫だろう。フライパンから焼き上がったベーコンエッグを皿に移していると海馬が風呂から上がって来たので、そのまま二人で朝食を摂る事にした。
「お前は相変わらず料理が上手いな」
「あ、そう? そっちのオレも料理上手?」
「あぁ。たまに食事をご馳走してくれたりするぞ」
オレの作った朝食を美味しそうに口に運びながら、海馬がニッコリ笑ってそんな事を言った。そんな風に真っ向から褒められると、慣れてなくてちょっと照れる。オレの海馬はこんな事を言ったりしないからな。あ…せっかく美味しいご飯食べてるってのに、また悲しくなってきた…。
沢庵をポリポリ食べながら少し凹んだら、目の前に座っている海馬が少し考え込むような動作をした。そして突然「スマン」と言葉を放つ。
「はい?」
何故突然謝られたのか分からなくて海馬の顔を凝視すれば、海馬は神妙な顔付きでオレを見ていた。
「いや…スマン。オレはてっきり…」
「え? 何? 何で突然謝ってんの?」
「何というか…その…。自分達がそうだからてっきりお前達もそうなのだと思ったのだが…」
「だから何?」
「あ…つまりその…オレ達の関係のように、お前達も『そういう』関係なのかと…。だから遠慮なく恋人だ何だという話をしていたのだが…」
ボソボソと海馬は本当に申し訳なさそうに言葉を放っていた。最後まで話を聞いてみれば、要はオレ達が恋人同士でも何でも無いのに、そういう話をして済まなかった。男同士で云々なんて、余り良い気持ちがしなかっただろうって事らしい。
いや…その心配は杞憂なんだけどね。実際オレ達は恋人同士だし。オレが落ち込んでいるのは、むしろ恋人同士なのに思ったように上手く行かない事に関してだ。
「いや、大丈夫。オレ達も付き合ってるから」
安心させるように笑いながらそう言ったら、目の前の海馬はホッと息を吐いて微笑んだ。
「そうか…それならば良かった…」
「ただちょっと…」
「ん?」
「あ、いや、何でも無いよ。それよりもさぁ…。昨日聞いた話の所為で、オレ変な夢見たんだけど」
「………?」
ここでこの海馬を無駄に心配させるような事を言っても仕方無いし、オレは自分の悩みについては話さない事に決めた。それに食事の時は明るい話題で楽しい気分でいた方が、飯も美味く感じるだろ? せっかくだからあの夢の内容を教えてやろうとして、オレは嬉々として今朝見た夢の事を海馬に話した。そうしたら海馬は本気で驚いた様な顔をして、オレの事をマジマジと見詰めて来たんだ。
「驚いた…」
パチパチと何度も瞬きを繰り返しながら、海馬はボソリと呟く。
「それは本当に、オレが昔体験した過去だ…」
「へ?」
「高校生の頃、実際そういう会話を城之内としたのだ。そしてそれを切っ掛けにして、オレは自らの超能力に気付いたのだ…」
「へぇーそうだったのか。偶然にしても凄いなぁ…」
「いや、偶然では無いと思う」
オレの発言に海馬はゆるりと首を横に振る。そして真剣な瞳でオレの事を見詰めて来た。青い瞳が真っ直ぐにオレを捕らえている。その瞳を…オレはどこかで見た事があると思った。
勿論こんな青い瞳をしている人物は一人しかいない。………あの、海馬瀬人だ。でもどうしてだろう…。オレは海馬がいつどこでどんな風にこんな真剣な瞳でオレの事を見詰めて来たのか、全く覚えていないんだ。考えれば考える程、頭に浮かぶのは微妙に視線を外してオレを見ようとしていない海馬の姿だけ。じゃあ気の所為かと言われると、そういう事でも無いんだ。オレは確かに、オレの事を至極真剣に見詰める海馬の瞳を見た事があるんだ。…それがいつどこで見たのか…全く思い出せないけど。
そんな風にオレがグルグル色んな事を考えていると、目の前の海馬が「ふむ…」と少し考え込むように俯いて、そしてパッと顔を上げた。
「昨夜からずっとオレの側にいたからだろうな…。多分、オレの思い出とシンクロしてしまったのだろう」
「シンクロ?」
「そう。オレと城之内が長く恋人同士なのは、もうお前も知っているだろう? 向こうの城之内と全く同じ姿をしたお前を相手にしていると、オレもつい気を許してしまうのだ。気を許すと無意識に思考が漏れる。その漏れ出た思考を、お前がキャッチしてしまったのだろうな」
「キャッチねぇ…。でもオレは、『そっち』のオレと違ってただの一般人だぜ? そんな普通の人間のオレが、他人の思考をキャッチしたり出来るモンなのかな?」
「そうだな…。オレもそれが少し引っ掛かるのだが…」
暫く二人で首を捻って考えて、でも答えは出て来なくて、最後は結局「たまたまそういう事が起った」という事で片付けてしまった。
その時はそれで良かったのかもしれない。だけど確かに、オレはこの違う世界から来た海馬から影響を受け始めていたのだった。