それまで饒舌に喋っていた海馬が黙り込み、夜の公園に再び静寂さが戻っていた。ベンチに座り込んだ海馬はただただ悔しそうに俯いている。手に持っているペットボトルは、海馬の握力によって大分その形を変えていた。
如何にも痛々しげなその姿に息苦しくなって、オレが気付かれないようにそっと嘆息した時だった。ぐぅーーー…という盛大な音が、オレの腹から鳴った。結構大きな音で鳴ったから恥ずかしくなって、胃の辺りを擦りながら公園の中央に目を向ける。そこには時計台があるので、時間の確認が出来るんだ。
「七時半…か。そりゃぁー腹減るよなぁ…」
恋人に相手にされなくて悲しくて苛ついても、別世界から来たという恋人そっくりの男から信じられないような話を聞いて心底驚いても、人間腹は減るものなんだ。こればっかりは仕方が無い。
とりあえずこんな所でボーッと座っている訳にもいかないので、オレは立上がって俯いている海馬に右手を伸ばした。オレの手に気付いた海馬が視線を上げて、ちょっと小首を傾げる。その姿がとても可愛くて…とても二十四歳には見えなくて笑ってしまった。
「………何だ?」
「何だじゃねーよ。いつまでもこんな所にいる訳にはいかないだろ? そろそろ移動しねぇか? オレも腹減ったしよぉー…」
オレの言葉に、海馬もハッと何かに気付いて自分の胃の辺りを擦った。途端にクゥ…と可愛らしい空腹音が鳴り響く。
「そうだな…。そろそろ何か食べないとな…」
「だろ? だからとりあえずオレん家行こうぜ」
「いや。お前の世話にはならない」
「………どういう意味だよ、それ」
「自分と関係の無い世界の人間に、これ以上迷惑をかける訳にはいかんだろう。自分の世話くらい自分で出来る。放っておいてくれ」
あぁ、なるほど…。そういう意味か。
今の海馬の言葉を聞いて、オレは自分の恋人である海馬を思い出した。
そう言えばアイツも、こんな風にたまに言葉が足りない時があるんだよなぁ…。付き合う前はその言葉を真に受けてよく苛ついていたものだけど、付き合ってみるとその殆どが誤解だという事に気付いた。そんなところが可愛くて…愛しくて…大好きだったのに。それなのに海馬の存在はどんどん遠ざかっていくだけだ…。
そこまで考えて、オレは慌てて首を振り、沈み掛けた自分を無理矢理上昇させた。危なかった…。昼間の一件を思い出して、危うくまた凹むところだった…。
「自分の世話くらいって言うけどさ。海馬お前…金持ってんの?」
気を取り直してそう問い掛けてみれば、海馬は目を見開いて固まってしまった。案の定だ…。金なんて持ってる筈が無い。
「い、いや…。現金が無くてもクレジットカードならあるから…」
「そのカードをこっちの世界で使う気か? そりゃお前が持ってるって事は、本物のカードなんだろうけどさぁ。当たり前だけどこっちの世界にも『海馬瀬人』はいるんだぜ? こっちの海馬が使って無いのに、もう一人の海馬がカードなんか使ったらヤバイだろ」
「あっ…!」
あ、やっぱりコイツ…一番大事な事を忘れてたな。
「それにお前もKCの社長だから分かるだろうけど、この童実野町では『海馬瀬人』という人間はある種の有名人なんだ。そんな有名人にそっくりなお前がフラフラと出歩いたら…どうなるか分かるよな?」
「っ………!」
「ホテルは元より、海馬邸なんて行けないだろ。モクバだってビックリしちまう。だったら…事情を知るオレの家しか行く所は無いよな?」
「し…しかし、貴様の家には父親がいるのでは無いか?」
「ん? あぁ、大丈夫だよ。親父は来週一杯まで知り合いの塗装業の所で仕事してくるってさ。十日くらいは誰もいない」
その話は本当だった。親父は酒を飲むととことんダメな人間になるが、最近はそんな自分を反省したらしく、よく真面目に働くようになった。知り合いに塗装業の会社を営んでいる人がいて、その人に頼んでちょくちょく仕事に出掛けるようになっていたんだ。
勿論完全に酒断ち出来た訳じゃ無い。そこら辺は残念なんだけど、以前より暴れる回数が減っているのも確かだ。親父が自分で立ち直ろうとしているのが目に見えるので、オレもその事には何も口出ししないようにしている。給料が良いとか悪いとかは今は全く関係無いし、そんなものは後回しだ。要は親父が自分の力で立ち直れれば、それでいい。
「ウチの親父さ、最近真面目に働いてるんだぜ。お陰で家も荒れてないし、結構綺麗なんだ。狭い団地の部屋だけど、お前に嫌な思いはさせないよ」
「だ…だが…」
「断わるのは勝手だけど、でもお前…他に行く所あるの? まさか野宿するつもりか? その怪我で?」
「っう………」
「行く所…無いだろ? だったら素直にオレの家に来いよ。な?」
海馬はオレの言葉に心底悩んでいるようだった。そんな海馬の葛藤を見ながら、オレはオレで必死だった。
恋人として付き合い始めたはいいものの、海馬は全くオレに打ち解けてくれない…。会話してても、素直な受け答えなんて一度もしてくれた事は無い。明らかにオレを避ける態度を続け、なるべく遠くへと離れていく。これだったらまだ付き合う以前の方が、自然な関係を築けていたような気がする。
どうしてなんだろう…。そんなにオレの事が嫌なんだろうか。そこまで嫌いなら…最初から告白を受け止めなければ良かったのに。
そんな悲しい想いで胸を一杯にしながら、オレは必死で目の前の海馬に手を伸ばした。せめてこの海馬がこの手を取ってくれたら、何かが変わりそうな気がして。
「………分かった」
どのくらい時間が経っただろうか…。海馬が小さくそう言い放って、差し出したオレの右手に自分の掌をそっと載せてきた。冷たい指先がキュッとオレの手を掴む。
「迷惑を掛けるが…宜しく頼む」
少し困ったように微笑んで告げられた一言に、オレは笑顔で大きく頷いて応えた。
夜道を二人で歩いて自宅に辿り着いた時には、もう夜の八時を回っていた。オレの腹はグーグー鳴ってるし、それにつられたかのように海馬の腹もクゥクゥ鳴っていた。とりあえず飯の準備をしないとなーと思って電気を付けた途端、電話が大きく鳴って思わずビクリと跳ね上がる。
な…何なんだよ…。タイミング良過ぎだろ…。
「は…はい…もしもし?」
恐る恐る電話を取ってみれば、何の事は無い…親父からの電話だった。
『おう、克也か?』
「何だ…親父かよ。何? また仕事で失敗した?」
『何だとは何だ! それに失敗なんてしてねぇよ! 失礼な奴だなぁ…てめぇは』
「あはは、悪かったって。ただの冗談だよ。で? 何?」
『あーそうそう。実はな、今世話になってる所でな、ちょっとデッカイ仕事が入ったんだよ』
今世話になってる所とは、例の知り合いの塗装業の会社だ。
『社長がオレにも協力して欲しいって言うからよぉー、せっかくだから行ってくるわ』
「へ? 行くって…どこへ?」
『ちょっくら地方になー! 一ヶ月は帰らないからそのつもりでいろよー。てめぇも勝手にやれや』
「え? ちょっと…親父!? 親父ぃーっ!?」
親父は好き勝手にほざいて、勝手に電話を切ってしまった。気が付いたら受話器から聞こえるのはツーツー…という電子音だけで、突然の事態にオレは呆然としてしまう。だけど次の瞬間には、オレはそれを幸運だと捉えていた。受話器を元に戻し、未だ玄関で所在なさげに突っ立っている海馬の方に振り向いて告げる。
「あのな。親父、一ヶ月は帰って来ないって。だからお前、ウチでゆっくりしろよ」
オレの言葉に海馬は目を大きくして、何度もパチパチと瞬きを繰り返していた。
「それは…どういう事だ?」
「何か予定外の仕事が入ったんだと。こっちにしてみれば助かるし、親父も真面目に仕事してるようでオレも安心だ。良かったな、海馬」
そう言って笑いかけてやれば、海馬は戸惑ったようにコクリと頷いた。そしてじっと自分の足元を見る。
海馬の視線を追いかけてオレも足元を見れば、その足が随分土や泥や血等で汚れているのが目に入ってきた。あぁ…なるほど。だからさっきから玄関に突っ立って入って来なかったんだな。
「床は後で拭いといてやるから、とりあえず風呂入って来な。いくらウチでもシャワーくらい使えるからさ」
「だが…」
「いいからって。あ、ウチの風呂の使い方…分かるか? ていうか、風呂の場所が分からないか…」
「いや、知っている」
知っている…とハッキリ言うと、海馬は靴を脱いで更にその場で汚れた靴下を脱いだ。そして裸足のままペタペタと風呂場の方へ消えていく。その後ろ姿に「汚れた服は洗濯機に入れておけばいいから」なんて声を掛けながら、オレはちょっとした疑問を感じていた。
初めて来たオレん家で、どうして風呂場の場所を知っているんだ…? と考えて、次の瞬間には「あぁ、そうだった…」と考えを改める。
さっきこの海馬がしていた話の内容だと、向こうの海馬とオレは高校生の頃から付き合っていたらしい。そう、まさに今のオレ達みたく。だったら海馬が『オレ』の家に遊びに来る事もあっただろうし、何て言うか…その、やる事やってれば風呂場を借りる事もあったんだろう。
そこまで考えて、オレは深く深く溜息を吐いた。
あの海馬の話、聞いているだけでも向こうの海馬とオレは凄く仲良さそうだって思った。それはもう一人のオレの事を話す海馬の顔が、とても幸せそうだった事もある。不幸な結末に至っていたら、あんな幸せそうな顔は出来無い。
「羨ましいよな…」
ポツリと…極自然に言葉が漏れ出た。
似たような世界。だけど違う世界。向こうの海馬とオレは物凄く幸せそうなのに、どうしてオレ達はすれ違いばっかりなんだろうと考えて、酷く虚しくなってきてしまった。ただどんなに気分が落ち込んでも、空腹感は感じてしまう訳で…。グゥーーー…と盛大になる胃を擦りつつ、オレは簡単な夕食を作る為に準備を始めた。
それからどれくらい時間が経っただろうか。ガチャリと風呂場のドアが開く音で、オレはバスタオルを用意していない事を思い出した。「あー! ゴメン! ちょっと待ってて!!」と叫び、慌てて綺麗なバスタオルをひっ掴んで風呂場に向かう。そのまま風呂場の影に佇む海馬に手にしたバスタオルを手渡そうとして…だけど驚いて固まってしまった。
海馬の身体は、まだあちこちが傷だらけだった。夜の公園で見た時はある程度治っていると思ったのに、明るい電気の下で見ると、未だあちこちにいくつもの傷がある事が分かる。特に左腕に火傷は大分マシになっていたものの、まだ全然完治していなかった。
まぁ…確かにそれもオレが驚く理由にはなるだろうけど、オレが固まった本当の理由はその事じゃない。オレが本当に驚いた理由…、それは海馬の肌の美しさだ。
うっすら青く見える程の真っ白い肌。その肌に浮かぶ多数の赤い傷痕。肌に浮いた汗やお湯の水滴が玉のように浮かんでいて、それらが滑らかな肌をつつーっと流れていく様は…もう何とも言えなかった。
しっとりと濡れた栗色の髪。紅潮した頬に潤んだ青い瞳。濡れた身体…。耐えきれずに身体の芯が熱くなってきたところで「城之内…?」と名前を呼ばれた。
「あっ…! ゴ、ゴメン!! コレ使ってくれ。洗ったばかりで綺麗だから…!!」
名前を呼ばれてハッと我に返って、オレは慌ててバスタオルを手渡す。くすぶり掛けてた熱も、一気に引いていくのが分かった。
あ、危ない…。オレは今…一体何を考えていた? 確かにコイツは海馬だけど、オレの恋人の海馬じゃない。コイツは…別の『オレ』の海馬なんだ。しっかりしろ…!! お前の海馬は…今アメリカに向かっている途中の筈だ!!
何度か大きく深呼吸を繰り返し、オレは改めて大人の海馬の身体をじっくりと見てみた。やっぱりというか何て言うか…その身体は酷く傷だらけだ。
「何だ…。まだ全然塞がって無いじゃんか」
火傷を負った左腕をよく見る為に、傷の無い手首を掴んで目の高さにまで持ち上げた。真っ赤になっている傷痕が痛々しい。
「先程も話したが、オレのヒーリング能力は後から付け足した物なのだ。重傷を軽傷程度にまでする事は出来るが…完治させることは出来無い」
「超能力も完璧じゃ無ぇんだなぁ…」
「そうだな」
オレの言葉に海馬はふっ…と目を細めて微笑んだ。その笑顔が余りに綺麗で、オレはついつい見惚れてしまいそうになる。だけど今はそんな事をしている場合では無いので、慌てて首を振って左腕の火傷に視線を戻した。
「それにしてもさ…これじゃ痛いだろ? 他にも一杯傷あるし…。手当してやるからこっちに来な」
「城之内…」
「お前も知ってるだろうけど、オレ結構傷の手当て上手いんだぜ。着替えは後で用意してやるから、とりあえずこっちが先決だ」
今度もまた迷うかなーとか思ったけど、意外な事に海馬はすんなりと頷いて応えてくれた。そしてバスタオルを羽織ったまま、オレに手を引かれて素直にリビングにまで移動してくれる。
風呂に入ったばかりでほんのり温かい手を強く握り締めながら、オレは何だか胸のドキドキが止まらなかった。