あの夏の日の君へ(完結) - 見守ってみる - 第十一話

 その後、オレは結局海馬に手を出す事は無かった。海馬と全く同じ姿をしていてどんなに魅力的に見えても、コイツはオレの恋人の海馬じゃ無い。この海馬に手を出すという事は向こうのオレを悲しませるという事になるし、何よりこちらの海馬を裏切る事になる。それだけはどうしてもしたくなかった。何だかんだ言ってもオレは自分の恋人である海馬を一番に愛しているし、どんなに報われなくてもこの想いは大事にしたいと思っているから。

「ゴメン…。オレちょっとパニくってたみたいだ…」
「落ち着いたか?」
「うん」
「それなら良かった」

 すっかり落ち着きを取り戻したオレに海馬はニッコリと優しそうに笑って、もう一度ポンポンと頭を撫でてくれた。その行為が本当に嬉しくて、オレは泣きそうになりながらも着替えを持って風呂場に向かう。ぬるめのシャワーを浴びながら、オレはさっきよりずっと心が和んでいる事に気付いていた。



 交代で風呂に入った後、夕飯は簡単に済ませてしまおうという事で素麺を茹でて、作り置きのおかずと一緒に二人でもくもくと食べていた。海馬と素麺なんていう組み合わせなんて考えた事も無かったけど、白くて細い麺を啜るその姿が結構堂に入ってて微笑ましいと思う。

「なぁ…。向こうのオレってどんな力持ってるの?」

 氷水で冷やした麺をズルズルと啜りながら、オレはふと…ずっと気になっていた疑問を口に出した。オレの言葉に海馬はピタリと止まり、素麺を半分つゆに浸したままキョトンとしている。

『ランクSS+(ダブルエスプラス)。史上最強の炎使い。名前を『城之内克也』という』

 あの夜の公園で、この大人の海馬はもう一人のオレの事をそう言っていた筈だ。そして海馬の着替えの荷物が届いた朝には、向こうのオレには五つの能力があるとも言っていた。つまり生れ付き持っているという第一能力は、多分火とか炎を扱う能力で間違い無いだろう。そして四番目が後から人工的に付け足された治癒能力の筈。それから五番目が例のラック能力だ。
 この時点で分かっているあちらの『城之内克也』の能力は三つ。五引く三は二。つまりあと二つ、このオレが知らない能力がある筈だ。

「炎と…ヒーリングと…あとラックだっけ? これで三つ。という事は、あと二つ能力があるという事だよな?」
「…そうだな」
「そのあと二つの能力って一体何だ?」
「…何故そんな事を訊く?」
「え…? 何故って…」

 海馬は箸を揃えてテーブルの上に置き、黙ってオレの顔を見詰めていた。気のせいかもしれないけど、その顔は微妙に強ばっているようにも見える。
 それはオレがこのもう一人の海馬と出会って、初めて目にした表情だった。何かを言いたいのに、上手く言う事が出来無い。言うか言うまいか迷っている。そんな風に見える。

「だって…ほら、やっぱ気になるじゃんか。もう一人のオレの話だしさぁ…」
「そう…だな」

 オレの言葉に海馬が微妙に言い淀んでいる。何とも言えない空気が辺りを包んでいた。
 本当にこんな事は初めてだった。いつでも色んな話をしてくれたこの海馬は、今は何も言いたくないと…言わせないでくれと無言で訴えている。

「あの、別に言いたくないんだったら…」
「第二能力は、確か重力操作系能力だった筈だ」

 この重たい空気に耐えきれなくて話題を切ろうとした時だった。オレの言葉に被せてくるように、海馬が口を開く。まるで無理矢理零したかのような、ピリリとした空気を纏った言葉だった。

「重力…操作?」
「そうだ。重力を利用して相手の身体を重くして動きを遅くしたり、逆に自らの身体を軽くして身軽に飛び回ったり、そういう事が出来る能力だ」
「それが第二能力?」
「あぁ。城之内が持って生まれた…二つ目の超能力だな。結構便利だと言っていた」
「それじゃ三番目は?」
「三つ目は…」

 第三能力。向こうの世界の、もう一人のオレが持って生まれた最後の能力。第一能力や第二能力よりは力は強くないんだろうけど、それでも重要な能力の筈だ。
 海馬は何かを言い出しかけて、そして口籠もってしまった。その後少し考える振りをして、やがて苦笑しながら「何だったろうな…。他人の能力だからな、忘れてしまった」と言った。
 虚空をゆらりと動いた青い視線が、海馬のその言葉が嘘だという事を知らしめている。恋人であり、超能力者としての師匠でもある『城之内克也』の力を、海馬が知らない筈が無い。ましてや忘れてしまう事なんて絶対に無い筈だ。それでも、そんな下手な嘘を吐いてでも隠し通そうとする海馬の意志が見えて、オレはもうそれ以上の追求をする事をやめる事にする。
 海馬がこんなに必死になって隠し通そうとしているという事は、その第三能力に結構重要な秘密が隠されているという事だ。それが気にならないと言ったら嘘だけど、これ以上海馬を困らすのも嫌だった。

「そうなのか。残念だなぁー。思い出したら絶対教えてくれよ?」

 仕方無いのでそう言ってその場は収めて、後は残りの素麺を無言で食べ続ける事に専念する。
 今までこの海馬は、もう一人のオレの事を話す時は本当に幸せそうにして、綺麗な笑顔で教えてくれたものだった。それが突然怖いくらいに顔を強ばらせて口を噤んだ海馬を見た時、オレは何となく今回の事件に『オレ』が関わっているんじゃないかなぁ…と感じずにはいられなかった。



 その晩、オレは夢を見た。
 オレは高いビルの屋上にある給水塔の上に立っていて、すぐ下にたむろっている何人かの人間を見下ろしている。その中の一人が海馬で、オレを見上げて必死の形相で何かを言っていた。でもその声は全く聞こえない。耳元で吹きすさぶ風が強過ぎる…。
 何だか良く分からなかったけど、オレはそこから一刻も早く立ち去りたかった。だから足元の給水塔を蹴って、ビルの外に飛び出した。身体は信じられないくらい軽くて、まるで空気を踏むように飛ぶ事が出来る。目の前には空中にポッカリと開いた黒い穴。確認しなくても分かる。この穴は…オレが開けた。

 早く…早く早く早く、あの穴に入り込まなければ!
 じゃないと捕まってしまう! 今度こそ…本当に殺されてしまう…!!

 勢いを付けて穴に飛び込む。自分の身体が穴に入り込んだ事を確認して、直ぐさま穴を閉じようとした。…でもそれは出来無かった。オレの右手を…誰かが掴んでいた。

「海…馬…?」

 振り返ると目に入ってきた海馬の顔。眉を寄せて…泣きそうな顔をして…それなのに青い瞳だけは強い光を宿して。

「城之内…っ!!」

 強い叫びが聞こえて来た瞬間、夢はそこでプッツリと途切れた。



 それから数日後。カレンダーはすっかり八月に入って、毎日暑い日が続いていた。
 その日はバイトも休みで海馬も家にいた為、冷たいアイスでも買って来ようと昼下がりの街を一人で歩いていた。近くのコンビニで棒付きのとカップのとプラスチックケースに入っているアイスを吸い出すのと、それぞれを二つずつ買って溶けない内にと少し急ぎ足で家に帰る。途中、あの海馬を拾った公園の脇を通りかかった時、オレは何か白い物を見た気がして足を止めてしまった。
 小さな児童公園の入り口に、だれかがフェンスに寄り掛かってこちらを見ている。夏の風に靡く真っ白の髪。あんな髪をしてる奴なんて、オレは一人しか知らなかった。

「漠良…?」

 思わず頭に浮かんだ名前を口に出す。近寄っていってみると、そいつは確かに漠良だった。オタクで天然で…その癖美形で女の子にモテモテの漠良了。その漠良がオレを見て、ニコニコしながら細い手を振っていた。
 そう、確かに漠良の筈だ。それなのに何故か違和感がある。その違和感には覚えがあった。今オレん家で居候している、ちょっと大人のもう一人の海馬と出会った時に感じた、あの違和感とそっくりだったんだ。

「お前…誰?」
「ボク? 漠良了だよー?」

 オレの質問に小首を傾げて答える漠良は、まさにいつもオレ達と連んでいる漠良とそっくり一緒だ。だけど、コイツが『オレが知っている漠良了』では無いという事は明白だった。何故ならば目の前にいるその漠良は…オレより少し年上だったから。

「あのさぁ…。お前、どこから来たの?」
「あれ? 流石に勘が良いねー。もうバレちゃった」

 全く悪びれずに大人の漠良はそう言うと、胸元から一枚のカードを見せつけてこう言った。

「どうも。『機関』から派遣されて来ましたヒーラーの漠良了と申します。初めまして、『こちら』の城之内君」

 目の前に突き付けられたカードには、物凄く見覚えがあった。何故ならばそのカードは、もう一人の海馬を拾ったあの夜に見せて貰った物と全く一緒だったから。

NAME:Ryo Bakura
Blood type:AB(RH-)
Birthday:9/2
Ability: first/heal
Rank:S

 おぉ…凄ぇ! Sランクだ!! とそんな事に感動して、でもその上の欄を見て首を捻った。
 あれ…? アビリティが…一個だけ? 確かこの『heal』っていうのが治癒能力だよな? 海馬の三つ目の能力の所にも、そう書いてあった筈。でも何で一個だけ? だって海馬は三つあった筈だ。もう一人のオレに関しても四つだか五つだか持っている事は確定している。それなのに一つだけ? 一つだけなのにランクS?

「何? 何か変?」

 さも得意げに掲げられたカードを訝しげにじーっと見ていたのが気になったんだろう。漠良がオレの顔を覗き込んできた。

「君がウチの海馬君と出会って、今は一緒に住んでいるって事はもう知っているんだよ? このカードだってもう見せて貰ったんじゃ無いの?」
「うん。見せて貰ったけど…」
「じゃー別におかしいところは無いでしょ?」
「おかしくは無いけど…。何でお前、能力一個しか無いの? それでSランク?」
「むっ…! 君は失礼だなぁ…」

 オレの言葉に漠良は眉を顰めて不機嫌そうに睨んで来た。でも、大して怖く無いと感じるのはコイツが漠良だからなんだろうか…?

「能力が一個しか無くても、それが凄く強いから問題無いの! ボクは『機関』専門の超有能ヒーラーなんだから!」
「ヒーラー?」
「そう。生れつき強い癒し能力を持っている能力者なんだよ」

 その言葉で思い出した。確か海馬も『主にヒーラーと呼ばれている能力者達は、自分の持っている第一能力にヒーリング能力…つまり自分や他者の怪我や病気を治せる能力を持っている人達が名乗れる称号だ』なんて事を言っていた。という事は…そのヒーラーがこの漠良って事か…。イメージ通りというか…逆にイメージに合わないというか…微妙な感じがする。

「で…? そのヒーラーの漠良がこっちの世界に何の用だよ」
「だから何でそんな可愛く無い事を言うの。ボクは海馬君に呼ばれて来たんだよ?」
「え…? 海馬に…?」
「そう。だから出張に行っていた時空系能力者が帰って来るのを待って、その人に協力して貰ってこっちの世界に飛んで来たっていう訳」
「時空系能力者…?」
「え? 何? そういう話聞いて無いんだ」

 オレの疑問に、漠良はさも意外そうに大きな瞳を何度も瞬きしていた。

「時空系能力っていうのは、時間や空間を自由に飛び越えていける能力なんだよ。この能力が無いと、いくら強い力を持った超能力者でも他の世界に移動したりなんて出来無いの」
「そんな能力あるのか」
「そう。本当はもう一人強い時空系能力者がいたんだけどね。その人は…ほら、例の『影』に取り憑かれちゃって、こっちに逃げて来ちゃったからさぁー」

 漠良の話を聞いている内に、オレは初めてもう一人の海馬と出会った時の晩を思い出していた。その時…海馬は言っていた。影に取り憑かれた能力者は、かなりの実力の持ち主だったと。そして自らの時空移動の能力を使って別世界に逃げたのだと…。

「そう言えば…そんな事言ってたな」
「でしょ? 大体ズルイんだよーっ! 第三能力の癖にそんな強い時空移動能力持ってるとかさ。第一能力だけでも化け物並みなのに! この事件の話聞いて、ボクを送ってくれた時空系能力者なんて物凄く落ち込んじゃったんだからね。自分だって何の用意も無しに、そんな簡単に空間飛んだり出来無いって」
「第三…能力…?」

 あれ? 何だろう…。今なんか、ちょっと引っ掛かった。
 数日前の海馬の顔が脳裏に浮かぶ。微妙に強ばった表情をしながら、忘れたと言い張ったもう一人のオレの第三能力。第一能力は炎。史上最強の炎使いと呼ばれているくらいの、強い超能力者。
 思い出せ。初めて大人の海馬に出会ったあの晩、海馬がどんな怪我をしていたのか。剥き出しになった左腕。真っ赤に焼け爛れた…一回のヒーリングで治りきらなかった酷い火傷。あちこちに焦げ目が付いていたコート…。

「ま…まさか…っ!」

 手に持っていたコンビニ袋がスルリと滑り落ちて、ガサリと音を起てて地面に落ちる。スッカリ溶けたアイスがグシャリと潰れるの音を…オレは信じられない思いで聞いていた。