あの夏の日の君へ(完結) - 見守ってみる - 第十話

 去年の大晦日の時、ちょっと面倒臭くて廊下の電気はそのままにしておいた。古い電球は大分灯りが落ちていて、黒っぽく感じるオレンジ色の光が薄汚れた廊下を照らし出している。その薄暗い光の下に…海馬の白い肌が一際目立って浮かび上がっていた。
 透き通るような白い肌に、桃色に染まる突起が目に付いた。ずっと見たかったその光景に思わずゴクリと喉を鳴らすと、下敷きにした身体がピクリと動いたのを感じる。押さえ付けている両腕が小さく震えている事に気付いてオレは視線を上げて…ギョッとした。

「か…海馬…?」

 海馬は青い瞳を目一杯開けて、真っ直ぐにオレを見ていた。その瞳に浮かんでいるのは驚きと怯えの感情で、先程まで浮かんでいた怒りや蔑み等は一欠片も残っていない。白い顔を真っ青にして、ただ黙ってオレの事を見詰めている。やがて…その瞳にじんわりと涙が浮かんできた。涙に覆われた青い瞳から驚きと怯えが消えていき、やがて諦めの色が濃く浮かんで来る。そして海馬は…下唇を強く噛み締めて、ギュッと瞼を閉じた。溜っていた涙がボロッ…と眦から零れ落ちて、海馬はそのまま顔を横に背ける。押さえ付けていた腕からも、抵抗する力が徐々に抜けていったのを感じた。

「ばっ…馬鹿…お前! 何でそこで諦めちゃうんだよ!!」

 完全に諦めてオレを受け入れようとしている海馬に、何故だか物凄く腹が立って、オレはそう怒鳴った。
 恋人の癖に、オレになんて何の興味も無い海馬。オレの事なんて好きでも何でも無い癖に、自分勝手に突っかかってくる海馬。それなのに、どうしてこんな時ばっかり諦めが早いんだよ。嫌なら全力で抵抗すればいいじゃないか…っ!

「海馬…お前、このままじゃオレに犯られちまうんだぜ!? 分かってんのかよ!」
「………っ」
「嫌なら嫌ってちゃんと言え! 同じ男なんだから、死ぬ気で抵抗すればオレだってこれ以上は何も出来ねーよ!」
「………」
「なぁ…海馬…?」
「………」
「おい…? オレの言う事ちゃんと聞いてる? お前今…滅茶苦茶危険な目に合ってるんだって事…分かってるか?」

 海馬が余りにも何も言わないので、オレは少し焦れてきた。それと同時にさっきまで脳内を真っ赤に染めていた衝撃は無くなり、少しずつ冷静になって来る。押さえ込んでいた腕を解放し、オレは身体を海馬の上から退けた。まるで床に引っ付いたかのようにびくともしない背に腕を差込み、そのまま海馬の上半身を起き上がらせてやる。浮いた背骨や肩胛骨が掌に触れ、そのまま持ち上げた時の上半身の余りの軽さにショックを受けた。
 コイツがこんなに軽かったなんて…知らなかった。だって上背も結構あるし、手も足も長いし、いくら細身でも男だからそれなりに重いと思っていたのに。
 でもそんなオレの予想に反して、今支えている海馬の背はとても薄く、そして驚く程軽かった。浮いた骨を労るように海馬の背を撫でながら、蒼白になっている顔を覗き込む。その途端…何だか良く分からない良い匂いが、ふわりと鼻孔を擽った。考えなくても分かる。それは…海馬自身が纏っている、コイツの体臭だ。
 そのいい匂いに気付きながらも、オレはそれに夢中になる事は出来無かった。オレに背を支えられている海馬は相変わらず顔面蒼白で、口元を掌で覆いながらただ黙って俯いている。

「なぁ…おい…大丈夫か?」

 ここに来て漸く頭が冷静になって、オレは心底心配になって来てなるべく優しく問い掛けてみた。ただ見ているだけじゃ分からないけれど、その肩に触れてみればよく分かる。細い身体は可哀想なくらいに小さく震えていた。

「ゴメン…っ!! 海馬…ホントにゴメン!!」

 流石に反省して本気で謝った。
 馬鹿だ…オレ。こんな事するつもりなんて無かったのに。今まで溜ってた鬱憤が海馬の言葉で刺激されて、一気に爆発してしまった。勿論それは今までオレに冷たく当たってきた海馬の所為もあるんだろうけど、だからと言ってこんな事をしていいという理由にはならない。
 いくらなんでも…これはやり過ぎだ。

「ゴメンな。もうしないから…マジでゴメン」

 一生懸命背中を撫でてやりながらそう言っても、海馬はウンともスンとも言わない。ただ俯いてじっとしてるだけ。仕方が無くオレはそこから離れて、台所と繋がっている居間に向かった。その部屋の端っこには海馬から送られた着替えの荷物がそのままの状態で置いてある。段ボールを開け、中から薄いブルーのカッターシャツを取り出した。そのシャツを手に、もう一度玄関に戻る。

「ほら、コレに着替えろ」

 海馬が着て来た白いカッターシャツは、オレの乱暴の所為でボタンが全て弾け飛んでもう着られなくなってしまっている。そのままの状態で帰す訳にはいかないので、そっと目の前に新しいシャツを差し出した。
 海馬は暫くそのシャツを眺めて、やがてのろのろと手を出してそれを受け取った。そして着ていた白いカッターシャツを脱ぎ、オレが持って来たブルーのシャツに着替える。小さなボタンが少しずつ嵌められていくのを見ながら、オレは小さく溜息を吐いた。

「なぁ…海馬。今日はもう帰れ」

 オレの言葉にボタンを嵌めていた海馬の指がピクリと動き、そして止まった。相変わらず俯いたままだったけど、その肩や指先が震えているのが目に入ってくる。

「オレ達…恋人同士なのにちょっと離れ過ぎだ…。このまま一緒にいても上手くいくとは思えないし、オレも我慢出来そうに無いから…。だからもう帰れ」

 玄関の扉に手を掛けながらそう言ったら、海馬は最後のボタンを嵌めてゆっくりと視線を上げた。未だ涙に濡れている青い瞳が、じっとオレの事を見詰めて来る。その瞳に浮かぶ感情に、相変わらず怒りは無い。ただ…オレにも上手く読み取れない複雑な感情が渦巻いていた。

「着替えは預かっておくから…。お前の仕事が一段落したら、少し話し合おう」
「………」
「今日無理に泊ってっても、お互い絶対後悔する事になるぞ」
「………」
「な、海馬。分かってくれ」
「………分かった」

 漸くボソリとした声で一言答えた海馬は、その場でゆらりと立上がった。そしてオレの脇を通り過ぎ、フラフラと玄関を出て行く。本当は見送ってやりたかったけど、そんな事してもきっとお互いに気不味くなるだけだと思って我慢した。
 階下から海馬が携帯で喋っている声が聞こえる。車を回すように命令しているから、迎えの車はすぐに来るだろう。暫くしてから聞こえて来た、如何にも高級そうなリムジンのエンジン音に安心して、オレはそっと扉を閉めた。



 扉を閉めて振り返って、目に入ってきた惨状に頭が痛くなる。無残に破けた白いカッターシャツ。あちこちに散らばっている小さなボタン。全て集めて、ちゃんと縫い付けてやらないとなぁ…と深く嘆息した。
 でも今日はもういい。バイトの事とか海馬の事で、物凄く疲れた。大人の海馬はまだ帰って来てないけど、今日はもう風呂に入って寝てしまおうと思った。
 廊下から破れたシャツを拾い上げて、その足で台所と居間を通り、自室の襖の前まで歩いて行く。そしてすらりとそれを横に開いた途端、目に入ってきた光景に身体が固まってしまった。
 バイトに行く時にきっちり閉めた筈の窓は全開に開いていた。吹き込む風で大きく揺らめくカーテンの脇に、見知った影が佇んでいる。

「海…馬…?」
「………」

 それは今さっき見送った、オレの恋人の海馬では無い。最近ここに居候している、違う世界から来た大人の海馬だ。

「いつ…帰って来たの?」
「少し前だな…。丁度お前が帰って来る直前だ」
「何で…こんなところから…」
「仕方無いだろう。帰って来たら、玄関にこちらのオレが佇んでいたのだからな。その脇を堂々と通り抜けていく訳にもいくまい」

 玄関に『こっち』の海馬がいたから、大人の海馬は窓から入って来たのだと言う。それってつまり…さっきまでの会話とか、廊下でのやりとりとかを全部聞かれてたって事じゃないのか…?
 灯りの付いてない部屋で酷く複雑な表情でオレを見詰めるもう一人の海馬に、オレは自分の考えが杞憂では無い事を知った。

「話…聞いてたんだ…?」

 オレの質問に、海馬は暫く考えて…そしてコクリと頷く。

「聞いていた」
「そっか…。オレが海馬に…自分の恋人に何しようとしてたのかも…分かった?」
「………あぁ」

 返って来る声が重い。海馬も先程の喧噪が軽い問題じゃ無い事を感じているらしかった。時間が経つにつれて、目の前の海馬の表情はどんどん重く沈んでいく。青い目に浮かぶ感情は、複雑で上手く読めない。まるでさっきの…玄関でオレを見上げていた海馬と同じような瞳だった。

「笑っちゃうだろ…。オレ達は確かに恋人同士だけど…全然上手くいってないんだ。セックスどころかキスもまだとか…。手だって繋いだ事無いのにさぁ…」
「………」
「本当に…アンタ達が羨ましいよ。話聞いてるだけでも、ちゃんと上手くやってるんだなーって伝わってくるもんな。お前の…あっちのオレの事を喋っている顔は、凄く幸せそうなんだ。見ているだけでオレまで幸せになるみたいな笑顔なんだよ。…オレは、そんな笑顔をアイツに向けられた事が無い」
「………」
「辛くて…悲しくて…それでも大好きで。こんなに愛しているのに、別れが目の前に見えていて…。オレはもうどうしたらいいのか分からなくて…っ!」

 生温い風が吹き込む狭い部屋。その中を一歩一歩進んでいき、窓枠に寄り掛かっている海馬の腕を掴んで…そして強く引き寄せて抱き締めた。背中に手を回すと、浮いた背骨と肩胛骨が触れる。その骨の感触までこっちの海馬と全く同じで、オレは滅茶苦茶泣きたくなってしまった。

「海馬…。海馬…っ!!」

 細い身体を力一杯抱き締めて、そっと視線を上げてみる。目に入ってきたのは白い首筋。そこに鼻先を擦りつけると、ふわりと何とも言えない良い匂いが沸き立って来た。
 これは…よく知ってる。さっき嗅いだばかりの…海馬の体臭だ。
 今度こそその臭いに夢中になって、白くほっそりとした首筋に唇を押し付けた。軽く吸って舌を這わす。塩辛い汗の味が舌に乗って、頭がボワーッと熱くなる。

「海馬…。なぁ、オレを慰めてくれよ…」

 舌先に感じる海馬の脈動が愛しい。何度もそこに口付けながらそう言ったら、細い手がゆるりと持ち上がってきてオレの頭をそっと撫でてくる。その動作はどこまでも優しい。けれど…それが余りに優し過ぎて違和感を感じ、オレはもう一度海馬の顔を見上げてみた。
 その途端、真っ直ぐな青い瞳と目が合った。その視線の強さに、オレは自分の心臓がドクリと高鳴ったのを感じる。

「慰めるだけでいいのか?」
「え…?」

 感情を全く感じさせない、冷静な声が狭い部屋に響いた。

「だから、慰めるだけでいいのかと聞いている」
「………。海馬…?」
「傷付いたお前を慰める為に、服を脱ぎ布団に横たわって足を開くのは簡単だ。オレもお前なら別に受け入れても良いと思っている。だがお前はそれでいいのか? 果たしてそれで満足出来るのか?」
「そ…それは…」
「問題を根本から解決しないと、いつまでもこのままだぞ。お前が愛しているのは『こちら』の海馬瀬人だろう? オレでは無いだろう?」
「海…馬…っ」
「それとも、お前はもう…幸せになる事を諦めてしまったのか?」

 静かな問い掛けだった。真に心に迫ってくるような…そんな言葉だった。
 海馬に告白する前のオレだったら、多分その問いには「絶対諦めない!」と強く答えていただろう。だけど今のオレは余りに自信を無くし過ぎてて…すぐには答える事が出来無かった。

「わから…ない…」

 再び泣きそうになって、オレは目の前の海馬に強くしがみついた。優しい手がまたオレの髪を梳いてくれる。

「諦めたくは無い…っ。でも、どうしても自信が無いんだ…!」
「城之内…」
「どうしてこんな事になっちゃったのかな…。どうして幸せな恋人になれないんだろう…。こんなに…愛してるのに…っ」
「………」
「オレ達は…どうしたって幸せにはなれないのかなぁ…」
「そう…かもしれんな…」
「え………?」

 突如返って来た答えに、オレは慌てて視線を上げた。目に入ってきた海馬は優しく微笑んではいたけど、その顔はどこか寂しそうに見える。
 何でだ…? 何でコイツがこんな顔してるんだろう…。だってコイツは…コイツと向こうのオレは、物凄く仲が良い筈なのに。

「やはりオレ達は…オレと城之内は、共に幸せにはなれないのかもしれないな…」

 オレの疑問を他所に、海馬はそう小さく呟く。
 狭い団地の部屋の暗闇にすぐに溶けたその一言は、だけどオレの脳内に引っ掛かって消え去る事は無かった。