*奇跡の証明(完結) - ページをめくる - 第七話

 窓の外が明るくなり小鳥の声が騒がしく聞こえ始める頃、瀬人は寝台からそっと起き上がった。
 前日の疲れは抜けきって無かったが、一晩中悩んでいたせいもあり余りよく眠れぬまま朝を迎えてしまった。
 取りあえず水浴びをしてさっぱりしたいと思い、夜着を脱ぎ捨て、瀬人は部屋付けの浴室に足を進める。
 本当だったら湯を使いたいところだったが、こんな早朝に女官達を起こして湯を沸かして貰うのは気が引けた。
 浴槽に貯められていた水を桶に汲み、頭から思いっきり被る。
 冷たい水だったが、お陰で頭の中がすっきりとしてきた。
 何度も何度も水を被っていると、突如部屋の扉が開き誰かが急ぎ足で入ってくる気配がした。

「瀬人様! 何をしていらっしゃるのですか!!」
「マナ…?」

 手に身体を拭う為の布を持ったまま浴室内に入ると、マナはそのまま瀬人に駆け寄り布地を瀬人の身体に巻き付けた。
「こんな早朝に水浴びなど…! お身体が冷えてしまわれます。早く上がられて下さい」
 マナに連れられて部屋に戻ると、丁度他の女官が暖炉に火を入れている所だった。
 女官は瀬人とマナの姿を見ると一礼をし、部屋から出て行った。
「瀬人様…。どうしてこの様な事をなさったのですか…」
 瀬人を暖炉の前まで連れてきて、心配そうに訪ねるマナに瀬人は瞳を伏せた。
 水浴びのお陰で頭の中はすっきりしたが、浴びた水が予想以上に冷たくて、身体は寒さでカタカタと震えてしまっている。

「汗をかいたので…さっぱりしたかったのだ」
「それならば直ぐに私どもを呼んで下されば良かったのです。直ぐにお湯を用意致しましたものを…」
「こんな早朝だったから起こすのはどうかと思ってな…」
「瀬人様…。お気遣いは嬉しいですけれど、それでは何の為の女官か分かりません。今度からは直ぐにお呼び下さいませ」

 乾いた布で瀬人の髪の毛を拭きながら、マナは心底心配そうに瀬人に語りかける。

「初日からこんな事をしでかすようでは先が思いやられますね。殿下…じゃなくて陛下も先程から心配なさっておりましたよ」
「克也が…? 何故克也がこの事を…?」
「瀬人様の部屋から聞こえる水音に最初に気付いたのは皇帝陛下でございます。慌てて隣室に控えておりました私の所まで知らせに参られたのですよ」

 マナからの言葉を、瀬人はどこか信じられない思いで聞いていた。
 瀬人に全く興味が無い筈の克也が、何故そんなにも自分を気に掛けているのかが理解出来なかったのだ。


 暖炉の火で身体の水気をすっかり乾かしてしまうと、マナや他数人の女官によって高貴な衣装に着替えさせられた。
 上等な絹の衣装に身を包み、髪を梳かして貰い、薄く化粧を施して貰って部屋から出る。
 すると、そこにはもう皇帝としての衣装に身を包み、椅子に座って優雅にお茶を飲んでいる克也の姿があった。
「おはよう、瀬人。朝から大変な騒ぎだったな」
 満面の笑顔を浮かべ茶化すようにそう言われて、瀬人は思わずむくれてそっぽを向いてしまう。
 その動作に苦笑すると、克也は「朝食にしよう」と椅子から立ち上がった。
「食事は食堂で食べるか? それともここに運ばせた方が良いか?」
 克也の提案に瀬人は少し考えて、「ここで静かに食べたい」と小さく漏らす。それに克也は頷いて、側の女官に指示を出していた。


 部屋に備え付けられているテーブルの上に、豪華な朝食が並ぶ。
 柔らかいパンが入ったパン籠に火を通した肉や魚が並び、野菜や果物の盛り合わせの皿もいくつも置かれていた。
 質素な食事に慣れていた瀬人は朝からそんなに大量に食べる気にならず、パンとスープ、それにヨーグルトと果物に少し手を付けただけで食事を終えてしまう。
 それを見て克也が眉を顰める。
「お前、それだけしか食べないのか? 身体が持たないぞ?」
 心配そうに訪ねる克也に「余計なお世話だ」と辛口で返すと、克也はまた苦笑しただけでそれ以上は何も言わなかった。
 食後のお茶を飲みながら、瀬人は密かに心の中で自分の気持ちを切り替える事を決意した。
 普通の女性のように『妻』としては愛されないかもしれない。
 だけど克也が浮かべる微笑みは本物で、幼馴染みとして好いてくれているのは間違い無かった。
 例えそれが『友情』に過ぎなくても、克也が自分を心から心配してくれて白龍国から連れ出してくれたのは紛れもない事実。
 どうせこの国には側室制度があるのだ。自分に跡継ぎが産めない以上、克也はその内側室を娶ってその女性を愛する事になるだろう。
 愛は貰えなくても幼馴染みとして心を通わせて、常に側に居て皇帝である克也を支える事は出来る。
 だからもう、それでいいと思ったのだ。

「ところで瀬人、昨日会わせたいと言っていた人物なんだけど」

 瀬人と同じように食後のお茶を飲んでいた克也が、急に思い出したかのように話し始めた。

「このお茶を飲み終わったら謁見の間で会わせてあげよう。どうやら向こうはもう来ているらしいからな。相変わらず気の早い女だぜ…」
「女…? 女性なのか…?」
「あぁ。お前の主治医になる女だよ」

 突然『主治医』など言われて、瀬人は一瞬きょとんとしてしまう。
 確かに奇跡の子である自分は通常の人間より身体が弱いが、それも大人になって大分マシになってきた。医者にかかることもめっきり少なくなっていたので、医者と言われても実感が湧かなかったのだ。
 ただ皇族のような高貴な人間には専属の主治医がつくという話しも聞いたことがあったので、どうせそのようなものだろうと納得する事にする。


 お茶を飲み終わりもう一度衣装を整えて貰って、二人は揃って謁見の間に赴く。
 廊下に控えていた兵士が謁見の間前方の扉を開き、そこから中に入って玉座に向かうと、昨夜は一つしか置かれて無かった玉座の脇に皇后用の椅子が新たに用意されているのが見えた。
 戸惑うように克也を見ると、克也は視線で「そこに座れ」と指示して、自分はさっさと玉座に腰を下ろしてしまう。
 指示に従って隣の席に座り周りを見渡す。
 何故か兵士が一人もおらず、目の前には既に一人の若い女性が居て膝を付いて頭を垂れていた。

「久しぶりだなアイシス。こんな朝早くからご苦労様」
「皇帝陛下もこんな朝早くだというのにご機嫌麗しくあられるようで何よりです。新しい皇后陛下に早くお会いしたかったので、ついこんな時間に来てしまいました」

 随分と和やかに話し始めた二人に瀬人はついて行けずポカンとしてしまう。
 驚きの表情を隠せない瀬人に対して、横から克也が嬉しそうに話す。
「アイシスはオレの幼馴染みなんだ。彼女の父親が前皇帝の主治医でな、昔から良く一緒に遊んだりしてたんだ。オレより少し年上なだけなのに今じゃすっかり有名な医者になっててさ。天才って本当にいるもんなんだなぁ…」
 克也の言葉に瀬人は驚きを隠せなかった。
 目の前にいる女性はまだうら若く、どう見てもそんな高名な医者には見えなかったのだ。
 何も言えずじっと自分を見詰める瀬人に、アイシスはにっこり笑いかけ再び頭を下げる。

「初めまして皇后陛下。今日から陛下の主治医となりましたアイシスと申します。以前は内科と産婦人科の医師をしておりましたが、今は『奇跡の子』の専門医をさせて頂いております。今日は皇后陛下のお身体をお調べする為に参りました」

 その言葉を聞いた途端、瀬人はガタンッと音を立てて椅子から立ち上がった。
 そして隣で何食わぬ顔をして座っている克也に怒鳴りつける。

「奇跡の子の専門医だと…っ!? 一体どういうつもりだ!!」
「落ち着け瀬人。いいから座れ」
「今更オレの身体など調べてどうするつもりだ!? 研究材料にでもする気か!!」
「そんな事しねぇよ…。いいから座れって」
「克也…っ! オレは御免だぞ、そんな…っ」
「座れ!!」

 厳しい声での一喝が謁見の間に響き渡る。
 その声に本能的な恐怖を感じて、瀬人は震える身体で再び椅子に腰を下ろした。
「皇后陛下…」
 すっかり青冷めてしまった瀬人を気遣うように、アイシスが優しく語りかける。
「我々黒龍国の奇跡の子の専門医は、決してそのお身体を研究材料にする為に悪戯に調べるような事は致しません。信じて下さいませ」
 信じろと簡単に言われても、瀬人にはそれを信じる事など出来なかった。
 今から九年前、自分が白龍国法皇になったばかりの頃。白龍国の医師達の手によって何時間も拘束され、身体の隅々まで調べられた事があったのだ。
 一日では終わらず、その後何日にも渡って興味本位で診察という名の辱めを受けた。
 流石に法の国である為に、性的な目的で触られたり身体の中にまでその手が伸びる事は無かったが、その時の恐怖と嫌悪は瀬人の心の傷になってしまっている。
「皇后陛下、どうかご安心なさって下さい…」
 いつの間に近くに寄っていたのか、足下に跪いたアイシスが瀬人の震える手を優しく包み込んでいた。

「皇帝陛下は皇后陛下のお身体が未熟なのをご心配なさって、このままでは身を繋げる事が出来ないと思ってらっしゃるだけなのです」
「………? なん…だと…?」

 慌てて隣の席を見ると先程までの威厳はどこにいったのか、顔を真っ赤にして他所を向いている克也の姿があった。
「克也…」
 思わず呟くと、克也がそれに合わせたかのようにゴホンとわざとらしく咳払いをする。
「とにかく…。今日はこのままアイシスの診察を受けて、これからも月に一回診察を受け続けるように。これは命令だ、瀬人。質問は受け付けない。以上だ」
 照れ臭そうに早口でそう言い切ってしまうと、克也は玉座から立ち上がり謁見の間を出て行ってしまった。
 瀬人は克也を誤解していた事に気付いた。
 昨夜の行動でてっきり自分の身体には興味が無いものだとばかり思っていたが、そうではなく、少なくても夫婦として身を繋げたいと克也が思っていた事を知る事が出来た。
 寝室を別にしたのは、多分診断が下るまでは自分に手を出さない為の克也なりの苦肉の策であろう。
「かつ…や…」
 扉の向こうに消えていく背を見送って、瀬人は嬉しさの余り自らの身を強く抱き締めた。