瀬人の目の前にいた人物は、一人前の男として成長し皇帝として立派に振る舞う克也の姿だった。
昔、白龍国にいた頃の克也からは考えられない程の威圧感が瀬人を襲う。
その気に当てられて、瀬人は一端は顔を上げたものの再び俯いてしまった。
本能的に感じる気迫に、とてもじゃないがその顔を見続ける事は出来なかったのだ。
「遠路はるばるご苦労であった。よくこの黒龍国へ来てくれたな。礼を言うぞ」
「い…いえ…。皇帝陛下のお召しとあれば、私も断わる道理がございませんので…」
顔を俯けたまま何とかそれだけを答える。自分でも滑稽に思うくらいに声が震えていた。
瀬人の言葉を聞いた克也は、その場でスッと右手を挙げる。その途端周りにいた大臣や兵士がぞろぞろと謁見の間から出て行った。
残されたのは玉座に座っている克也と、その前で跪いている瀬人の二人だけ。
克也は玉座から立ち上がると、俯いたまま顔を上げる事が出来ない瀬人の側に近寄ってきた。そしてその目の前で腰を下ろすと、先程とは全く違う声色で話しかける。
「瀬人、もういいぞ。顔を上げな」
昔と全く変わらぬ優しい声で話しかけて、瀬人は思わず顔を上げてしまう。
そこにいた克也は以前と変わらぬ優しい微笑みを浮かべていた。
「長旅で疲れただろう? ここから先は楽にしていていいからな」
ニコニコと笑いかけながらそう言われて瀬人は混乱してしまう。
先程玉座に座っていた皇帝の克也とこの克也のイメージが、全く重ならなかったのだ。
「それにしても…。瀬人、久しぶりだな。オレはお前が来るのずっと待っていたんだ」
「へ…陛下…。あの、私は…」
「何だよ、堅苦しい話し方は今はやめようぜ。他の人間が居る時は仕方無いけどさ、せめて二人で居る時は昔みたいに普通に喋ろうぜ」
「そんな訳には参りません。陛下、私はもう法皇の地位を降りて、皇帝陛下とは身分が違うのです。昔みたいになど…そんな無礼は出来ません」
「瀬人~。何だよ~、無理に正妃にした事を怒っているのか? 陛下とかやめてくれよな。昔みたいに克也って呼んでくれよ」
「そ…そんな恐れ多いこと…無理です」
頑なに敬語をやめようとしない瀬人に、克也は苦笑して後ろ頭をガシガシと掻いた。
何か困った事に遭遇するとそうやって後頭部を掻く癖は変わらないんだなと、瀬人は少し嬉しい気持ちでそれを見る。
「まぁいいや。とりあえずお前に会わせたい奴が居るんだ」
以前と全く変わらず気持ちの切り替えも早い克也はそう言うと、手を二度ほどパンパンと叩いた。
すると奥の扉から女官が一人入ってくる。
「お呼びですか? 殿下」
その女官の姿と可愛らしい声には、瀬人も見覚えがあった。
「マナ…。マナか…?」
「あぁ…法皇猊下! お久しぶりでございます!」
瀬人を見てすぐに笑顔を浮かべたマナが、小走りで瀬人の側にやって来る。
すっかり大人の女性にへと成長したマナが、瀬人を見て嬉しそうに笑っていた。
それを見て、克也が瀬人に声をかけた。
「瀬人。マナには今日からお前専属の女官として付いてて貰う事になった。何か困った事やして貰いたい事があったら遠慮無くマナに伝えれば良い。やっぱ知らない人間より知ってる人間が側に付いてる方がいいだろ?」
克也の言葉を受けて、マナがコクリと一つ頷くと瀬人に話しかける。
「法皇猊下。私、猊下がこの国で何不自由なく過ごせるように心を籠めてお仕えする所存でございます。何かありましたら遠慮無く何でもおっしゃって下さいませ」
「マナ…。オレはもう法皇では無い。だから猊下とは呼ばないでくれ」
「あ、そうでしたね! 申し訳ありません、迂闊でした。瀬人様のお顔を拝見したら懐かしくて、すっかり昔の感覚に戻ってしまって…。殿下にもよく注意されますものを…」
そこまで言ったところで、克也が「マナ」と少し厳しめに声をかけた。
「お前も物覚えが悪い奴だな。オレはもう皇帝になったんだから殿下じゃなくて陛下だろう?」
「そうは申しましても殿下…」
「陛下!」
「殿下からは一向に皇帝陛下としての威厳が感じられませんので、私としても意識の切り替えが出来ないと申しますか何て言うか…」
「また殿下って言ってる! 陛下だと言っているだろう!?」
「そんなに陛下と呼んで欲しかったら、少しは皇帝らしい威厳を学んで下さいな! いつもいつも落ち着きが無くて、皇太子時代と全く変わっていないじゃありませんか!」
「マナ! お前いい加減にしろよ! それ以上殿下と呼んだら不敬罪で牢屋にぶち込んでやるからな!!」
「やれるものならやってみて下さい! そんな事をしたら母が何と言いますやら…ね」
「なっ…! お…お前…っ! 婆やを出すのは卑怯だぞ!!」
「何だ貴様、乳母に頭が上がらないのか? 皇帝だというのに相変わらず情けない男だな」
まるで昔に戻ったかのように目の前でぎゃあぎゃあと喧嘩をし出す二人に、瀬人も呆気に取られてつい意識が昔に戻ってしまった。
そして何とはなしにポロリと口から滑り落ちてしまった最後の言葉に、そこにいた三人が一同に止まってしまう。
それまでの騒がしさが嘘のようにしーんと静まりかえった謁見の間で、瀬人は漸く自分が何を言ったのか気付き、慌てて自分の口を掌で押さえた。
だが出てしまった言葉は今更元には戻らない。
「も…申し訳…ありま…せん…」
顔を真っ赤にして必死に謝る瀬人に、それまで固まっていた克也がプッと吹き出した。
「っ…。くっ…。くはっ…。あっはははははは!!」
耐えきれずに大声で笑う克也につられて、マナも口元を掌で覆いながらおかしそうに笑っていた。
ひーひー言いながら呆然している瀬人の肩をポンと叩き、克也は至極嬉しそうに言った。
「そうだ。それでいいんだ瀬人。お前はずっとそのままでいてくれ」
その言葉を聞いて、瀬人は漸く自らの肩の力が抜けていったのを感じていた。