*奇跡の証明(完結) - ページをめくる - 第ニ話

 正妃要望の書に書かれていた瀬人の名に、白龍国の法皇宮は俄にざわめきたった。
 仮とは言え、時の法皇を正妃に望まれるなど、この三百年間一度も無かった事例だったからだ。

「オレは…行く事は出来ない…。モクバが十五歳になるまで法皇の地位に就きこの国を護ると決めたのだ」
「ですが猊下…。我が国に拒否権は認められておりません」
「法皇猊下、大臣のおっしゃる通りです。ここは黒龍国皇帝の意向に沿うしか道はございません」

 大臣や神官を交えた会議でも堂々巡りが続き、瀬人はいい加減疲れを覚え始めていた。
 黒龍国から呈示された返事の刻限が着実に近付きつつある。
 とは言え話し合いは平行線を辿り、今日も結局夜遅くまで話し合った結果、何も解決することは無かった。
 疲れた身体を引き摺って自室に帰ろうとすると、その扉の前で一人の少年が立っているのが見える。
「モクバ…」
 思わず立ち止まると、十二歳になった最愛の弟は優しげに微笑みながら瀬人に近付いて来た。

「兄サマ。夜遅くまでご苦労様」
「分かっているなら早く寝なさい。子供が起きている時間では無いぞ」
「ごめんなさい、兄サマ。少し…話がしたくて…」

 モクバは少し俯いて何かを考えているようだったが、突如顔を上げると強い瞳で瀬人に訴えかけた。

「兄サマ…! オレの事は構わないで黒龍国へ行って…!」
「お前…急に何を…っ」
「兄サマ、オレ知ってるんだよ。克也が兄サマを正妃に欲しがっていた事も、兄サマがそんな克也の事をずっと好きだった事もね。兄サマは行くべきだ。ここから…出て行かなくちゃいけない」
「モクバ…。だがオレは…、お前を守ると誓ったのだ! お前が十五で成人し立派な法皇になるまで、お前とこの国を守り抜くと…っ!」

 瀬人の必死な言動に、モクバは静かに首を横に振った。
 そして強い意志を込めた瞳で、目の前の兄を見上げた。

「ねぇ兄サマ、覚えてる? 兄サマが小さかったオレの代わりに法皇になったのは僅か八歳の頃だったよ。今のオレは十二歳。充分に法皇としてやっていけると思うんだ。だってオレは兄サマの弟だからね」

 瀬人とモクバは孤児であった。
 とは言っても、決して生まれの血筋は悪くはなく、両親は没落してはいたが一応貴族の出身だった。
 母親はモクバを産んで身体を悪くしすぐに亡くなり、その数年後、息子二人の面倒を見ていた父親も当時指揮を執っていた鉱山での事故に巻き込まれ死んでしまった。
 両親を亡くした兄弟は親戚の家をたらい回しにされた挙げ句、やがて街外れの小さな孤児院へと預けられる事になる。
 だが、そこでの生活は決して悪いものではなかった。
 親戚の家で冷遇されていた頃に比べれば孤児院の大人達は優しかったし、同じような境遇の友人も一杯いた。
 このままここで大きくなって、将来は手に職を付けてモクバを養おう…。
 法皇宮から神官達が二人を迎えに来たのは、瀬人がそう決心をした矢先の出来事であった。
 二人はその日の内に孤児院から法皇宮へ移送され、そして現在に至るのである。


「兄サマ見ててよ。オレ絶対兄サマ以上の法皇になってみせるから」
 胸を張り少し得意げに鼻の下を人差し指で擦る弟を、こんなにも心強いと感じた事は無かった。
 あの小さかった弟は何時の間にかこんなにも立派に育ってしまっていて、自分は毎日を生きることに必死でそれに気付く暇さえ無かったのだ。
「モク…バ…ッ!!」
 思わず崩れ落ちた瀬人の身体を抱き締めて、モクバは優しく語りかける。
「オレ克也の事、結構本気で信じてるんだ。大丈夫。きっと兄サマは幸せになれるよ。だから安心して行ってらっしゃい」
 胸に押し寄せるのは弟が一人前に育ってくれていた感動と少しの寂しさ、そしてこの冷たい法皇宮を出て克也に会いにいける大きな安堵。
 泣きたくないのに勝手に流れ出る涙を手で拭いながら、瀬人は随分と長い間モクバの胸で泣いていた。


 一月後、瀬人は法皇としての地位を返上しそのままモクバの戴冠式が行われた。
 漸く真の法皇が即位されたと、大臣や神官達はおろか国民全員に祝福されたその姿は、本当に感動的なものだった。
 新法皇即位の喜びに沸き立つ祭りを横目に、瀬人は一人自室で出立の用意をする。
 本来だったらもっと絢爛豪華に執り行われるはずの結婚の儀も、瀬人の要望によって実に質素なものに変えられた。
 黒龍国に持って行くものも身近な生活用品や服だけで、今までの正妃が持って行ったような何十箱に及ぶ衣装や宝石等は皆無に等しい。
 出発は明日の早朝に迫っていた。
 突如扉がノックされ、それに答えるとモクバが部屋に入ってくる。

「兄サマ…」
「モクバ…。いえ、法皇猊下」

 直ぐに膝を折って臣下の礼を取ると、モクバが慌ててそれを止めた。
「やめてよ兄サマ! オレ兄サマにそんな事させたくて法皇になった訳じゃないんだから。それに克也と結婚して黒龍国皇后になったら、またオレより偉い立場になるんだから…。跪くような真似はやめてくれよな」
 瀬人を再び立たせて改めて周りを見渡してみると、モクバはその荷物の少なさに愕然とした。
 とてもじゃないが隣国の皇帝に嫁ぐ者の身支度ではない。

「ゴメンね兄サマ…。オレがもっと立派な用意してあげれば良かった…」
「気にするなモクバ。元々男として法皇をやっていたのだから、持って行く女物が全く無いだけなのだ」

 今まで男として生きていたのが、明日からは女として過ごさなければならない。
 しかもただの女ではない。
 強国である黒龍国の皇后としてやっていかねばならないのだ。
 果たして奇跡の子である自分に、皇后などという大役が務まるのだろうか…。
 二年ぶりに克也に会えるのは嬉しかったが、それ以上に強い不安感が心を締め付ける。
 そんな瀬人の心を感じたかのように、モクバが瀬人の細い手をギュッと握って微笑みかけてきた。

「大丈夫だよ兄サマ。オレは兄サマの事も克也の事も信じてるから」
「モクバ…。あぁ、いつの間にお前はそんなに立派に成長したんだろうな…。法皇の紫の衣が良く似合っているぞ、モクバ」

 瀬人は再び膝を付きモクバの手を取ってその甲にキスを落とす。

「我が敬愛する法皇に栄光あれ」

 瀬人の心にはもう迷いは無くなっていた。