お許し下さい、我が守護龍よ。
彼に出会ってしまってから、私の運命は変わってしまいました。
敵であると知りながら、それでも彼を愛することを止められなかったのです。
お許し下さい、お許し下さい。
それでも自分は彼を守りたいと思ったのです。
あぁ…、また祈りの言葉が聞こえる。
あれは一体誰の声なのか?
ゆっくりと浮上していく意識の中、瀬人はいつもの夢に戸惑っていた。
最初、あの祈りの言葉は愚皇のものだと思っていた。
だが後に克也も同じ夢を見ていると知った時、あれは愚皇のものだけじゃなく当時の皇帝のものである可能性も強くなった。
敵国の国主であると知りながら互いに愛する事を止められず、それに対して常に苦悩していたであろう二人の祈りには、瀬人も胸を痛めた。
耐えようもない悲しみに襲われていると、ふとその感情を和らげるように二匹の龍が瀬人を見詰めているのを感じるのだ。
最近は三百年前の愚皇と皇帝の記憶だけでなく、こうして目が覚める瞬間に仲良く寄り添ってこちらを見ている真紅眼の黒龍と青眼の白龍の姿を見る事もある。
それが何を意味するのかは分からないが、その二匹の龍の存在でホッと安心するのもまた事実だった。
「人…。瀬人…、瀬人!」
遠くから自分を呼ぶ優しい声に、瀬人はゆっくりと瞼を開ける。
目の焦点を合わすと、そこにはいつも通りに心配そうな顔をした克也が自分を覗き込んでいた。
「大丈夫か? また泣いている…」
無骨な手が優しく涙を拭ってくるのに気付いて、瀬人は安心させるように微笑んで寝台の上で上体を起こす。
「大丈夫だ。またいつもの夢を見ただけだ」
「本当に大丈夫か…? 前はそうでもなかったのに、最近は夢を見る度泣いているな」
「別に泣きたいと思っている訳ではないのだ。勝手に涙が溢れてくるから、オレ自身も戸惑っているくらいだ」
以前は夢を見ても朝は普通に目覚めるだけだったのに、最近は何故か目覚める直前に涙を流すようになってしまっていた。
確かに夢の中で悲しいとか苦しいとか感じる事はあるが、こんなにも泣いてしまう理由が分からない。
それにこの涙は悲しみや苦しさの涙では無く、どちらかというと安堵と感謝の涙のような気がする。
誰かに明確に呈示された訳ではないが、瀬人は本能でそう感じていた。
寝台の上で静かに困惑の溜息を吐く瀬人に克也は心配そうにしながらも優しく微笑んで、起き抜けの為に少し乱れている栗色の髪を撫でた。
「さて。じゃあ着替えて朝食にするか」
克也のその言葉を聞いた途端、瀬人は眉根を寄せて固まってしまう。
朝食という単語から連想された食べ物の味や匂いを思い出してしまって、思わず口元に手を当てた。
「…ら…ない…」
「瀬人?」
「オレは…いらない…」
「またか…」
困ったように深い溜息を吐いて、克也は後頭部をガシガシと掻いた。
近頃、瀬人の調子がおかしい。
小食ながら以前は普通に摂取していた食事が、今は殆ど出来なくなっていた。
食べ物の匂いを嗅ぐだけでも吐き気がするようで、最近は食べやすい果物ばかりを口にしている。
勿論それで身体に良い訳が無いので何とか食事をさせようと試みるのだが、本人が頑として首を縦に振らない日々が続いていた。
数十分後、二人を起こしに部屋に入ってきたマナも心配そうに瀬人を見詰めた。
「少し熱があるようですね…。顔色も冴えないようですし、風邪でもひかれたのかしら?」
瀬人の額に手を当てたマナが心配そうに呟く。
「心配だな…。マナ、これから直ぐアイシスを呼んでくれないか? 前の診察から三ヶ月経つ頃だし丁度いいだろう」
克也の言葉に「畏まりました」とお辞儀をし、マナは急いで部屋を出て行った。
瀬人の身体が成熟し無事に克也と結ばれる事が出来てから、瀬人の定期検診は三ヶ月に一度に変更されていた。
それは、瀬人の身体が安定した事を知ったアイシス自身が言い出した事だった。
瀬人の体調が崩れた時や何か相談したい事がある時はいつでも直ぐやって来て、それ以外は不幸な奇跡の子を救う為の研究に没頭しているのだという。
ここ最近は瀬人の体調も安定していて自分が呼び出される事も無かった為、皇宮に急ぎやって来たアイシスはとても心配そうにしていた。
寝台の上で上体を起こし待っていた瀬人を見て、アイシスは慌てて近寄ってきた。
「皇后陛下…。一体どうなさったんですか? 顔色が余り良くありませんね…」
アイシスの言葉に、瀬人も苦笑して答える。
「どうやら風邪をひいたらしい。食欲が全く無くて困っている」
「全く…? 何も食べたくないのですか?」
「食べたくないと言うよりは、食べられないという感じだな。食べ物の匂いを嗅ぐと吐き気が襲ってきてどうしようも無いのだ。身体も妙にだるくて気持ちが悪い」
瀬人の話を聞いてアイシスは首を傾げた。
何か違和感を感じる。
その違和感が判明する前にとりあえず熱を測ってみるが、確かに微熱はあるようだがそこまで食欲が無くなるほどの熱でもなかった。
微熱と食欲不振と倦怠感。だけど健康上、他のどこにも異変は見られない。
自分はこの症状をよく知っていた。
以前、奇跡の子の専門医をする前に専門的に見ていた患者は、こんな症状を持った女性ばかりだった。
だけど…まさかそんな事がある筈が無い。
確かに瀬人は女性として克也の妻となり、黒龍国皇后という輝かしい地位に就いてはいるけれど、間違い無く半陰陽である奇跡の子なのだ。
それでもアイシスの中ではある種の予感がどうしても脳裏から離れなかった。
「陛下…。一つお聞きしても宜しいですか?」
「何だ?」
「月経は…ちゃんと来ていますか?」
アイシスの質問に瀬人は一瞬「ん?」という顔をする。
そして暫く考えた後、漸く思い出したように口を開いた。
「そういえば…、今月は遅れているな…」
瀬人の言葉にアイシスは心臓が高鳴っていくのを感じる。
これはもしかしたら…っ! もしかしたら『奇跡』が起きたのかもしれない…っ。
今まで沢山の奇跡の子達を見てきたが、誰一人としてこんな症状になったものはいなかった。
だから奇跡の子には絶対に無理だと思っていた。だがこの世に絶対など言い切れるものなど本当にあるのだろうか?
現に今目の前に居るこの奇跡の子は、本当の意味での『奇跡』を起こそうとしている。
「陛下…」
高鳴る心臓を落ち着かせるように胸に手を置いて、アイシスはゆっくりと進言した。
「久しぶりですが、少し内診を致しましょう。横になって下さいませ」
アイシスの言葉に瀬人は素直に頷くと、慣れた感じで寝台に横たわった。
数十分後。
診察を終えたアイシスに呼ばれて、克也が部屋に入ってきた。
寝台の上で自分を見詰める瀬人の真面目な表情を見て、克也は少なからず緊張してしまう。
「克也…」
そんな自分の緊張を見透かしたように、瀬人が克也を手招きをして呼んだ。
近付いて来た克也に対し思い詰めたような表情を崩さず、瀬人は小さく呟いた。
「克也、大変な事になった…」
「な…なんだ…っ? もしかして何か重篤な病気になってしまったのか…!?」
「病気…。あぁそうだ。これから十ヶ月間、オレはこの病気と闘わなくてはならない…」
「十ヶ月もか!? 瀬人…っ!! 一体どんな病気にかかってしまったというんだ…!!」
既に泣きそうな顔でおろおろしだした克也の首に両腕をかけ、瀬人はその頭を引き寄せ耳元に唇を寄せる。
そしてボソッ…と。本当に聞こえるか聞こえないかの瀬戸際の声で、自分の身に起こった異変を克也に伝えた。
それを聞いた瞬間、克也は目を丸くして何度も瞬きを繰り返した。
パチリパチリと、自分が今聞いたことが信じられないように繰り返し、次に恐る恐る瀬人の顔に視線を移してみる。
そこには先程までの思い詰めたような表情ではなく、面白そうに「してやったり」とした顔の瀬人がいるばかりで…。
クックッと笑い出した瀬人の顔を呆然と眺めていると、瀬人の笑いに同調したように後ろからクスッと誰かが笑う気配がした。
振り返るとアイシスや事情を知らされたマナまでもが嬉しそうに笑っていて、そこで克也は漸く今瀬人から知らされた出来事は事実なんだと知ることが出来た。
ゴクリと大きく息を飲むと、克也は急ぎ足で部屋を出て行こうとする。
「ま、待て克也! どこに行くんだ!?」
慌てた風に呼びかける瀬人に一度だけ振り返り、克也は大声で叫んだ。
「どこに行くって…誓いの泉に決まってるだろ!? オレはこれから自分の妻と腹の子の無事を祈る為に、十ヶ月間の願いの儀に入る!!」
瀬人から懐妊の報告を聞いてまず最初に脳裏に浮かんだのは、瀬人の奇跡の子としての身体の事。
普通の女性体ではない瀬人が妊娠し出産をするとなれば、それ相応のリスクを伴う事は必然だ。
ならば男として何も出来ない自分は、せめてそれを少しでも軽減する為に真紅眼の黒龍に願いを立てなければいけないのだ。
瀬人が止めようとしているのを振り切って、その後、克也は結局願いの儀を発動させてしまった。
それから十ヶ月後。真紅眼の黒龍が克也の祈りを聞き届けてくれたのか、二人の間には元気な男子が産まれたという。
瀬人の身体も何の問題も無く、今もこうして幸せに暮らしている。
スヤスヤと眠る我が子を胸に抱いて、瀬人はあの夢の中の黒龍の言葉を思い出していた。
『だが嘆くな白龍の子よ。もし今のそなたと同じ試練を来世のおぬしも耐えきることが出来たなら…その時こそ我と白龍との力で本物の奇跡を起こしてみせようぞ』
真紅眼の黒龍と青眼の白龍は、あの時の約束をきちんと果たしてくれたのだった。
その証拠かどうかは知らないが、子供が生まれてからは例の夢はパッタリと見なくなっている。
だけど二匹の龍のその存在は、瀬人も克也も常に身近に感じていた。
胸に抱いた我が子の温かな熱と愛しい重さに泣きそうな程幸せを感じながら、瀬人は澄んだ空を見上げる。
そして確実に自分達の側に存在しているだろう二匹の龍に向かって、小さく感謝の言葉を呟いた。
誰にも聞かれることの無いその小さな声は、しかし二匹の龍にはしかと届いていたのだった。
黒龍国にはある一つの伝説がある。
前世の罪を愛の力で見事に打ち消した時の皇后と、その皇后を見守っていた二匹の守護龍が与えた優しい奇跡の物語である。
どんなに自分が辛く悲しい目に会おうとも、夫である皇帝を愛し信じ続けた皇后の強く美しい物語はあっという間に黒龍国全土へと広がっていき、やがて隣国の白龍国や冥龍国にも伝わっていった。
人々はその伝説を思い出す度に『奇跡』が証明されたと口にする。
皇后が前世の罪を引き継ぎ奇跡の子として生まれた事も。
それでありながら皇帝に心から愛された事も。
戦争に行った皇帝の為に、三年もの長い間願いの儀をし続け、その儀式を成功させた事も。
そしてその功績で前世の罪が許され、二匹の龍が子供を授けた事も。
時の皇后の存在そのものが『奇跡』であり、全ての事象はその『証明』だと人々は言った。
そして人々はその伝説を親から子へ、そのまた子供へと伝えていくのだ。
伝説の皇后が起こした『奇跡の証明』を…。