三年に渡った冥龍国との戦争が終わって五年の歳月が経っていた。
この五年という長い期間には、黒龍国を中心とした周辺に様々な出来事が起こっていた。
冥龍国においては戦争終結約一年後、幽閉されていた冥龍国の元国主が心臓の病を悪化させて、静かに息を引き取った。
首都郊外の生家に幽閉されていた元国主は亡くなる直前に、黒龍国皇帝宛てに長い文を送っている。
その文には、冥龍国を強国にしようと無理に戦争を始めた決断から、敗戦後に心から感じた後悔までが事細かに記されていた。
更に処刑ではなく幽閉という寛大な処置を施してくれた事、そして幽閉場所も牢屋などでは無く幼い頃からの思い出の詰まった生家であった事なども、合せて感謝の言葉が述べられていた。
冥龍国の元国主が亡くなった報を聞くと、黒龍国皇帝はすぐさま冥龍国に対し元国主を国葬とする許可を出し、更に追悼の書状を現国主に対して送っている。
それに対して冥龍国の現国主は、黒龍国に対して深く感謝の言葉を述べたという。
冥龍国はその後、黒龍国の監視の下、順調に国を立て直している。
民にも特に表立った不満は無いようで反乱等も皆無であり、近い将来にもう一度独立し直す事が可能だと思われた。
そしてもう一国。あの戦争において重要な働きをした白龍国は、ついに黒龍国の属国という地位から抜けだし正式な独立を果たしていた。
白龍国との国境に近い街で行なわれた調印式で、すっかり立派な青年に成長したモクバは白龍国法皇として、克也とそして同席していた瀬人に対してある提案をした。
「今の黒龍国と白龍国の間には、本当に理想的な友好関係が築かれています。白龍国としては、出来ればその友好関係をこれからも持続していきたいと思っているんです。そこで、どうでしょう? 今まで両国間に築かれてきた盟約に関しては、このまま続けてはみませんか?」
「ほう…。このまま…とは?」
モクバの提案に、克也は興味深そうに首を掲げてみせた。
その琥珀の瞳の中に否定的な色が無いのを見て、モクバは穏やかな笑みを浮かべながら提案を続ける。
「例えば貿易関係。両国間による輸入と輸出のバランスは丁度良く取れていて、自分としてはこのままの状態で現状維持したいのです」
「確かに。黒龍国で豊富に取れる農作物と白龍国で採掘される鉱物の交換は、両国家にとって無くてはならない必需品だ」
「えぇ。あとは黒龍国皇太子の留学の件も、我が国としては是非今まで通り続けて頂きたいのです。友好関係の持続という観点もございますが、黒龍国皇帝としても、我が国で学んだ知識は全く無駄になっていないと思うのですが…。如何でしょうか?」
「あぁ、確かにそうだな。むしろ三百年前に黒龍国皇太子が白龍国への留学をするようになってから、黒龍国では賢帝が増えたという記録があるくらいだ」
武の国である自らの国を自虐気味に茶化してみせて、克也は面白そうに笑ってみせた。
その言葉の裏に留学の持続を認められたのを感じて、モクバはホッとする。
一度深く呼吸をして、モクバはちらりと克也の隣に座っている瀬人を見た。
あの日の別離を忘れた事など一度も無かった。
僅か十二歳で体験した最愛の兄との別れを、悲しまなかったと言えば、そして悔やまなかったと言えば嘘になる。
だが今、克也の隣で穏やかに微笑んでいる瀬人を見て、モクバには兄が幸せでいる事を感じ取っていた。
そして出来るなら、この先もこんな風に幸せになれる女性が一人でも多く現れる事を願っていた。
「それから…。白龍国から黒龍国へ嫁ぐ正妃の事なんですけど…」
モクバの言葉に克也も隣にいる瀬人をちらりと見遣り、同じように視線を動かした瀬人と目を合せる。
そして柔らかに微笑み合うと、その笑顔のまま克也はモクバに向き直った。
「あぁ。この制度も、もうこれで終わりにしよう」
「いえ…っ! 出来ればこのまま続けて欲しいのです!」
「ん…? どういう事だ?」
「白龍国から黒龍国に嫁ぐ正妃には、確かに人質的な意味合いが強かったのかもしれません。だけどここ最近の記録を見る限り、決して不幸な結果ばかりになっている訳じゃないんです。前皇帝の正妃は身体が弱くて早世致したようですが、それでも皇帝に唯一愛された后でした。その前の皇后も、確か時の皇帝の寵姫として敬われていた筈です。そして…皇后陛下」
突然モクバに話しかけられて、瀬人は緊張した面持ちで向き直った。
「皇后陛下…。貴女は今…幸せですか?」
優しく尋ねられたその問いに、瀬人は笑みを深くしてしっかりと頷いた。
「あぁ、勿論だ」
「嘘ではありませんよね?」
「当たり前だ。嘘など言う意味が無い。それとも信じられないのか?」
「まさか。貴女の笑顔を見て直ぐに分かりましたよ」
瀬人の笑顔に心底安心して、モクバは満足したように克也に言い放った。
「現に今の皇后陛下は幸せ一杯だそうですよ、皇帝陛下。ですから白龍国としてはこのまま正妃を黒龍国へ送り出したいのです。黒龍国からは皇太子を六年もの間預かり、代わりに白龍国からは正妃を嫁がせる。これ以上の友好関係は無いと思われますが、如何でしょうか皇帝陛下?」
「ははっ…。確かにこれ以上の関係は無いな。だがそれでは今までと全く変わらない。せっかくだからもう一つ制約を付けよう」
「もう一つ…? 何ですか?」
「黒龍国はこれまで通り、白龍国に対して正妃の要望をする。ただし、今までとは違ってそちらでの拒否権は有りだ。気にくわなかったら嫁に来なくてもいいぞ」
一瞬緊張したモクバに克也はゆっくりと言葉を紡ぎ出して、面白そうに笑みを深める。
その言葉を聞いてモクバもやっと安心し、「その提案をお受け致します」と深々と頭を下げた。
調印式が終わった部屋の中で、モクバは瀬人と二人きりになっていた。
久々の兄との対面に緊張しない訳では無かったが、それでも法皇として様々な体験をしていたモクバは落ち着いて瀬人に話しかける事が出来た。
「久しぶりだね兄サマ。あ、今はもう姉サマ…かな?」
「モクバ…。別に『兄サマ』で構わない。オレは別に女になった訳ではないからな」
「そうだったね。えーと…元気にしてた? 黒龍国ではどう? 何か不都合な事とか無いの?」
モクバの問いに瀬人は黙って首を横に振った。
「いや。皆が皆オレに良くしてくれる。お前が心配するような事は何も無い」
「そう。良かった。幸せそうで何より」
その言葉に「ありがとう」と答える瀬人を見て、モクバは漸く肩の荷が降りたように感じた。
本当はずっとずっと心配していたのだ。
その気持ちを伝えることは出来なかったけれど。
でも今なら、それを伝えることが出来る。
「ねぇ兄サマ。オレ心配してたんだよ。兄サマが黒龍国に嫁いで僅か半年後に戦争が始まってしまって…。しかもそれが三年も続いて…。知っている人間が誰一人としていない黒龍国の皇宮で、兄サマは一体どうしているんだろう…ってね」
モクバの問いに瀬人は一瞬目を剥いたものの、次の瞬間には安心させるように微笑んでみせた。
「知っている人間ならいたぞ。覚えているかモクバ。克也と一緒に留学に来ていたマナという女性を。彼女がオレの専属女官になっていてくれたからな。何の気兼ねなく皇宮で過ごす事が出来た」
「うん、覚えてるよ。そっか、彼女が一緒だったのか。なら大丈夫だね」
肩を竦めてそう言い放つと、モクバは瀬人の側に寄ってきて、その白い手をとった。
細く少し冷たい手を、自分の温かい手で守ろうとするように力を入れて握りしめる。
「ねぇ兄サマ。たまには里帰りしにおいでよ」
「里帰り?」
「うん。オレも久々に兄サマと一緒に過ごしたいし、克也に許し貰ってさ。あ、兄サマが言いにくいんだったら、オレが言っても…」
「いや、里帰りの件に関しては克也からも申し出があった。たまには白龍国に帰ったらどうだ…とな」
「じゃあ、兄サマ…」
「だけど、オレがそれを断わった」
「え…?」
兄の口から出た最後の言葉に、モクバは驚いてマジマジと瀬人の顔を見詰めてしまう。
せっかく克也自らが出した里帰りの許可を、瀬人が断わる理由が分からなかったからだ。
驚いた表情のまま見詰めるモクバに対して、瀬人は揺るぎない意志を含んだ青い瞳で弟を見つめ返す。
「本当は調印式にも来る予定は無かった。だが調印式が行なわれる街がギリギリ黒龍国の領土だったから、それならば…と来る事にしたのだ」
「何で…兄サマ…?」
「何で? そんなの決まっている」
強い意志を宿した瞳を青く光らせて、自信を持って瀬人はモクバに告げた。
「オレが黒龍国の皇后に他ならないからだ。オレはあの戦争の時、黒龍国の守護龍である真紅眼の黒龍に誓ったのだ。この先の一生を克也と黒龍国の為に捧げ、この身を黒龍国の土に埋めるとな。この誓いは黒龍に対してだけのものではない。オレ自身に対しての誓いでもある。だからオレはもう二度と黒龍国以外の土は踏まぬと決めたのだ。それが例え我が故郷の白龍国であろうと…」
握られたモクバの手を逆に強く握り替えして、瀬人はまるでモクバに言い聞かせるように強く言う。
「この誓いはお前にも、そして黒龍国皇帝である克也にも覆すことは出来ない。オレがオレの為だけにたてた誓いだ。そのオレの誓いを乏しめる事は誰にも許されない。それが例えお前でも…な」
黒龍国皇后としての強い意志を宿した瀬人の顔を見て、モクバは漸く納得する事が出来た。
今ここにいるのは、昔白龍国に居た優しいだけの兄ではない。
黒龍国皇后としてどこまでも強く、夫である皇帝と国と民を愛し信じ守ろうとする、何よりも気高く尊い高潔な存在だった。
その意志を汲み取り、モクバは諦めた様に微笑んでそっと握っていた手を離した。
「分かったよ兄サマ…。今オレは理解した。オレの兄サマはやっぱり凄い…っ。兄サマのような凄い人は世界中のどこを探したっていやしない。兄サマはオレにとっても克也にとっても、唯一無二の尊い存在なんだ。それが漸く分かったよ…。貴女には一生かかっても勝てそうにないな」
モクバの言葉に瀬人は自信に満ちた顔で微笑んだ。
その笑顔を見ながら、モクバは密かに心の中で兄に別れを告げる。
さようなら兄サマ。
オレの大事な大事なたった一人の兄サマ。
貴女は黒龍国で、オレは白龍国で、それぞれ別の地で国を治めていくけれど。
それでもオレは願っている。
貴女が幸せであり続ける事を。
そして貴女の魂が永遠に気高くあり続ける事を。
そんな貴女に別れを告げて、オレは全ての迷いを捨てて、自分の道を真っ直ぐ進む事にします。
さようなら。さようなら。
オレの大事な…兄サマ。
さようなら。
それが、若き白龍国法皇が真の大人に成長した瞬間であった。
そしてそれから少し経った頃。
瀬人に一つの奇跡が起きようとしていた…。