誓いの泉の前で、セトは守り人の前に立っていた。
「通してくれ…」
鋭い声でセトが命令するのに、守り人は両手を広げて誓いの泉への道を閉ざしている。
「何しにいらっしゃったのか、皇后陛下。この誓いの泉は神聖な水。結婚の儀の時はお見逃し致しましたが、これ以上貴方にこの水には触れさせません。愚かな戦争を引き起こし、何千人もの人間を死に追いやった貴方など、黒龍の息吹に触れることすらおこがましい…っ!」
もう随分長いこと、この睨み合いは続いていた。
その為、セトは焦っていた。
時間が無い…っ!
少しでも早く願いを掛けなければいけないのに…っ!!
次の瞬間、セトはその場で膝を付き、守り人に対して深く頭を下げた。
「頼む…、通してくれ…っ! カツヤの命が危ないんだ…っ! オレを庇って…オレの代わりに毒を飲んで、今意識不明の重体だ…っ!! オレはカツヤを救いたい…っ!! どうか願いの儀をオレにやらせてくれ…っ!!」
セトの言葉に守り人は漸く両腕を降ろした。
「皇帝陛下の事は…私も先程知らせの者から聞きました。皇后陛下…、貴方は本当に皇帝陛下の為に願いの儀をやり遂げる覚悟がおありか?」
「勿論だ…っ!!」
守り人の言葉にセトが必死で叫ぶ。
その青い瞳に浮かんだ強い意志に、守り人はスッと道を開ける。
「分かりました…。ではお行きなさい。行って黒龍に願いをおかけなさい。ただし罪人である貴方の願いを真紅眼の黒龍がお聞き届けになるとは限りません。それでも良いなら…行って願いをかけるといい」
守り人の言葉にセトは頷くと、その場で服を全部脱いで誓いの泉を渡っていった。
泉の中の小島に辿り着き、セトは黒水晶の表面にそっと触れる。
その途端何かに弾かれたように身体が飛ばされ、後ろの芝生の上に転がってしまった。
「…っ!?」
突然の事に焦りながらも、慌てて起き上がって前を見ると、黒水晶の代わりにそこには巨大な黒龍が一匹存在した。
大きく羽を広げ、紅い瞳をギラギラと燃やしながらこちらを睨んでいる。
「ぁ…っ!」
その身体から放たれる威圧感に耐えきれなくて、セトの身体は動くことが叶わない。
半身を起こしたまま震えているその身体に黒龍が近付き、やがて大きなかぎ爪を持った手を大きく振り上げるのが見えた。
殺される…っ!!
余りの恐怖に思わず強く眼を瞑り来るべき痛みに身体を硬くしたが、だがいつまでもその衝撃が襲ってくることはなかった。
恐る恐る瞳を開けると、そこには一匹の巨大で美しい白龍が、自分と黒龍との間に存在していた。
「青眼の…白龍…」
思わず呟いたセトに白龍が振り返り、その青い眼をスッと優しそうに細める。
『青眼の白龍…。そなた…そこにいたのか…。やはりこの者は白龍の魂を引き継ぎし者…』
半分意表を突かれ、半分予想していたかのように、黒龍は小さく息を吐く。
『白龍国の初代法皇に全ての力を与え、この世から消滅した青眼の白龍。時折その魂を引き継ぎし者の身に宿り、その者を生涯守り続けるという話は聞いていたが…。だが何故だ? そなたは今までその姿を一度たりとも現わしたことが無かった筈だ。それが何故今になって現れ、そして何故我を止めるのだ…白龍よ…』
『この子は私が護る子…。簡単に殺させる訳には参りません…。この子を護る為ならば、少ない力を解放し消滅する覚悟もございます』
『何故だ…白龍よ…。そなたは分かっているのか。その者は法皇という唯一無二の存在でありながら戦争などという愚かな事をしでかして、何千人という人間を死に追いやった大罪人なるぞ』
『この子はただ自国の民を救いたかっただけ…。それに罰ならもう受けています。皇宮にあっては周りの人間の蔑むような視線に晒され、そして何より愛する者を襲った悲劇に、この子の心はもう崩壊寸前にまで追い込まれています』
白龍に庇われ、お陰で漸く身体の自由を取り戻したセトは、ゆっくりと歩み出て黒龍の前で膝を折り深く礼を取る。
「真紅眼の黒龍よ…。オレは大罪を犯しました…。それは良く分かっております。ですからこの後、オレは貴方に何をされようとも構いません…っ!! だけど一つだけ…っ! たった一つだけ願いがございます…っ!! どうか…どうか我が夫カツヤの命を…お護り下さいませ…っ!!」
セトの必死の叫びに黒龍は暫く何かを考えていたようだったが、やがて深く息を吐き出すとセトに向かって話しかけた。
『ほぅ…、敵国の国主である我が子を、大罪人であるそなたが救おうと言うのか』
「カツヤは…、オレの全てだ…。戦争を起こし自国に攻め入ってきたオレを許し、命を助けてくれて、そして…愛してくれた…。カツヤがいたからオレは生きて罪を償う覚悟を背負うことが出来た…」
必死の形相で涙を流しながら縋り付くセトを、黒龍はただ黙って見詰めていた。
セトの目には嘘はなく、ただただカツヤに対する真摯な想いだけが強く伝わってくる。
その叫びは確かに黒龍の胸に響いていた。
「頼む…黒龍よ…。カツヤを助けてくれ…っ! オレはカツヤを…愛しているんだ。あいつを失ってしまうなど耐えられない…っ! それに…この国にはまだカツヤの存在が必要なんだ。黒龍よ、カツヤを救ってくれるならオレは何でも致します! この命が欲しいというのなら差し上げても構わない…っ!! だから…どうか…っ!」
強い意志を宿したセトの顔を見て、黒龍はその紅い瞳を緩やかに細めた。
『なるほど…よく分かった。それならば三年だ…白龍の子よ。三年間毎日我に願いをかけ続けるなら、その願い叶えようぞ。ただし一日でも休むと、皇帝の目は永遠に冷めることは無い。それでも良いなら願いの儀をするがよい』
そう言ってそのまま後ろを向き羽を畳んで黒水晶に戻っていく黒龍の姿に、セトは再び深く頭を下げる。
黒龍は黒水晶に戻り、白龍は何時の間にか姿を消していた。
セトはゆっくりと立ち上がるとそのまま黒水晶に近付いていく。そして水晶の角で指先を軽く切り、流れ出る血によって『願いの儀』という言葉とその下に自らの名前を書き込んだ。
「真紅眼の黒龍よ…。お約束は守ります…。必ず…」
消えていく名前を見ながら、セトは決心を固めるように小さく呟いた。
それからはセトは毎日のように黒水晶に祈りを捧げに来た。
それを上空から眺めて、瀬人はまるで自分の事のように思う。
三年の祈りの年月は、自分の状況と余りに酷似していた。
やがて場面が移り変わり、そこには三年後のセトの姿があった。
約束の三年目の名前を書き込むと、突如そこに真紅眼の黒龍が現れる。
「真紅眼の…黒龍…」
『白龍の子よ…。約束の三年目だな…。まさか本当にやり遂げるとは思わなかったぞ…』
「黒龍よ…、お約束は守りました…! ですからどうか…カツヤの命を…っ!!」
黒龍に縋り付くように訴えかけるセトを、黒龍は三年前とは違う優しげな目付きで見詰めていた。
『安心するが良い、白龍の子よ。皇帝は今頃目を覚ましているだろう…。そなたの祈りが彼を救ったのだ…。このあと感謝の儀をして皇帝の元へ戻るがよい』
直接精神に聞こえて来るその声に、セトは漸く安堵したように笑みを浮かべた。
そしてそのまま力を無くして、その場に膝を付いてしまった。
「あぁ…良かった…。これでカツヤは救われたのだな…」
『………』
「真紅眼の黒龍よ…、本当にありがとうございます…っ! これでオレは心置きなく死ぬことが出来る…」
『死ぬとは何事か? 白龍の子よ』
「何って…オレの罪は未だ消えてはいないのでしょう…? さぁ黒龍よ、あとは貴方のお好きなようにして下さいませ。オレの覚悟はもう…決まっております」
無抵抗のまま身体を投げだそうとするセトに、黒龍はフッ…と笑ってみせた。
その声に首を捻るセトに、黒龍は悟らせるようにゆっくりと言い聞かせる。
『白龍の子よ…。確かにお前の罪は償い切れてはいない…。人間の身には過ぎたる大罪、きっと来世にも持ち込まねばならぬだろう…』
「来…世…? オレが…このオレが犯した罪が…何の関係もない来世の人間にもたらされるというのか…?」
『そうだ。残念ながら来世のそなたは前世のそなたが犯した罪によって、生まれ出た瞬間から様々な試練に立ち向かわなくてはならなくなるだろう。だが嘆くな白龍の子よ。もし今のそなたと同じ試練を来世のおぬしも耐えきることが出来たなら…その時こそ我と白龍との力で本物の奇跡を起こしてみせようぞ』
「青眼の…白龍と…?」
『あやつもまた馬鹿な事をしでかしたものだ…。我からそなたを護る為に、未だ殆ど戻っていない力を使って現れたはいいが、そのせいでまた暫くは姿を現わす事も出来ぬ程疲弊してしまった…。次に姿を形作れるようになるには三百年程かかるのだろうな。だがもしその力を姿を現わす事では無く、我に協力して奇跡を起こす力に変換すれば…。来世のそなたにはきっと幸せが待っている事だろう。だから今生はもう普通の幸せを求め、静かに暮らしていくが良い』
黒龍はその大きな翼を広げて、地下洞窟の天井を見上げた。
それに釣られるように天井を見上げたセトに、黒龍は優しく告げる。
『さぁ、我はもう黒水晶に戻る…。あとは感謝の儀を行ない、念願の夫に会いに行くがよい…。あやつもそなたを待っておろうぞ…』
そう言って黒水晶に戻った黒龍に深く礼をしているセトを見詰めつつ、瀬人は意識が次第に浮上していくのを感じていた。
あぁ、またここで目が覚めるのだ…と、どこか冷静に感じながら目を瞑る。
今まで見た光景と黒龍が言った言葉で、瀬人は何となくだが感じていた。
多分、三百年前の愚皇であったこのセトとそのセトを愛したカツヤは、自分と克也の前世だったのだ。
黒龍の言っていた『同じ試練』とは、あの戦争で離れ離れになった三年間と、その祈りの日々の事だろう。
意識せずとも、三百年前のセトと同じ事を自分もしていたのだ。
ならば…黒龍がそのあと言っていた『本物の奇跡』とは一体何なのだ…?
瀬人が疑問に思った『本物の奇跡』は、その後暫くして彼等にもたらされることになる。