お許し下さい、我が守護龍よ。
彼に出会ってしまってから、私の運命は変わってしまいました。
敵であると知りながら、それでも彼を愛することを止められなかったのです。
お許し下さい、お許し下さい。
それでも私は彼を守りたいと思ったのです。
克也が無事戦争から帰って来て、そして漸く二人が結ばれたその日の夜から、瀬人は時々不思議な夢を見るようになった。
その夢はいつも同じ始まり方で、いつも同じように終わり目が覚める。
(あぁ…。またいつもの夢だ…)
眠りに入った瞬間から、瀬人の意識はまるで時を超えるように三百年前の白龍国に飛ばされていた。
始まりはいつも同じ。
まず祈りの言葉から始まるのだ。
お許し下さい、我が守護龍よ…と声が聞こえる。
誰かが言っているその守護龍が、真紅眼の黒龍の事なのか、それとも青眼の白龍の事なのかは分からない。
だけどその祈りはいつも真摯で美しかった。
そしてその祈りの言葉が終わるのと同時に、一人の男が現れる。
男は法皇宮のテラスから冷たい雨の降る街を見下ろし、そこから見える惨状に悲しげに溜息を吐いていた。
この年は平年以上に雨が長く続き、ただでさえ痩せた土地で無理に作っている作物が不作となり、白龍国には飢饉が訪れていた。
生まれたばかりの赤ん坊やまだ幼い子供達、体力のない病人や老人が次々と餓死していく。
建国以来ずっと法と規律を守り清廉潔白な国家作りを守って来たが、貧しさは無慈悲にも民の命を次々と奪っていく。
その様もいつも黙って見ていることしか出来ず、男は悔しげに唇を噛みしめた。
法皇として白龍国を統べる立場に君臨しながら、この状況に対して彼は全くの無力であった。
世の無情と悔恨と焦燥と、そして何より悲哀が胸を締め付ける。
降り続ける冷たい雨を睨み付けるように眺めていると、やがて背後のドアが開き白龍国軍の将軍が姿を見せた。
「セト様」
呼びかけられた声に振り返る。
「将軍か。よく来てくれたな」
「はい猊下。私めに火急の用事とは…一体どのようなことで?」
セトと呼ばれた男は振り返り、やって来た将軍をじっと見詰めた。
そして何かを決心したように口を開く。
「戦争を始める。この国の民をこれ以上死なせない為にも、あの豊かな国を…黒龍国を手に入れるぞ」
法皇宮のテラスで繰り広げられるこの光景を上空から見下ろして、瀬人は確信する。
これは三百年前の時の記憶。
そして自分にそっくりなこの男は、かの有名な愚皇なのだと。
セトの言葉に将軍が頷き部屋を出て行くと、突如風景ががらりと変わる。
場所は法皇宮の謁見の間。
法皇宮は既に入り込んだ黒龍国軍の手によって占拠されており、謁見の間には二人の男が向かい合わせで立っていた。
一人は短剣を持ちそれを相手に向けているセト。そしてもう一人は黒い鎧に緋色のマントをはためかせている克也にそっくりな男だった。
「無駄な抵抗は止められよ、法皇殿。もう戦争は終わりだ。これ以上の犠牲者は出したくない。例えそれが貴方であっても…だ」
克也にそっくりな男がセトを止めようと一歩前に出ると、逆にセトは一歩下がり、だが短剣を下に降ろすことは無かった。
「黙れ…っ! あんな豊かな国に住んでいる者が我らの苦悩など理解出来るものか…っ!」
「真の理解は出来ないかもしれない。だが、この国の民が飢えに苦しんでいることは分かる。貴方がその為に戦争を起こした事も…。この国は我が黒龍国が救おう。約束します。だからそれ以上の抵抗はもう…」
「煩い…っ!! このまま白龍国が貴様の国の属国になるくらいなら…せめて皇帝である貴様の命だけは貰っていく…っ!!」
震える声で叫んで短剣を目の前の男に突き刺そうと走り出した。
だが寸でのところで手首を捻られ、その余りの痛さに持っていた短剣を床に落としてしまう。
カツーンという軽い音を立ててそれが床を滑って行くのを、セトは腕の痛みに苦しげに呻きながら見ていることしか出来なかった。
悔しげに俯いているその顔を、ふと皇帝の手が持ち上げまじまじと見詰める。
そこで初めて青い瞳と琥珀の瞳が交差した。
「………」
「………」
二人とも何も言えず暫くそのまま動けなかった。
どのくらい時間が経ったのだろう。やがて黒龍国の皇帝が腕の力を緩めて、脇に控えていた兵士の元に連れて行った。
「とりあえず法皇猊下を牢にお入れしとけ。ただし高貴な身分のお方だから、決して乱暴はしないように。丁重に扱いなさい」
兵士の手によって連れて行かれるセトを見送った皇帝は、側にいた側近に指示を出す。
「おい、お前に頼みがある」
「なんでございましょうか、カツヤ様」
「今すぐに本国に連絡を。あの法皇にそっくりな囚人を寄越せとな。青い眼の持ち主で、髪型や髪の色等もなるべく似せてくるように命じろ。ちなみに何か下手な事を言われたら不味いから、喉を焼いて言葉を話せないようにしておけ。なるべく殺しても構わないような重罪人がいい」
「替え玉…ですか?」
「あぁ…。オレはあの人を死なせたくはない…」
皇帝らしく威厳を持って話すその男に、上空から見ている瀬人は既視感を覚える。
(克也…?)
思わず心で呼びかけると、また場面が変わった。
黒いフードを目深に被り、セトは替え玉と入れ替えに外に出てきた。
そのまま克也と共に馬車に乗り込み、白龍国を出て黒龍国へ向かう。
流れる景色を馬車の窓から眺めつつ、セトはその美しい光景に見とれていた。
「美しい…豊かな国だな」
「そうか?」
「あぁ…。我が国とは全然違う…。この国の民は飢饉に苦しんだ事など…あるのだろうか?」
「それなりにあるとは思うが」
「あぁ…。それでも白龍国よりはマシなのだろうな」
セトは風景から目を逸らさず、淡々と喋り続けた。
「皇帝よ。オレはどうなるのだ? 黒龍国で公開処刑か?」
「そんな事はしない。貴方は人質として我が国に嫁いで頂きます。オレの妻に…なって貰います」
カツヤの言葉にセトは目を丸くして、漸く目の前の席に座っている男に視線を向けた。
「貴様…正気か…? オレは男だぞ…」
「オレはいつだって正気だよ。それにしてもおかしいな。あの時感じた気持ちは同じだと思ったのに」
「何が…だ…?」
「誤魔化すなよ。あの時オレに惚れただろ? まぁオレもそうなんだけど」
妙に自信たっぷりにそう言われ、セトは二の句が告げなくなった。
自分の言うことに間違いは無いという自信満々な顔をされ、ふと可笑しくなってプッと吹き出してしまう。
セトが笑い出したのを見て、初めてカツヤが焦りの色を見せ始めた。
「え…? もしかして違ったのか…?」
心配そうに尋ねるカツヤに、セトは首を横に振った。
「いや、違わない。多分それで合っている…」
セトの答えにカツヤが嬉しそうに微笑んだ。
二人が初めて幸せそうな顔で向かい合っているのを見届けると、そこでまた光景が移っていく。
次に見えたのは皇宮内の光景だった。
皇宮内にいる大臣や神官それに女官など全てが、皇后としてのセトの存在を無視し続けていた。
敵国からやって来た上に男であるセトには、誰も彼もが冷たい視線を向け、用事が無い限り彼に近付こうともしない。
しかもどこから漏れたのか、セトが元白龍国の法皇であるという事は既に周知の事実となってしまっていた。
その為、本来ならば皇帝や皇后の行動の記録を取らなければならない係の者も、セトの存在自体を記録として残したくないらしく一切書物に記す事もなかった。
唯一皇帝から皇后の世話を頼まれた専属女官のイシズという女性だけは、セトに好意を持って付き合っていた。
「セト様。湯浴みの時間でございます。お着替えを手伝いますので、さぁこちらに…」
跪いてセトの服を脱がそうとするイシズから、セトは慌てて一歩離れる。
「い…いいと言っているだろう…! 湯浴みや着替えくらい自分一人で出来る…っ!」
「そうは参りません。セト様は皇后で、私は女官でございます。私にはセト様のお世話をする義務がございます」
「いいと言っているのだ…っ! 皇后とは言ってもオレは男なのだ…っ。女性に服を脱がして貰うなど…ましてや湯浴みを手伝って貰うなど、とんでも無い事だ!!」
頑なに手伝いを拒むセトに、イシズは苦笑しながらそれでも無理矢理手伝っていった。
男だということもあるが、白龍国の元法皇という肩書きを持っている為に、セトは皇宮の奥から姿を現す事が出来なかった。
セトに否定的な視線の中で、ただ黙って毎日を過ごしていくしか無かったセトに、イシズの存在はどれだけ大きかった事だろう。
まるで白龍国にいた頃の自分を思い出して、その光景を眺めていた瀬人は溜息をつく。
そして再び場面が変わるのを感じていた。
新たに目の前に広がった場面は、皇后の私室の中だった。
真っ青な顔をして椅子に座っているセト、そして目の前には含みのある笑みを浮かべた黒龍国の大臣達が数名。
セトの前のテーブルには一杯のワインが置かれていた。
「さぁ、皇后陛下。我々からの贈り物のワインです。質の良い葡萄が採れた七年もののワインなのですよ。どうぞこの場でお飲み下さい」
彼等の言っている『七年もののワイン』が何を指しているのか、セトにはよく分かっていた。
そしてこのワインには毒が入っていることも。
よりにもよってイシズのいない隙を狙ってやってきた大臣達は、堂々とこの場でセトを暗殺しそれを見届けようとしていた。
あぁ…だがそれはそれで良いのかもしれない。
そう思いながら、セトは震える手でテーブルの上のワイングラスを引き寄せた。
戦争が終わり、今になって漸く思い知らされたのだ。
自分が如何に愚かな決断をし、どんなに悔やんでも取り返しの付かない事をしてしまったのか。
戦争によって死んでいった幾千の人達は戻っては来ないが、それでもこの命一つで少しでも詫びることが出来るなら…それでもいいと思ったのだ。
グラスを持ち上げ縁に唇を付けようとしたその時、突如部屋の扉が開いてカツヤが乗り込んできた。
「セトッ!! 飲むな!!」
カツヤの叫びにビクリと反応し、セトは身体を固めてしまう。
その間にセトの近くまでやってきたカツヤは、セトの手からワインの入ったグラスを取り上げた。
「大臣…。これは如何なる騒ぎだ? 説明願おうか?」
琥珀の瞳に怒りの赤を混ぜながら睨み付けるカツヤに、大臣達は慌てて膝を折り臣下の礼を取った。
「皇帝陛下…。我々は別に何もしてはおりませぬ…。ただ上等のワインを皇后陛下に飲んで頂きたくて…」
「そうか。それにしてはこのワイン、まるで毒入りのように見えるがな」
「と…とんでもございません!! 毒入りなど…滅相もない。誤解でございます、皇帝陛下」
「その言葉…信じても良いのだな」
「勿論でございます…!!」
冷や汗を掻きつつ必死に言い訳する大臣達に、カツヤはそれでも鋭い眼光を緩めることはしない。
そして何を思ったか、ワインのグラスを自らの口に近付けた。
「陛下…? な…何を…?」
「お前達が言うこの上等のワイン。毒入りで無いならオレが飲んでも支障はない。ん? そうであろう?」
「カツ…ヤ…? や…やめ…っ!!」
セトはカツヤの次の行動を危惧して止めようとしたが、だがそれは叶わなかった。
持っていたワイングラスを傾けてその中身を一気に煽ったカツヤは、やがて苦しげに呻いたかと思うとその場に倒れ込んだ。
カツヤは多分、飲んだワインが毒入りであった事を証明する為にわざと飲み、それを証明した後は直ぐに吐き出すつもりであったに違いない。
だが大臣達がセトがそれをするのを阻止する為に速攻で意識を失わせる薬も入れていた為、毒は吐き出される事もなくそのままカツヤの身体を蝕んでいった。
大臣達が慌てふためいて皇帝の身体に縋るのを、セトは棒立ちになって見ていることしか出来ない。
い…や…、いやだ…っ!
だ…誰か…っ!!
誰か助けてくれ…っ!!
誰か…っ!! カツヤを助けてくれ…っ!!
セトの心の悲鳴が痛いほど流れ込んできて、その光景を見ていた瀬人も胸を押さえて蹲る。
心臓がバクバクと高鳴るのを押さえつけて顔を上げると、そこはまた違う光景になっていた。