克也が皇都に帰ってきたのは、戦争終結から二ヶ月後の事だった。
西の大河沿岸部で三年もの長い間一進一退の攻防を続けていたのだが、その均衡状態が崩れたのは突然の事だった。
何でも克也と同じように前戦に赴いていた冥龍国の国主が突然心臓の病で倒れ、それによって冥龍国の軍が統率力を失ってしまったのだ。
それに乗じて黒龍国軍は直ぐさま大河を渡り敵の本陣へと直接乗り込み、僅か数週間で相手側を降伏させる事に成功。戦争は無事に終結したのである。
その後は沿岸の町を拠点として、冥龍国側と和平交渉をし続けた。
現在の国主を戦犯として幽閉し、新しい国主を選挙によって選出する事。そして暫くは黒龍国の属国としてその内政を常に監視される事を条件に、冥龍国は国自体を潰されることを免れたのである。
本来であれば戦争を引き起こした国主の処刑は必要だったのであろうが、心臓を病みこの先長くないであろう身を考えると、本国での幽閉が最良の措置と思われた。
判決を受けた国主は何も言わずその措置を受け入れ、冥龍国本隊とこれから冥龍国自体を監視する為に向かわせた黒龍国の軍隊に連れられて、自国へと帰って行った。
この長い戦争に終止符を打てた直接の原因はこの国主の突然の病にあった訳だが、実は白龍国軍の働きも大きかった。
西の大河沿岸を常に警備していてくれた白龍国軍は、時折諜報活動をする為に入り込もうとしていた冥龍国側の間者や逃げ出してきた兵士を捕らえ、その者から黒龍国側に有益な情報をいくつも吐き出させる事に成功していた。
お陰で後半戦は常に黒龍国にとって有利な展開となり、件の国主の病を知ったのも実は白龍国軍の手柄だったのである。
それを知った克也は未だ誰にも漏らしてはいないが、この先数年で白龍国を属国から解放する事を強く心に決めた。
やがて全ての和平交渉が終わり、自分とそして兵達の疲れを癒す為に数日近郊の街で休暇を取り体力を回復した克也は、戦争終結から二ヶ月後、本部隊を引き連れて漸く無事に皇都へと帰って来た。
本当だったら直ぐにでも瀬人に会いに行きたかったものの、一般兵士と違う身分の克也にはそれが許される筈も無く。一度別部屋で湯を使い身を清めた後は、今も謁見の間で留守を預かっていた大臣や神官の報告に耳を預けていた。
それでもその報告を退屈せずに聞けていたのは、大臣や神官の各々が皇后である瀬人の功績を褒め契っていたからだ。
皇帝が戦争で留守の間、皇后が如何にして黒龍国とその民の為に尽力してくれていたか、彼等は事細かに報告していったのである。
夕日が完全に地平線へと没する頃、最後に報告を済ませた大臣が出て行って、克也は謁見の間に一人残された。
久しぶりの玉座に深々と座りながら、先程誓いの泉でのバクラとの会話を思い出す。
今日の午前中に皇都に帰ってきた克也は『戦果報告の儀』を行なう為、その足で誓いの泉へと向かっていた。
地下へ続く階段を下りきった時、克也の到着を待っていたバクラが深く頭を下げて臣下の礼を取った。
「お久しぶりです、皇帝陛下。ご無事でお戻り何よりでした」
「あぁ、お前も留守中ご苦労だったな」
「戦果報告の儀…ですか?」
「その通りだ。いつものように服を預かっていてくれ」
バクラの質問に答え、克也は慣れた風に身に纏っていた服を脱ぎ始める。
露わになった克也の身体を見て、後ろでバクラが感心したように溜息を吐いた。
「随分と逞しくなられましたねぇ…。背も伸びたようですし、三年前とは筋肉の付き方が全然違います」
その声に克也は振り返り苦笑して答える。
「そりゃそうだろうよ。戦地でずっと身体動かして来た訳だし、気付いたら二十歳になって肉体的にも大人になっていたしな」
「まぁ、そうですよね。でもその割りには傷が少ないんじゃないですか? 細かい傷は結構あるようですけど、それにしたって大きな傷が一つも無い。前戦で戦ってた割りには幸運だったのでは?」
「そうなんだよなぁ…。オレも不思議に思っていたんだが、まるで何かに守られているように致命傷を負うことは無かった」
「真紅眼の黒龍ですよ」
「え?」
突如出てきた真紅眼の黒龍の名に、克也は思わず目の前のバクラの顔を凝視してしまう。
そんな克也にバクラはクスッと笑って、面白そうに言った。
「真紅眼の黒龍が貴方を守っていたんですよ。間違いなくね」
バクラの言葉に首を捻りながらも、克也は何となくそれに納得した。
「ま…まぁ…。こう見えてもオレは黒龍国の皇帝だからな…。自国の皇帝を黒龍が守ってくれるのは当然だろう?」
「そうですかね。真紅眼の黒龍はこの国の大地となった時、その力の殆どを失っている筈ですが…。それなのにその黒龍が貴方を守る程の力を得たのは何か理由があったのではないでしょうか?」
「何が言いたいんだ、バクラ?」
「さぁてね。オレが言えるのはここまでですよ。あとはご自身でお確かめ下さい」
意味深な笑顔を浮かべたままそれっきり口を閉ざしてしまったバクラを多少不満に思いながらも、瀬人は儀式をする為に泉へと踏み込んだ。
三年ぶりの黒水晶は相変わらず冷たい無機質な冷たさを克也に伝えていたが、何故かそこに伝わる微かな気配に覚えがあるような気がしてしまう。
「そうだ…。確かにオレはこの気配を知っている…。戦場にいる間、これはずっとオレの側に居て離れなかった…」
思わず声に出して呟きながら、克也は何度も黒水晶の表面を撫で擦っていた。
結局その後、泉から帰ってきた後もバクラは何も教えてはくれなかった。
それに不満を持っていた訳では無いが、何となく居心地の悪さを感じずにはいられない。
まず皇帝である自分ですら知らない何かを、守り人のバクラが知っているという事が気にくわない。
もう一度誓いの泉へ行ってバクラに確かめてこようと玉座を立った時、不意に後ろから掛けられた声に思いっきり振り返った。
「陛下…っ!」
そこにいたのはすっかり大人の女性として成長していたマナだった。
久しぶりの乳兄弟の姿に、克也も顔を綻ばせる。
「マナ…っ! 久しぶりだな。元気にしていたか?」
「はい! 皇帝陛下もよくご無事で…っ!」
「オレが留守にしている間、ずっと瀬人の側にいてくれたんだってな…。大臣や神官達から聞いたぞ」
「勿論です。あの方は私の大事な主人ですから。それにしても本当に良かった…。瀬人様も私もこの三年間、ずっと心配していたのですよ…」
「瀬人…っ! そういえば…瀬人は…?」
涙ぐむマナの言葉を聞いて、克也は慌てて周りを見渡した。
だがそこにはマナが一人でいるだけで、瀬人の姿は無い。
シンとした謁見の間の空気に当てられて、克也は深く溜息を付いて肩を落とした。
「そういえば…オレがここに帰って来てから一度も瀬人は姿を見せないな…。ついに嫌われてしまったか」
本気で落ち込んで呟いた克也に、マナは目を大きく開き何度も瞬きを繰り返した。
そして次の瞬間にはプッと吹き出してしまう。
「おい、マナ。いくらなんでもそれは失礼じゃないか…?」
「も…申し訳ありません。だって陛下がありもしないご冗談をおっしゃるものですから…」
「今のは冗談ではないぞ」
「いえいえ、まさかそんな事。瀬人様が陛下をお嫌いになるなんて事、ある筈がございません」
マナは首を横に振りそう言うと、克也の正面に立ってその顔をじっと見詰め、そして優しげに微笑んでみせた。
「陛下…。瀬人様はこの三年間、戦地での陛下の身の安全を祈る為に、誓いの泉にて願いの儀を行なっておりました」
「………っ!?」
その時克也を襲った衝撃は、冥龍国侵攻の報を聞いた時以上だったかもしれない。
一瞬、先程誓いの泉でバクラが浮かべた笑顔を思い出した。
あの意味深な笑顔はこういう事だったのか…と、漸く納得する。
三年という時間が決して短いものでは無い事は、戦場で戦っていた自分が良く知っていた。
その長い時間を瀬人は毎日毎日、自分の為だけに祈りを捧げ続けてくれていたというのか…。
克也はその余りの驚愕と感動で腰が抜け、情けない事に力を無くし再び玉座に座り込んでしまった。
「瀬人が…? 本当に…?」
「はい。陛下が無事にお戻りになったのは瀬人様のお陰でございますよ? あぁ、それからこれを。アイシス様からお預かりして参りました」
震える手でマナが手渡してきた書類を受け取る。
捲ってみると、それは瀬人の診断書だった。
自分が戦地に行っていた間の三年間の診断が、事細かに記されている。そしてその最後の頁に書かれていた診断に、克也は息を飲む。
余りの嬉しさに大声で叫び出しそうになって、慌てて自分の口を掌で押さえた。むしろ、そうするので精一杯だった。
何の反応も出来ず、ただ手に持った診断書を眺めながら嬉しさに震えている克也の姿を見て、マナが微笑んで静かに告げた。
「瀬人様は…。先程湯浴みを済まされて、今は私室にて陛下を待っていらっしゃいます。早く行って差し上げて下さい…陛下」
そして深々と頭を下げたマナに、克也は笑みを浮かべ黙って頷いた。
重厚な扉を開き克也が私室に入ると、灯りを落とし薄暗くなった部屋の奥に薄い夜着を纏った瀬人が立っているのが見えた。
瀬人の方も克也に気付き、そっと膝を折って臣下の礼を取る。
「陛下…。ご無事でお戻り何よりでございました」
そう言って深々と頭を下げる瀬人に、克也はゆっくりと近付く。
「瀬人…。オレの留守中色々とご苦労だったな。お前の功績については大臣達に聞いたぞ。お前がどんなにこの黒龍国と民の為に働いてくれていたか、オレもそれを聞いて嬉しかった。何か褒美を取らさないといけないな…」
克也の言葉に瀬人は黙って首を横に振る。
「褒美なんて…いりません。それがオレの役目だったのだから…」
頑なな瀬人の態度に克也は苦笑して、目の前に膝を付いて身を屈めた。
「瀬人…。お前やっぱり怒っているのか?」
「何の事でございましょう」
「何って…。だって態度とか言葉遣いとかがさ…。一人にさせて…悪かったよ」
「謝ってなど欲しくありません。貴方はこの黒龍国とそして白龍国を守る為に、皇帝として当然の事をしたまで…。そんな…そんな事で…オレが怒ったりする筈ないじゃないか…っ!!」
顔を俯けたままの瀬人の肩が震えているのを見て、克也は慌ててその顎に手を伸ばしツッと上に持ち上げる。
窓から入ってくる満月の月明かりに照らされたその顔は、涙で濡れそぼっていた。
今まで無理に堰き止められていた想いが決壊し、濁流となって二人を襲っていく。
「瀬人…っ!」
思わず強く名前を呼ぶと目の前の身体が突然動いて、気が付けば強く抱き締められていた。
「克也…っ!! 待って…いた…っ! オレはずっと…待っていたんだ…っ!!」
身体を震わせ叫ぶ瀬人を、克也も力強く抱き締める。
ずっとずっと待っていた。
この刻を。
この瞬間を。
離れ離れになっていた三年という長い時間を埋め尽くすように、二人は力を込めて互いの身体にしがみついていた。
泣き止むことなくしゃっくり上げる肩をそっと包み、克也は瀬人の身体を少し己から離した。
そして涙で濡れるその顔に自らの顔を近付け、そのまま紅い唇に吸い付いた。
少し冷たい柔らかい唇に何度か触れ合わせるだけのキスをし、そのまま薄く開いた唇の間から舌を差し込む。
まるで三年前のあの別れの夜のように、互いが互いを求めるように舌を絡めていく。
その間にも瀬人の涙は止まることはなく、口の中はすっかり涙の味になってしまっていた。
腕の中の身体がカクリと力を無くしたのを感じて、克也はそっと唇を離す。
潤んだ青い瞳で自分を見詰める瀬人に優しく微笑みかけ、克也はその細い身体に手をかけ横抱きにし立ち上がった。
「軽くなったな…。少し痩せたか?」
「お前が心配ばかり掛けさせるからだ…」
「そりゃ悪かった。で、寝室は東の部屋でいいのか?」
顔を赤くしながらも頷く瀬人を見て、克也も嬉しそうに笑うとその足を東の寝室へと向けた。