*奇跡の証明(完結) - ページをめくる - 第十六話

「もう宜しゅうございますよ、皇后陛下」
 アイシスの声に瀬人はゆっくりと寝台から起き上がった。
 側に控えていたマナに夜着を整えて貰いながら、カルテに何かを書き込んでいるアイシスに「どうだ?」と声をかける。
 その声にアイシスは嬉しそうに振り返り、瀬人に向かって優しく笑いかける。
「はい、何も問題ございません。皇后陛下のお身体は女性としてもう充分に成熟なさったようですわ。半年前に私が下した診断は変わりません。これでいつ皇帝陛下が帰っていらしても安心ですわね」
 アイシスの言葉をありがたいとは思うものの、だが瀬人は寂しそうに微笑むしかなかった。


 西の隣国冥龍国との戦争が始まって早三年。戦争は一向に終わる気配を見せなかった。
 初めは攻め込まれた側の黒龍国が苦戦をしいられていたが、最近では黒龍国側が圧倒的優位に立っているらしい。
 だがそれでも戦争は終わらない。
 負傷兵や戦死者が増え、それに対する保証などで瀬人も毎日忙しく公務を行なう日々が続いていた。
 普通、戦争がこれだけ長引けば国内の物価指数も高くなり市民の生活にも影響が出てくるはずだが、そこは瀬人の手腕で戦争前とほぼ変わらぬ物価水準を守り抜いている。
 幸運な事に、この三年間は気候に恵まれ作物が豊富に取れた。その作物を白龍国に輸出し、代わりに鉄などの鉱物を大量に輸入する事によって戦争で使う武器や防具を精製し、それが間接的に前戦で戦っている兵士達の命を守る事にもなった。
 西の大河沿岸を警備する白龍国軍も、密かに忍び込んでこようとしていた冥龍国側の間者等を捕らえ、黒龍国側に有益な情報を吐かす事で戦争に一役買っていたと言える。
 更に不思議な事に、戦争に直接参加していない白龍国でもここ最近相次いで新しい鉱脈が発見され、そこから発掘される鉱物がまた国を守る為に使われるという好循環に恵まれていた。

「多分…もうすぐ戦争は終わりますよ」

 沈んでしまった瀬人を慰めるようにマナが呟く。
 その声に「だといいがな」と自嘲気味に笑って、瀬人は衣服を整え立ち上がった。
「瀬人様、誓いの泉に行かれるのですか?」
 心配そうに顔を覗き込むマナに安心させるように笑って、瀬人は頷いた。


 三年という時間は決して短くはない。
 瀬人の身体に異変が起こったのは、克也が戦地へ行ってしまってから僅か半年後の事だった。
 身の内から流れ出る血液に戸惑いマナに助けを求めたのだが、それを知ったマナが嬉しそうに笑ったのをよく覚えている。
 それから少しずつ少しずつ、瀬人の身体は成熟していった。
 皮肉にも克也と離れる事により、女として愛する男を想う気持ちが強まって、瀬人の女性部分が急激に成長していったのだ。
 最初は不定期だった月経も、その後はきちんと定期的に訪れるようになり、今ではアイシスが自信を持って許しを与えるほど瀬人の身体は成熟した。
 だというのに、肝心の克也がまだ帰っては来ない。
 真紅眼の黒龍の守りがあるからか、戦場にいる克也が重篤な傷を負ったという話はついぞ入っては来なかった。
 だが最後まで気は抜けないと、瀬人はこうしてきっちり三年間、毎日黒水晶に祈りを捧げている。


 誓いの泉へ行き、臣下の礼を取り出迎えたバクラに脱いだ服を預ける。そしていつものように冷たい水に分け入り、中央の小島の柔らかい芝生を踏んだ。
 真紅眼の黒龍の幻は、あの最初の日以来、瀬人の前に現れることは無かった。
 だがそれでも瀬人は黒龍を信じ、ただひたすら毎日祈り続けた。
 今日もいつもの様に祈りを捧げようと黒水晶の表面に触れると、ふとそこが温かいのに気付く。慌てて掌を押し当てると、確かにあの日と同じように鼓動を感じる事が出来た。
「真紅眼の黒龍…?」
 思わず名前を呼ぶと、途端に目の前の風景がぐにゃりと歪み、次の瞬間には目の前にあの黒龍の姿があった。

『久しぶりだな…、白龍の子よ』

 相変わらず精神に直接語りかけてくるその声に、瀬人は慌てて膝を折った。

「お久しぶりでございます…、真紅眼の黒龍よ…」
『白龍の子よ。この三年間、よくぞ耐えて毎日我の元にやってきた。そのお陰で我も我が子を守る事が出来たのだ』
「は…? どういう事で…ございますか…?」
『気付かなかったのか。我が力は願いをかける者の祈りの力。祈る力が無くなれば我も力を充分に奮うことが出来ない。だから毎日祈り続けなければならないのだ』

 黒龍の言葉で瀬人は漸く長年の疑問が晴れたような気がした。
 何故願いをかける者が毎日かかさず祈り続けなければ願いが叶わぬのか。これは一種の生け贄の儀式と同等だと思っていたのだが、黒龍の言葉で漸く納得する事が出来る。

『我は三千年前、この地と同化して以来神聖な力の殆どを失ってしまった。故に、人の祈りの力を借りねば願いを叶えることは出来ぬ。言い換えれば、人が願えば願うほど、我は力を使うことが出来るのだ。白龍の子よ、そなたは本当に立派であった。そなたの祈りは実に真摯で、我に多大な力を与えたのだ』

 黒龍はどこか遠い目で地下洞窟の天井を見上げ、懐かしそうに言った。

『今から三百年前…。白龍の地から連れて来られた一人目の皇后が、皇帝のかかった難病を治癒させようと祈りを我に捧げる為にやって来た。あの時の祈りはそなたの祈りとよく似ていた…。お陰で少し力を取り戻した我は時の皇帝を救うことが出来たが、結局それ以来誰一人として我に祈りを捧げ続ける事を為し得た者はいなかった。そのせいでまた力を無くしてしまってたのだが、そなたの祈りのお陰で再び本来の形に近い力が戻ったようだ。感謝するぞ、白龍の子よ。よってもう祈りを捧げる事はしなくてもよい…』

 黒龍の言いたい事がよく飲み込めなくて瀬人が首を捻ると、黒龍は嬉しそうにバサリと音を立てて両翼を大きく広げてみせた。

『願いの儀は終わりだ、白龍の子よ。褒美として帰り道くらいはそなたの祈りによって甦った力を使い、我が子を最後まで守ってみせようぞ。今日は『感謝の儀』を行ない、後は戻って夫を迎える準備をするがよい』

 瀬人には黒龍の言った事がよく理解出来なかった。
 褒美…? 帰り道…? 感謝の儀…? 夫を…迎える準備…?
 気付けば黒龍の姿は無く、瀬人は黒水晶に縋り付くように座り込んでいた。
 ふと、泉の向こうからマナが大声で叫んでいるのが聞こえ、そちらの方に視線を向ける。

「瀬人様ぁ―――――っ!!」

 マナは泣きながら満面の笑顔を浮かべ、こちらに向かって両手をブンブンと振っていた。

「瀬人様ぁーっ!! たった今…知らせが参りました…っ!! 戦争が…、戦争が終わりましたっ!! 我が軍の勝利で戦争が終わったそうです…っ!! 勿論陛下はご無事だそうです!! あぁ…これで陛下が…、皇帝陛下が…戻っていらっしゃいます…っ!!」

 瀬人はマナの叫びを聞き、漸く事態を飲み込む事が出来た。
 戦争が終わった…。克也の身は無事…。そして真紅眼の黒龍は感謝の儀を行なえと言っていた。

「真紅眼の黒龍よ…。ありがとう…ございます…っ! 本当に…っ!」

 瀬人は黒水晶に縋り付いて崩れ落ちる。
 感謝の涙は暫く止まる事は…無かった。