冷たい水を掻き分けて、瀬人は一人中央の小島を目指す。
そこに聳える黒水晶に、願いの儀として克也の身の安全を祈る為に。
約半年ぶりに柔らかい芝生の上に上陸して、瀬人は相変わらず高く聳える黒水晶を下から見上げる。
周りで発光している水晶の光を受け、それはキラキラと美しく輝いていた。
無機質なその結晶を眺め、瀬人はそっと表面に手を当てる。
だが、その途端…。
「………っ?」
思いもしなかった温度を自らの手が伝えてきて、瀬人は一旦黒水晶から手を離した。
半年前、結婚の儀をした時に触れた黒水晶はヒンヤリと冷たい感触だった筈だ。それなのにたった今触れた黒水晶はまるで人間の体温の様に温かかったのだ。
恐る恐る、もう一度掌を黒水晶の表面にピタリとつける。
その掌が伝えてくるのはやはり人肌の温度。そして微かに、ドクン…ドクン…と鼓動すら感じられる。
「どういうことなんだ…?」
思わず口に出して呟いた瞬間、瀬人は突然激しい目眩に襲われた。
立っている事が出来ずその場に崩れ落ちる。
朝食を食べていなかったせいで貧血を起こしたのかと思ったが、その目眩は直ぐに治まってしまった。
「なんだったのだ…? っ…!!」
頭を抱えふらりと立ち上がる。そして瀬人は、目の前に広がっていた光景に驚いて立ち竦んでしまった。
目の前にいたのは先程まで高く聳え立っていた黒水晶ではなく、一匹の巨大な黒龍の姿。爛々とした真紅の眼がじっと瀬人を見詰めている。
「真紅眼の…黒龍…っ」
その圧倒される巨大さと威圧感に足が竦んで動けない。
ただ立ち竦む事しか出来ない瀬人に、目の前の真紅眼の黒龍はバサリと大きな翼を広げ、瀬人の心に直接話しかけてきた。
『ほう…、珍しいな。白龍の子がこの我に会いに来るとは…。しかもそなた、白龍の加護を受けているな。しかもそれは生まれつきのもの…。こんな強い加護を受けている者を見る事など、三百年前の皇后以来…。ますます珍しい事だ』
目の前の黒龍は珍しげにしげしげと瀬人を見詰め、スッとその紅い眼を細める。
その視線を受けて、瀬人も負けじと黒龍に視線を合わせた。
『さて、白龍の子よ…。我に何様だ…?』
「真紅眼の…黒龍…。貴方はこの黒龍国の守護龍であられる、真紅眼の黒龍であられるか…?」
『如何にも、白龍の子よ。そなたがここまで来たという事は、我に何か願いたい事があるのであろう…』
「その通りだ! 頼む、真紅眼の黒龍よ! 貴方も存じられていると思うが、我が黒龍国は隣国冥龍国との戦争に入った。その戦争に皇帝として前戦で戦う我が夫である克也の身を守って欲しいっ!」
『ふむ…面白い。この三百年間、何人もの女性が白龍の地からこの黒龍の地へ嫁いで来たが、そなたのように夫の身を案じて願いをかけに来た者は一番初めの皇后以外にいなかった。それ程までに夫を愛しているのか』
「当たり前だ…っ。克也は…オレの全てだ…っ! 克也がいなければ、オレがここにいる意味は無い!」
『ほう…。だがそなたは、我に願いをかけ続ける覚悟があるのか? 我に毎日会わなければならないという事だけではない。この国の為に生きる覚悟はあるのか』
「勿論だ!! この国に嫁いで来た時からその覚悟は常にオレの胸の内にある! オレの一生をこの国に捧げ、この国の為に生き、この国の土に骨を埋めよう! だがその為には…、その…為には…」
瀬人は一旦言葉を句切り、強く拳を握りしめる。
そして目の前の黒龍に向かって心の底から叫んだ。
「その為には我が夫である克也が側にいなければ意味が無い!! だから頼む真紅眼の黒龍よ!! どうか克也の身を守ってくれ…っ!!」
瀬人の必死の叫びに黒龍は暫く何の反応も示さなかった。
だがその大きな翼を再び閉じると、思いの外優しい声で瀬人の心に語りかけてきた。
『よく分かった…。ならば白龍の子よ、我に願いをかけよ。そなたが我との約束を守るなら、我もそなたとの約束を果たそう…』
「………?」
気がつくと、瀬人は黒水晶の前で呆然と立ち尽くしていた。
慌てて目の前の黒水晶に近付きもう一度その表面に触れてみるが、そこはもう無機質独特のヒンヤリとした冷たさしか伝えては来ない。
今まで自分が見ていたものは幻だったのかと思う。だが瀬人は、どうしてもそれを信じてみたい気になってしまっていた。
「真紅眼の黒龍よ…。貴方を信じます。どうか我が夫を…克也をお守り下さい」
瀬人は小さく呟くと、水晶の角で人差し指の先を切った。そして水晶の表面に『願いの儀』と書き、その下に自分の名前を書き込む。
名前を書いた途端それらの文字はまるで水晶に飲み込まれるかのように消えていき、瀬人の指の怪我もあっという間に治ってしまった。
「克也の命が守られるならば…、オレは何十日でも何百日でもここに参りましょう。ですから…どうか…っ」
真紅眼の黒龍に自らの強い祈りをぶつけるように、瀬人は黒水晶に向かって深く礼を取った。
瀬人にとってはそうする事だけが、今出来うる全てだったのだ。