*奇跡の証明(完結) - ページをめくる - 第十三話

 その日は朝から快晴だった。
 窓から見える高く澄んだ空を見上げて、瀬人は「酷い天気だな…」と自嘲気味に呟く。
 部屋にやってきたマナによって朝食を勧められたが食欲が無く、結局お茶だけを飲んで瀬人は式典の準備に取りかかった。
 マナや女官達の手に寄って豪華な絹の衣装を身に纏われ、金銀の髪飾りを付けて化粧を施して貰う。
 程なくして皇后として威厳のある眩いばかりの姿に仕上げられ、瀬人はマナによって皇宮広場が見渡せるバルコニーへと案内されていた。

「陛下や兵達はもう既に皇宮広場に集まっています。瀬人様のご到着を待って式典が始まる予定でございます」
「そうか」
「とても綺麗でございますよ、瀬人様。そのお姿を見たら陛下もどんなに喜ばれるでしょう」
「………」
「瀬人様…。どうか笑ってさしあげて下さい。戦場に行かれる陛下に、瀬人様の笑顔をいつでも思い出して貰えるように」

 マナの言葉に瀬人は下唇を噛み締める。
 果たして自分にそんな事が出来るのだろうか?
 克也は昨晩、自分は絶対に生きて帰って来ると瀬人に約束してくれた。
 だが、克也が戦死しないという保証はどこにもない。ましてや皇帝として兵を率いて前戦で闘うのだ。敵に真っ先に狙われるのは間違い無く克也であろう。
 克也が戦場で倒れる様を想像すると、途端に涙腺が緩んでくる。
 慌てて首を振りその映像を消し去って、瀬人はバルコニーに通じる小部屋へと入っていった。
 女官によって開かれたガラスの扉を潜り抜けバルコニーに出ると、途端に物凄い歓声に迎えられる。
 広場には皇帝と幾千の兵士達、更に黒龍国の大臣や神官達以外にも、戦争が開始されるかもしれないと数日前から黒龍国にやって来ていた白龍国の軍務大臣や副将軍などの姿も見えた。
 皇帝や皇后を称える声に鼓笛隊の奏でる勇猛な音楽が奏でられ、皇宮広場には紙吹雪が舞い放された白鳩が飛んでいたが、それら全てが瀬人の目や耳には何も入っては来ない。
 ただ眼下に見える幾千もの兵士達と、そしてすぐ下にいる黒馬に乗った克也の姿を見ている事しか出来なかった。

「聞け!! 我が国の勇敢なる兵士達よ!!」

 皇宮広場に克也の声が大きく響き渡り、途端に兵士達の声が止む。

「西の隣国冥龍国が愚かにも我が国を乗っ取ろうと大河を渡って攻め込んできた。我々は我が祖国と愛する家族を守る為、直ちに西の大河に向かいそれを迎え撃たなければならない! 我らが行かねばこの黒龍国はおろか、東の兄弟国である白龍国さえも冥龍国の手に落ちる事になる! それらはこの大陸の平和を揺るがす大罪だ!!」

 馬上で背筋を真っ直ぐ伸ばし、克也は腰元の剣を抜いて高々と天に掲げた。

「勇気ある者は我についてくるがいい!! 恐れることは何も無い!! 我らには守護龍『真紅眼の黒龍』がついているぞ!!」

 克也の言葉に皇宮広場が揺れ動くような歓声が轟く。
 兵士一人一人が武器を天に掲げ、皇帝と皇后、そして祖国『黒龍国』に万歳を声高に唱えていた。
 その歓声の中、克也が一度だけ振り返り、バルコニーにいる瀬人を見詰めた。
 そして優しく微笑み口の形だけで何かを言うと、再び兵士達に振り返り西に向かって「出陣!!」と持っていた剣を振り下ろした。
 それが合図となって軍隊が一斉に動き出す。
「瀬人様」
 後ろに跪いていたマナの合図により、瀬人はのろのろと右手を挙げて手を振り出した。
 果たして自分はちゃんと出来ているのだろうか?
 手は振られているか? きちんと笑顔を浮かべられているか? 涙を流してはいないか?

「マナ…。これでいいのか…? ちゃんと出来ているか…?」
「はい…。それで宜しゅうございます」

 後ろに控えているマナに小さな声で尋ねると、静かな声で答えが返ってきた。
 不安感に震え今にも崩れ落ちそうになる身体を何とか支え、瀬人は自らの役目を果たす為に無理矢理笑顔を作り手を振り続けた。
 皇宮広場の先にある凱旋門から兵士達と共に克也の姿が消えていく。ゾロゾロと長い列が次々と門の向こうに飲み込まれ、やがて全ての兵士達が皇宮広場を出て行った。
 凱旋門は大きな音を立てて閉じられ、街中の歓声も遠くに聞こえるだけとなる。
 だが瀬人はその右手を降ろすことが出来なかった。まるで身体が固まってしまったかのように自由が効かない。
「皇后陛下…。もう…宜しゅうございます…っ」
 後ろから涙を堪えたマナの声が聞こえ、それで漸く瀬人は身体の力を抜くことが出来た。
 右手を降ろしガクリとその場に崩れ落ちる。マナは慌てて瀬人に近寄り、その身体を支えて抱き締めた。

「オレは…ちゃんと出来たか…? ちゃんと笑って克也を見送れたか…?」
「はい…、はい…っ。ご立派でした…っ。瀬人様…っ」

 涙ぐんでいるマナに強く抱き締められながら、瀬人は呆然と先程の光景を思い出していた。
 克也は行ってしまった。
 最後に一度だけ振り返った時のあの口の形が「いってくる」と言っていたのを思い出して、また悲しくなる。
 彼は戦争に行き戦地で戦って、自分はこの皇宮で待っている事だけしか出来ない。
 だけど…本当にそれしか出来ないのだろうか…?
 皇宮に残っていながら自分にしか出来ない事があるのではないか…。
 そこまで考えて、瀬人は何かを思いついた様に顔を上げた。
 泣いている暇なんかない。事は急がねばならない。
 強い決意を抱いて、瀬人は自分に抱きつくマナの身体をそっと引き剥がした。

「マナ、先程の式典に白龍国の軍務大臣と副将軍が来ていただろう。今すぐそいつらを謁見の間に待機させろ」
「瀬人様…?」
「オレは一旦部屋に戻って書状を書いてくる。すぐ行くから謁見の間で待っていろと伝えておけ」
「せ…瀬人様…っ!? 一体何をなされるおつもりですか?」

 立ち上がり小部屋を出て行こうとする瀬人に、マナは焦って声をかけた。
 今の瀬人に今までの弱々しい雰囲気はどこにも見られない。それどころかその青い瞳は強い決意を秘めていた。
 マナの問いに瀬人は立ち止まり、振り返って微笑んだ。
 その微笑みを見てマナはハッとして胸を押さえる。瀬人の顔に浮かんでいた笑みは二年前、マナが白龍国で見た法皇であった頃の瀬人の微笑みそのものであった。

「オレはオレにしか出来ない事をする。それが黒龍国と、そして我が祖国白龍国を守る事だと信じている」

 マナにそう言うと、瀬人は意気揚々と小部屋を出て足早に私室へと向かった。